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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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『学園裁定 ―― 微笑む審問官たち、沈黙する彼女。』

朝の光が、学院の回廊を静かに照らしていた。

春の風はまだ冷たく、カーテンを揺らすたびに、紙の擦れるような音が響く。


リリアンヌの机の上には、一通の封書が置かれていた。

封蝋には、学院長の印章――金の百合と羽根――が刻まれている。

その封の堅牢さに、ただならぬ内容であることは誰の目にも明らかだった。


彼女は指先で封を撫で、しばしの間、開くことをためらった。

薄い息が漏れる。


「学院長室からの呼び出し……ですのね。」


静かに封を切ると、淡い香料とともに、冷たい言葉が現れる。

――「臨時裁定会議への出席を命ず」


理由の欄には、整った筆跡でこう記されていた。


「不正報告に関する余波」

「関係者の名誉毀損に関する聴聞」


まるで、真実を明らかにしたことそのものが“過ち”であるかのような文面だった。


リリアンヌは静かに目を閉じる。

心の奥で、過ぎ去った冬の日々――あの帳簿の事件、告発の瞬間、

そして、孤独の中で守り抜いた“正しさ”がよみがえる。


(見なかったことにすれば、平穏は続いたでしょう。

 でも、嘘の上に築いた平穏は、すぐに崩れてしまうもの。

 あの時の選択に、後悔はない……はずですわね。)


そう呟いて、彼女は封書を丁寧に折りたたむ。

窓辺に差す陽光が、便箋の縁を透かして白く光った。

その光は、まるで――

彼女がこれから歩む“裁定の場”への道を、冷たく照らしているかのようだった。


(真実を告げたはずなのに、また“正しさ”が問われるのね……)


リリアンヌはゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整える。

その瞳には、恐れも怒りもない。

ただ、ひとつの決意だけが静かに宿っていた。


次の鐘が鳴る頃――彼女は、再び審問の扉を叩くことになる。


重厚な扉が音を立てて閉じられると、空気は途端に冷たく張り詰めた。

学院の奥、石造りの一室――“裁定室”。

円卓の中央には銀の燭台が置かれ、炎はわずかに揺れながら、

その周囲を取り囲む者たちの表情を照らしていた。


学院長、教務官、そして貴族派の教師たち。

彼らは礼儀正しく微笑みながらも、その瞳の奥には氷のような光を宿している。

彼らの笑みは――公正の仮面を被った“裁きの笑み”だった。


「リリアンヌ・ド・アルヴェンヌ嬢。」

学院長が静かに名を呼ぶ。その声には、慈悲の欠片もない。


「あなたの報告により、一部の貴族家との関係が悪化しました。

 学院の品位を守るため、どのように責任を取るおつもりですか?」


まるで罪状を読み上げるような口調。

リリアンヌは背筋を正し、静かに頭を下げる。

けれど、言葉は紡がれなかった。


沈黙――

それは、彼女に残された最後の“誇り”だった。


反論をすれば、さらなる標的となる。

涙を見せれば、彼らの思う壺になる。

だから、リリアンヌはただ、呼吸を整えるように目を閉じた。


燭台の炎がゆらぎ、その影が壁に揺れる。

その中で、審問官たちの口元だけがやけに鮮明に見えた。

微笑――それはまるで、彼女の沈黙を嘲るように。


(わたくしは、嘘をつかなかった。それが罪だと言うのなら……

 この学院の“真実”こそ、どれほど歪んでいるのでしょうね。)


