「拍手 ―― 断罪の音」
朝の風は、冷たくも優しい。
けれど、その優しささえも――いまの彼女には遠い夢のようだった。
学院の庭園。
リリアンヌ・ド・カーネリアが丹精込めて育ててきた“白薔薇”の花々は、いまやその命を終えようとしていた。
花弁は薄く、茎はわずかに傾き、朝露さえも重たげに感じるほどに。
一週間前、学院中を震わせた“公開断罪”。
王太子アレクシスの口から告げられた婚約破棄の言葉は、まるで呪いのように人々の口を伝い、そして残酷な“日常”へと溶けていった。
花壇の前には、今日も数人の生徒たちが立ち止まり、囁く。
「……カーネリア嬢の時代も、終わったのね。」
「今はセレナ様の方が華やかだわ。殿下の隣にいる姿、まるで絵画みたい。」
笑い声が、春の光のように軽やかに広がる。
だがその光は、彼女の足元に長い影を落としていった。
リリアンヌは、ただ静かに花々を見つめていた。
手袋越しにそっと萎れた花弁を撫でる。
指先に、わずかに冷たい感触が伝わる。
――生きようとした跡が、そこにある。
かつてこの花々は、学院の誇りだった。
誰もがその白の清らかさに憧れ、彼女を“白薔薇姫”と呼んだ。
だが、いまは違う。
その名は“哀れな令嬢”という蔑称に変わり、花は無情にも沈黙を守っていた。
リリアンヌは瞼を伏せ、小さく微笑む。
(白は純粋の色。
けれど――純粋すぎれば、いずれ誰かの眩しさになるのね。)
その呟きは、風に消えた。
朝の光が降り注ぎ、散りかけた花びらをきらめかせる。
それはまるで、誰にも聞かれぬ祈りのように――美しく、儚かった。
学院の空気が、変わった。
それは、声を荒げるでも、明確な敵意を示すでもない。
ただ――静かに、確実に、彼女の周囲から“温度”が消えていくのだった。
かつてリリアンヌ・ド・カーネリアが一歩講堂に入れば、
人々は自然と道を空け、教師たちは敬意をこめて頭を下げた。
だが今、彼女が教室に足を踏み入れても、
誰も顔を上げない。声もかけない。
黒板の前で発言しても、王族派の教師は言葉を遮る。
「――では、その意見は保留にしておきましょう。次の者。」
その声は、あくまで丁寧でありながら、明らかに拒絶の冷たさを帯びていた。
推薦枠の一覧から、彼女の名が静かに消えているのを見たのは翌日のことだった。
どの書類にも、印章にも、何ひとつ説明はない。
それでも、すべての者が理解していた。
――「彼女はもう、庇われる側ではない」と。
さらに、学生たちの間では別の潮流が生まれていた。
“断罪劇”の余波を利用して、立場を上げようとする者たちだ。
かつてリリアンヌに笑顔を向けていた令息たちは、
今やセレナの周囲に集まり、彼女を褒め称える言葉を競うように並べていた。
「これからの学院は、殿下とセレナ様の時代だ」
「誤った忠誠は、時に身を滅ぼす――まるで教訓ですな」
笑い声。
皮肉と憐れみが入り混じった視線。
それでも、リリアンヌはただ静かに立っていた。
背筋を伸ばし、まるで誰の悪意にも触れぬように、淡い微笑をたたえて。
そんな彼女の姿を、マリアは耐えきれず見つめていた。
昼休みの中庭で、ついに感情が溢れ出す。
「皆、なんてことを……! リリアンヌ様は何も悪くないのに!」
声が震えていた。拳を握りしめるマリアの頬には、悔し涙が光る。
リリアンヌはその手をそっと取る。
指先は温かく、しかしその笑みはどこか遠い。
「悪くなくても、悪者にされることはありますわ。」
「世界は、都合のいい“物語”を好むのですもの。」
その言葉は、悲しみよりも静かな理解に満ちていた。
まるで彼女だけが、この歪んだ舞台の脚本を知っているかのように――。
春の風が吹き抜け、枯れた白薔薇の花弁がふたりの足元を掠める。
それはまるで、嘆きのように、あるいは誇りの残響のように舞い上がっていた。
放課後の学院は、静寂に包まれていた。
陽は傾き、夕暮れの金色が花壇を染める。
リリアンヌ・ド・カーネリアは、ひとりその中に立っていた。
彼女が丹精を込めて育ててきた白薔薇は、いまやその姿を失いかけている。
花弁は萎れ、茎には乾いた棘だけが残る。
それでも彼女は、手袋越しにその枝を撫で、優しく語りかけるように息を吐いた。
> 「まだ、ここにいるのね……。
散っても、根がある限り、きっとまた咲けるわ。」
その声は、祈りにも似ていた。
誰に届くでもない、けれど確かに温かい響き。
――そのとき、背後から小さな足音が近づく。
リリアンヌが振り返ると、そこに立っていたのは王太子アレクシスだった。
制服の金糸が夕陽に光り、顔の輪郭が翳りを帯びている。
> 「……君は、まだこの花を世話していたのか。」
短く、乾いた声。
それは王子の威厳よりも、かつての“少年”の迷いを思わせた。
リリアンヌは、少しだけ微笑む。
その瞳には涙も怒りもなく、ただ澄んだ湖面のような静けさが宿っていた。
