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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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『姉妹の肖像 ―― 絵の中の妹は笑っていた。現実では、いつも泣いていた。』

王都から馬車がやってきた日、屋敷の空気はいつもより張り詰めていた。

白い大理石の玄関に立つ母――クラリス・セレスティアは、

まるで彫像のように静かに微笑みながら、その客を迎える。


「ようこそいらして、マルヴェル殿。

 本日は我が娘たちの肖像をお願いしたく存じますわ。」


「ええ、もちろん。お二人の“理想の姿”を、永遠に残しましょう。」


その言葉に、リリアンヌの胸は小さく高鳴った。

“理想”――その言葉こそ、母が常に口にしてきた響きだったからだ。


「セレスティア家の娘として、生きる姿そのものが芸術でなければなりません。

微笑み、姿勢、声の高さ、呼吸の間――全てが美しくあること。」


母の言葉を一字一句違えず守ってきた。

今日という日は、その“努力”を形にできる日だ。

リリアンヌは白いドレスの裾を整え、完璧な姿勢で母の隣に立つ。


だが、もう一人――妹のセレナは違った。

彼女の瞳は不安に揺れ、白いドレスの裾を指でぎゅっと握りしめている。


「セレナ、どうしてそんな顔をしているの?」

リリアンヌが静かに問うと、妹は唇を震わせた。


「だって……こわいの。あの人、ずっと私を見てる……」


マルヴェルは柔らかく笑みを浮かべ、スケッチブックを開いた。

けれどその“観察される”視線が、幼い妹には恐ろしかったのだろう。


その瞬間――セレナの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


「泣かないで、セレナ。」

リリアンヌは反射的にそう言った。

だが、涙は止まらない。


「泣くのは――醜いことです。」


母の声が、鋭い刃のように空気を裂いた。

クラリスの白い指が、セレナの顎を持ち上げる。

その瞳は氷のように冷たい。


「絵は、家の“誇り”を残すものです。

 泣き顔を残すなど、恥以外の何ものでもありません。」


セレナはすすり泣きながら、小さく「ごめんなさい」と言った。

それでも涙は止まらなかった。


リリアンヌはその光景を見つめながら、なぜか胸が痛くなった。

理解できない――泣くのはいけないことだと、ずっと教えられてきたのに。

なのに、どうして。


(泣いてはいけないのに……どうしてこんなに、苦しいの?)


胸の奥で、微かに“何か”が震えた。

それは、氷の仮面の内側で芽吹いた、小さな“痛み”の種だった。



「もう少し……自然な笑顔をお願いできますか」

画家マルヴェルの声は、やわらかくも慎重だった。

だがセレナは、泣き腫らした瞳でどうしても笑えずにいた。

白い頬に涙の跡が残り、それを見たクラリスの眉が、わずかに動く。


「……リリアンヌ。」

「はい、お母さま。」


「あなたが先に笑って見せなさい。

 妹は、あなたを見習うのです。」


母の声は決して大きくない。

けれど、その“静けさ”こそが命令の証だった。

リリアンヌはわずかに息を吸い、鏡で何百回も練習した“完璧な笑顔”を浮かべる。


唇の角度、頬の高さ、まぶたの柔らかな動き。

それはまるで、機械仕掛けの花が咲くような微笑だった。


マルヴェルが静かに筆を動かし始める。

「……ええ、そう。とても美しいです、リリアンヌ様。」


だが、隣で妹がその笑顔を見つめていた。

セレナの顔は引きつり、涙をこらえようと唇を噛む。

それでも――姉の真似をするように、震える唇で笑顔を作る。


「そうよ、セレナ。いい子ね。」

クラリスの声は穏やかで、けれど冷たかった。

リリアンヌの胸の奥に、またあの痛みが広がる。


(私の笑顔を……見せるたびに、妹が泣く。)


(どうして? 私の笑顔は“正しい”のに。)


筆の音だけが、部屋の静寂を切り裂いていく。

マルヴェルはその姉妹を見つめ、ほんの一瞬、筆を止めた。

何かを言いかけたが――結局、何も言わずに再び描き始める。


その瞬間、リリアンヌは気づいた。

マルヴェルの瞳に映る“笑顔”が、どこか痛ましげであることに。


そして思った。

――この笑顔は、“幸福の絵”になるのだろうか。


けれど彼女の頬は、もう動きを止められなかった。

クラリスが見ている限り、笑う以外の選択肢など存在しないのだから。


絵の中では、ふたりの姉妹が穏やかに笑っている。

けれど現実では、その笑顔の裏で、ひとりが泣き、もうひとりが凍えていた。


肖像画が完成した日、屋敷には甘い絵の具の匂いが漂っていた。

白い布が外されると、そこには――

二人の姉妹が、並んで微笑む姿があった。


「……素晴らしいわ。」

クラリスの声は、静かな満足に満ちていた。

「これぞ理想の姉妹ね。セレスティア家の誇りとして、永遠に残るわ。」


マルヴェルは深く一礼し、絵筆を置く。

その表情はどこか影を落としていたが、誰も気づかない。

母の称賛が響く中で、リリアンヌはただ微笑み、セレナは黙って俯いていた。


その夜――

廊下にこぼれる灯の下、絵の前で小さなすすり泣きが聞こえた。

リリアンヌがそっと覗くと、セレナがひとり、絵の前に立っていた。


絵の中の彼女は笑っている。

けれど現実のセレナは、泣きじゃくる子どものように、拳を握りしめていた。


「セレナ……?」

リリアンヌが声をかけると、妹はびくりと肩を震わせた。


「お姉さま……どうして、絵の中では笑えるの?」

涙の粒が頬を伝い、床に落ちる。

「わたし、笑えないの。お姉さまのように、うまくできないの……」


その言葉に、リリアンヌの胸が締めつけられた。

(どうして――泣いているの?)

