母の指 ―― 完璧を指し示す白い手が、少女の心を縛る
馬車の中は、ひどく静かだった。
窓の外では、王都の灯がひとつ、またひとつ遠ざかっていく。
その光が消えるたびに、リリアンヌの胸の奥で小さな温もりが揺れた。
膝の上には、王子から贈られた花冠。
白薔薇はもう、少ししおれてしまっている。
けれど、彼女にはまだその香りが――あの夜の記憶が――確かに残っていた。
『いつか僕が大人になったら、君を檻から連れ出す』
あの声が、まるで胸の奥に灯る小さな炎のように、
彼女の心をほんのりと照らしていた。
リリアンヌはそっと胸に手を当てる。
自分の鼓動が、少しだけ速い。
「これが……“嬉しい”ということなのかしら」
初めて覚えた感情の名を、まだ彼女は知らなかった。
――だが。
馬車の車輪が止まり、扉が開いた瞬間、空気が変わる。
セレスティア邸の門。
夜の闇よりも冷たい静寂が、そこに立っていた。
玄関の灯の下、クラリスが待っていた。
白い手袋に包まれた両手を組み、微笑んでいる。
けれど、その笑みには温度がなかった。
「お帰りなさい、リリアンヌ」
ただ、それだけ。
その声を聞いた瞬間、リリアンヌの背筋が自然と伸びる。
まるで氷の糸が体を縫い留めたように。
花冠を握る指先が、無意識に力を込める。
――ぽとり。
白い花弁が、床に落ちた。
クラリスの瞳が、それを一瞥した。
けれど何も言わない。
ただ静かに微笑むだけで、空気が一気に凍りつく。
リリアンヌは何も言えなかった。
心の中の光が、薄い膜の下に閉じ込められていくのを感じながら。
“ああ、ここが――檻なのね”
その言葉を、唇の奥でそっと呟いた。
けれど、声にはならなかった。
翌朝。
部屋の窓から、やわらかな朝日が差し込んでいた。
リリアンヌは鏡の前に立ち、そっと自分の髪を梳いていた。
舞踏会の夜――白い薔薇の花冠。
その名残のように、小さな花弁が一枚、まだ髪に絡まっていた。
彼女はそれを指先でつまみ、静かに微笑む。
(あの方……ルシアン王子……)
あの夜の声が、まだ胸の奥に残っている。
それだけで、心が少し温かくなった。
――その瞬間。
背後から、柔らかな声が響いた。
「リリアンヌ、まだ寝癖が残っているわ」
リリアンヌの肩がびくりと震える。
振り向くより早く、鏡の中に“彼女”が映り込む。
クラリス。
真珠のような肌。白い絹のドレス。
その姿は美しく、そして――冷たい。
「お母さま……」
リリアンヌが言葉を探す間に、クラリスの白い指が静かに伸びてきた。
鏡越しに、髪を撫で、梳き、整える。
その仕草は優雅で、まるで人形を扱うようだった。
「美しい子」
クラリスは微笑む。
「けれど、ほんの少しでも乱れてはいけません。
美しさは秩序。秩序を崩す者は、世界を乱す者です」
その言葉に、リリアンヌの喉が小さく鳴る。
何か言いたい――そう思った。
王子の声が頭をよぎる。
“君は君のままでいい”
その優しい響きを、もう一度伝えたかった。
けれど。
「でも……」と口を開きかけたその瞬間。
クラリスの指が、リリアンヌの唇の上にそっと触れた。
冷たい。
まるで氷の刃のような指先だった。
「言葉は刃よ」
クラリスの声は、囁くように甘い。
「完璧な人は、刃を持たないの」
リリアンヌは息を飲んだ。
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
まるで、昨夜の“約束”を封じるように。
鏡の中で、母の手と娘の頬が重なって映る。
ふたりの顔は、まるで写し鏡のようにそっくりだった。
――ただ、微笑みの温度だけが違っていた。
朝の光が、絹のカーテン越しに淡く差し込んでいた。
鏡の前に立つリリアンヌの背後で、控えていた侍女が静かに言う。
「お嬢様、こちらの花冠……どうなさいますか?」
その声に、リリアンヌははっとして振り返る。
机の上には、あの夜――ルシアン王子が編んでくれた白薔薇の花冠があった。
すでに花びらはしおれ、色を失いかけている。
けれど、それでも彼女にはそれが“まだ美しい”ものに見えた。
(……触れられた、初めての贈り物)
彼女は小さく息を吸い、言おうとした。
「それは……」
けれど、言葉が続く前に。
クラリスが、ゆるやかに振り向いた。
「庭に戻しておきなさい」