> 「わたくしが手を離したら、誰がこの棘を見てくれるのでしょう。」
アレクシスは、返す言葉を失った。
彼女の視線がまっすぐすぎて、言い訳のすべてが無意味に思えた。
「セレナは……」と口を開きかけた唇は、結局そのまま閉じられる。
彼女の前では、どんな名前も、どんな理屈も――薄っぺらく響く。
風が吹く。
花壇の上で、枯れた薔薇の花弁が一枚、ふわりと揺れた。
リリアンヌは静かにその一輪を手折り、掌に乗せる。
> 「殿下。美しさとは、散る覚悟を持つことですの。」
その声は柔らかく、しかし確かに何かを終わらせる響きを持っていた。
彼女は白い花弁を指先で離し、風へと託す。
それは小さな光のように舞い、空へ、そして夕暮れの向こうへと消えていった。
アレクシスはその姿を見つめるしかなかった。
彼の手には、落ちてきた一枚の花びらがそっと残る。
それを拾い上げることもできず、彼はただ立ち尽くしていた。
風が止むと、庭園は再び静けさに包まれる。
残されたのは、枯れた白薔薇と、沈黙する王子――
そして、遠ざかるリリアンヌの足音だけだった。
その知らせは、冷たい告示文の一枚で知らされた。
――《白薔薇研究室 当面の活動停止および閉鎖を決定す》
それは、学院中でひとつの時代が終わったことを意味していた。
“白薔薇の間”――
そこは、選ばれた才女だけが入室を許された特別研究室。
学問と礼儀、そして気品の象徴として、多くの令嬢が憧れた場所。
かつてその中心にいたのは、リリアンヌ・ド・カーネリアだった。
けれどいま、その扉には封蝋が押され、静寂が支配していた。
窓から射し込む午後の光が、埃の舞う空気を淡く照らす。
机の上のインク瓶は乾き、書きかけの報告書は黄ばみ始めている。
リリアンヌはゆっくりと中へ入り、歩みを止めた。
壁際には、彼女が選んだ白薔薇の刺繍入りカーテンがまだ残っていた。
柔らかな布地に指先を触れ、そっと撫でる。
> 「花は枯れても、刺繍は残るのね……」
声はかすかに震えていたが、涙ではなかった。
それは、自分の足跡を確かめるような、静かな呼吸。
> 「……わたくしの誇りも、誰かの記憶の中に残るかしら。」
風がカーテンを揺らし、光が模様の上で踊る。
その瞬間、彼女の瞳にほんのわずかな微笑が宿った。
扉の向こうから足音が響く。
マリアが駆け込んできて、息を切らしながら立ち止まる。
> 「リリアンヌ様……! 本当に、閉鎖だなんて……。
これで、本当に終わりにしてしまうんですか?」
リリアンヌは振り返り、やわらかく笑んだ。
その笑みは悲しみを包み込むほどに穏やかだった。
> 「終わりではなく――静かな、休息ですわ。」
言葉が部屋に溶けていく。
まるで“白薔薇の間”そのものが、安らかに眠りにつくように。
リリアンヌは最後にもう一度、机の上の古い羽ペンを手に取った。
そして、白紙のノートの最初のページにそっと一行を書き残す。
> 《記録を閉じる日。誇りは、沈黙の中に咲く。》
ペンを置き、微笑んで扉を閉じる。
その背後で、鍵の音が静かに響いた。
それは、ひとりの令嬢が“伝説”から“記憶”へと変わる音だった。
その日、学院の空はどこまでも澄んでいた。
春の陽光はやさしく、しかし、どこか遠くへ旅立つ者を見送るように静かだった。
リリアンヌ・ド・カーネリアは、最後にもう一度“白薔薇の庭園”を訪れた。
そこは、彼女が幾度となく手をかけ、愛を注いできた場所。
けれど今は、白薔薇の花々はすべて散り、細い棘だけが土の上に残っていた。
膝をつき、手袋越しに棘を撫でる。
小さな痛みが伝わるたびに、胸の奥が温かく、そして苦しくなる。
> 「花は愛されるために咲く。
けれど棘は、自らを守るために生まれる。
……わたくしも――ようやく棘になれましたわ。」
その言葉は祈りのように、風に溶けていく。
もう誰もいない庭園。
けれど、その静寂の中に、確かにリリアンヌという存在の痕跡が残っていた。
やがて、春風が吹いた。
どこからか遅れて散った白い花弁がひとひら、空へと舞い上がる。
陽光を受けてきらめきながら、遠くへ流れていくその姿は、
まるで“ひとつの時代の終焉”を告げる鐘の音のようだった。
リリアンヌは静かに立ち上がり、最後にもう一度、庭を見渡す。
そこにはもう、彼女の居場所はなかった。
それでも、微笑は崩れない。
――彼女はもう、涙を必要としない。
ラストモノローグ
「美しさとは、儚さの証。
散ることを恐れぬ者だけが、本当に咲いたと言える。
花を失い、棘だけになっても――
この手が血に染まらぬうちは、誇りはまだここにありますわ。」
リリアンヌはゆっくりと門の方へ歩き出す。
背後では、春風が再び吹き抜け、枯れた枝の間に光が差し込む。
――白薔薇の時代は、終わった。
だが、棘の誇りは、永遠に彼女の中で咲き続ける。