彼女の心に、静かな怒りが灯る。

けれど、それを顔には出さない。

完璧な姿勢、凛とした微笑――

それが、リリアンヌ・ド・アルヴェンヌという令嬢の最後の盾だった。


学院長が、帳簿を閉じるように声を落とした。


「この件については、後日正式に結論を下します。

 どうか、ご自身の行いをよくお考えなさい。」


その言葉の“優しさ”が、いちばん冷たかった。

リリアンヌは静かに礼をして、扉へと向かう。


背後で、円卓の上の蝋燭がひとつ、音もなく消えた。

まるで――彼女が背負う光が、ひとつ奪われたかのように。

扉が再び開く音がした。

そこに現れたのは、マリアだった。

彼女は制服の裾を整えながら、一歩も怯むことなく円卓の中央へ進み出る。


「学院長。リリアンヌ様に関するこの件、私も証人として発言を――」


しかし、その声を遮るように、年配の教務官が軽く手を上げた。


「おやめなさい、マリア嬢。

 これは個人の見解を問う場ではありません。学院の体面の問題です。」


その言葉は一見、穏やかに聞こえる。

だが、そこには明確な線引き――“あなたに発言権はない”という冷たい壁があった。


マリアは唇を噛み、リリアンヌを見つめた。

だが、リリアンヌはわずかに首を振り、目で“もう大丈夫”と告げる。


彼女は一人、円卓の中心に立つ。

審問官たちの視線が一斉に突き刺さる。

それは敵意と侮蔑、そして退屈の混ざった視線。

“貴族の娘の処理”という退屈な儀式に過ぎない――そう言いたげな空気。


だが、リリアンヌの微笑は揺れなかった。

完璧に整った姿勢。

静かに息を整え、紅茶の香を思い出すように、唇を開く。


「わたくしは、ただ事実を申し上げただけです。」


声は小さく、それでいて部屋の隅々に響いた。

沈黙が降りる。

炎の揺らぎの音さえ、遠くに消える。


「もしそれが罪なら――誠実もまた罪ということになりますわね。」


淡々と、それでいて美しく。

リリアンヌの言葉には怒りも涙もない。

だが、その静けさこそが、審問官たちにとって最も恐ろしいものだった。


沈黙――

誰も言葉を返せない。


学院長は軽く咳払いをし、無理に次の議題へ移ろうとする。

だが、その瞬間、審問官のひとり――まだ若い男が、

ふと視線を逸らした。


まるで、彼女の言葉がほんの少しだけ、

心の奥に刺さってしまったかのように。


リリアンヌはその小さな変化を見逃さなかった。

彼女の微笑は、静かなまま――けれど確かに強さを帯びていた。


(真実は、沈黙の中にも生きるもの。

 だから、わたくしは何も恐れませんわ。)


そう心の中で呟きながら、

リリアンヌはゆっくりと、胸の前で手を組んだ。


――沈黙こそが、最も雄弁な証言。

そのことを、この場の誰よりも彼女は理解していた。

夕刻。

長い審問の果てに、学院長の声がようやく響いた。


「結論として――今回の件については、明確な不正の証拠は見つからず。

よって、処罰は行わない。ただし、学院内の混乱を招いたことについて、

リリアンヌ嬢には“誤解を招いたことへの謝意”を示してもらいたい。」


それは、裁きではなかった。

――責任を曖昧にし、学院の品位を守るための“儀礼”。


審問官たちは一斉に頷き、まるで何事もなかったかのように書類を閉じていく。

議場の空気は安堵に満ちていた。

だが、その安堵は“誰も真実を見ようとしなかった”という安易な平穏に過ぎなかった。


リリアンヌは静かに立ち上がり、一礼した。

瞳は揺れず、口元には薄い微笑が浮かんでいる。

けれど、その指先はわずかに震えていた。


――“正しさ”を貫いたはずの自分が、

いま、もっとも孤独な立場にいるという事実を、

彼女は痛いほど理解していた。


廊下に出ると、マリアが待っていた。

駆け寄るその足音が、無人の廊下にやけに響く。


「リリアンヌ様……! 結果は?」


リリアンヌはふっと笑みを浮かべた。

その笑みは、朝の光のように穏やかで――しかし、どこか遠い。


「処罰はありませんの。ただ……謝罪の言葉を述べるように、とのことでしたわ。」

「謝罪……? どうして、そんな……!」


マリアの声に怒りが混じる。

だが、リリアンヌは首を振った。


「いいのです。誰かを責めるための正義なら、わたくしはもう要りません。

 正しさは、勝ち負けではありませんわ。

 ただ、心の中で――静かに立っているだけのこと。」


マリアはその言葉に息を呑んだ。

リリアンヌの微笑は、壊れそうなほど繊細で、

それでいて、美しく揺るぎなかった。


その夜。

学院の噂話は再び彼女の名を口にしていた。


「学院を混乱させた令嬢」

「自分の正義で殿下を失った子」

「表では笑い、裏で泣いているらしい」


けれど、リリアンヌはその声をもう気にしなかった。

誰もいない温室で、カップに紅茶を注ぎ、

月明かりの下、ひとり静かに微笑む。


(正しさは孤独を呼ぶ。けれど、その孤独は――わたくしの誇りでもあるの。)


紅茶の香りが、やわらかく夜に溶けていった。




夕暮れの学院。

長い廊下を渡る風が、ステンドグラスの光を細く歪めていく。

誰もいないその道を、リリアンヌは一人歩いていた。


足音が石畳に淡く響く。

壁には彼女の細い影が伸び、揺れている。

彼女はふと立ち止まり、静かにその影を見つめた。


(誰も味方がいなくても、沈黙は“敗北”ではない。

 沈黙は、心を守るための――祈り。)


指先がわずかに震える。

それでも、顔を上げるとき、唇には確かな笑みが浮かんでいた。

光を拒まず、影を恐れない――そんな微笑。


背後から駆け寄る足音。

マリアが肩で息をしながら、彼女の名を呼ぶ。


「リリアンヌ様……! どうか、無理だけは――」


けれどリリアンヌは、そっと首を横に振った。

その瞳は穏やかで、どこまでも澄んでいた。


「大丈夫ですわ、マリア。

 わたくし、もう恐れてはいませんの。」


微風が髪を揺らす。

紅茶と花の香が混じるような淡い空気の中で、

リリアンヌの笑みは、痛みをも優しく包み込むものへと変わっていた。


ラストモノローグ


「正しさを問われるたび、世界はわたくしを沈黙へ追いやる。

 けれど沈黙は、従順の証ではなく、誇りの最後の形。

 誰にも届かぬこの静けさの中で、

 わたくしはまだ――微笑んでいる。

 微笑の奥にある沈黙こそ、

 わたくしが守り抜いた“真実”なのですわ。」


夕陽が差し込み、廊下に二つの影が並ぶ。

沈黙の中、リリアンヌはそっと前を向いた。

その足取りは静かで、しかし――確かに、誇りの光を宿していた。





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