その声は、驚くほど柔らかかった。
けれど、その柔らかさが、逆に凍えるほど冷たく感じられた。
「枯れた花は、土に還すものよ。
そうすれば、また新しい美しい花が咲くわ」
微笑んだ母の唇は完璧で、欠片の乱れもない。
その微笑みの奥にある“拒絶”を、リリアンヌは本能で感じ取った。
「それは……贈り物なの」
やっとの思いで呟いた言葉は、
母の視線に触れた瞬間、掻き消えるように途切れた。
クラリスは何も言わず、ただ静かに見つめる。
それだけで、空気が凍る。
侍女は小さく会釈し、花冠を両手で抱えて部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに遠くに響いた。
――その瞬間。
リリアンヌの胸の奥で、
小さな何かが「ぴしり」と音を立てて、裂けた気がした。
けれど、涙は出ない。
泣くことも、もう“許されない”ことを、知っていたから。
彼女の両手は膝の上で固く結ばれ、
その指先に、昨夜の花の香りだけが、かすかに残っていた。
午後の陽が、静かにテーブルの上を滑っていた。
銀の食器が光を反射し、白いクロスの上に細い影を落とす。
クラリスは、ひとつひとつの動作を見逃さない。
ナイフの角度、フォークの持ち方、肩の傾き。
そして何より――その指先の動きを。
「いい? リリアンヌ。指先は、あなたの心の形を映すの」
穏やかに響く声。
それはまるで、子守唄のように優しかった。
だが、リリアンヌの胸の奥では、その言葉が刃のように突き刺さっていく。
クラリスは娘の背後に立ち、
その白い指で、リリアンヌの手をそっと包み込む。
「ナイフの刃はもう少し下げて。
フォークは……そう、もっと指の先で支えて。
震えてはだめ。震えるということは、心が揺れている証よ」
リリアンヌの肩が小さく震えた。
ナイフの先が皿をかすめ、カチリと音を立てる。
クラリスはすぐに微笑んだ。
その微笑みには、怒りも、苛立ちもない。
ただ、完璧な静けさがあった。
「大丈夫。あなたなら、すぐに静まるわ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアンヌの喉がひゅっと詰まった。
――どうしてだろう。
“優しい”はずのその声が、世界で一番恐ろしかった。
手の震えを止めようと、必死に指先に力を込める。
けれど、震えは止まらない。
震えれば震えるほど、クラリスの指が、いっそう強く重なる。
冷たい。
なのに、痛いほど近い。
「見なさい、リリアンヌ。これが“美”なのよ。
余計なものを削ぎ落として、ただ静かに在ること。
それが“完璧”の証」
母の声が遠くで響く。
目の前の銀の皿が、光を散らして揺れて見えた。
リリアンヌはただ、小さく頷いた。
そして、笑った。
――笑うことしか、もうできなかったから。
その瞬間、クラリスの唇が満足げにほころぶ。
指先が離れる。
冷たい余韻だけが、彼女の手のひらに残った。
夜。
窓の外では、しとしとと雨が降っていた。
灰色の雲の向こうに、月の光がぼんやり滲む。
リリアンヌはベッドの上で眠れず、
静かに起き上がると、窓辺へ歩いた。
冷たいガラスに映るのは、幼い自分の顔。
その両手を月明かりにかざす。
――白く、細く、長い指。
母の指と、まったく同じ形。
指をそっと動かす。
そのたびに、記憶の奥から冷たい感触が蘇る。
髪を梳かれたときの指先。
頬をなぞられたときの指先。
震える手を包まれた、あの白い手の感触。
「……ああ、私の中に、あの人の“指”がある」
囁いた声が、夜の空気に溶けて消える。
外を見ると、庭の土が雨に濡れ、
あの日、花冠を埋めた場所が闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
白い花弁が、泥に溶け、形を失っていく。
――完璧な手が教えたのは、震えぬこと。
でも、心まで止める方法ではなかった。
リリアンヌは、自分の指先を見つめる。
そして、ゆっくりと重ね合わせるように両手を握る。
ほんの少しだけ、温もりがあった。
それは、もう消えかけていたけれど――
たしかに、そこに**生きている“自分”**がいた。
雨音が静かに響く。
リリアンヌの睫毛が震える。
けれどその手は、もう、震えなかった。