自分の笑顔が、誰かを救うはずだった。

けれど今は、その笑顔が妹を傷つけている。


彼女は思わず、セレナを抱きしめようと手を伸ばす。

けれど――その手は途中で止まった。


セレナが怯えたように、後ずさったのだ。

「だめ……触れたら、お母さまに怒られる……」

その小さな声が、刃のように静かに響いた。


リリアンヌの腕が宙で凍る。

掌の先が、急に冷たくなる。

――あの“白い指”の支配が、もう妹にまで届いている。


絵の中の二人は微笑んでいる。

けれど、その笑顔はまるで檻の鉄格子のようだった。


(母の“完璧”は、私だけじゃない。

セレナの心まで、縛っている……)


リリアンヌはゆっくりと視線を絵に戻す。

その中で、自分と妹は寄り添い、幸せそうに笑っている。

けれど――現実の二人は、互いに触れることすら許されなかった。



夜更け。

屋敷は静寂に沈み、時計の針の音だけがかすかに響いていた。

リリアンヌは寝間着のまま、廊下をそっと歩く。

裸足の足裏が、冷たい大理石の床に触れるたび、胸の奥がざわめいた。


向かう先は、昼間に完成したあの部屋。

「姉妹の肖像」が飾られた、母の誇りの間。


扉を開けると、月の光が差し込み、

絵の中の二人を淡く照らしていた。


――微笑む姉と、優しく寄り添う妹。

その光景は、まるで永遠の幸福を閉じ込めたように美しかった。


けれど、リリアンヌの胸には重く何かが沈んでいく。

絵の中の妹は笑っている。

でも現実のセレナは――泣いている。


(どうして……こんなに違うの?)


足が自然に前へ出る。

絵の前に立ち、細い指で妹の顔の輪郭をなぞる。

絵の具の乾いた凹凸が指先に触れた瞬間、

心の奥から、小さな声が溢れた。


「この笑顔は……私が与えたもの。」

「私が“お手本”になったから……セレナは泣いたの。」


その言葉を口にした途端、胸の奥に張り付いていた何かが崩れた。

リリアンヌの頬を、一筋の涙が伝う。

それは止めようとしても止まらなかった。


ぽたり――

涙が絵の表面に落ちる。


その瞬間、光がゆらめいた。

月明かりが反射して、まるで絵の中の少女が泣いているように見えた。


リリアンヌは息を呑む。

絵の中の自分が、ほんのわずかに悲しげに見えたのだ。

“完璧な笑顔”が、一滴の涙によって歪む。


(……違う。私は、こんな顔をしたかったんだ。)


微笑んでいるのに、泣いている。

それは、彼女が初めて見せた“本当の表情”だった。


静まり返った部屋の中で、

リリアンヌの声が小さく震えた。


「セレナ……ごめんなさい。

私の笑顔が、あなたを泣かせたのね。」


絵の中の二人は、変わらず微笑んでいる。

けれど、その微笑みの奥に――

確かに、温かな悲しみが宿っていた。



翌朝、まだ朝靄の残る時間。

画家マルヴェルが静かにセレスティア邸を再訪した。

光の差さぬ廊下を歩く音が、やけに澄んで響く。


肖像のある部屋には、すでにリリアンヌがいた。

白いドレスをまとい、手を前で組んだまま、絵を見上げている。

その瞳には、夜の涙の名残が微かに光っていた。


マルヴェルが筆箱を開きながら尋ねる。

「何か、気になるところでもありましたか?」


リリアンヌは一瞬、言葉を飲み込む。

胸の奥で、母の「完璧であれ」という声が蘇る。

けれど、彼女は小さく息を吸って、はっきりと口を開いた。


「……この絵、もう少しだけ……妹を、笑わせてください」


その声には震えがあった。

だが、それは恐れではなく――願いだった。


マルヴェルは静かに頷く。

彼の手が、筆を取る。

セレナの唇の端を、ほんのわずかに柔らかく描き足した。


それは、笑っているというより――“救われた顔”だった。


筆を置いたマルヴェルが呟く。


「……これでいい。

笑顔とは、誰かの涙の上に描くものではないからね。」


リリアンヌはその言葉を胸の奥で繰り返す。

「涙の上に描く笑顔」――それが、どれほど脆いものかを知ってしまったから。


彼女は絵の中の二人を見上げた。

そこには、少しだけ“生きている”姉妹がいた。

完璧ではない。けれど確かに、温かかった。


外では風が吹き、雨上がりの光が差し込む。

濡れた庭に、白薔薇がまたひとつ咲いていた。


――リリアンヌの心にも、ほんの小さな花が咲いたようだった。

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