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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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紅茶の香 ―― 甘い香りが、涙を誘う。

春の陽射しが、透きとおるガラス越しに差し込んでいた。

学院の温室には、冬の名残を押しのけて咲き誇る花々の香が満ちている。

白や薄桃の花弁が風に揺れ、光を受けて微かにきらめいた。


リリアンヌは、静かな足取りでその温室の奥へと進む。

この場所を訪れるのは、いつぶりだろう。

指先で触れたティーセットの陶磁器は少しひんやりとしていて、

まるで時が止まっていたかのようだった。


彼女はゆっくりとポットに湯を注ぎ、紅茶の香りを立ちのぼらせる。

手の動きは落ち着いているが、その一つひとつに、

かつてここで過ごした日々の記憶が滲んでいた。


小さなテーブルの上には、ティーカップが二つ。

ひとつは彼女自身のもの。

もうひとつは――もう、訪れることのない誰かのために。


紅茶の蒸気が、陽光の中でゆらゆらと形を変える。

それはまるで、過ぎ去った時間の残り香のようだった。


リリアンヌはカップを手に取り、そっと目を伏せる。


(殿下と共に過ごした時間は、たった数ヶ月。

でも、その香りだけは、まだここに残っているのね……)


その心の声は、紅茶の湯気とともに、

静かな春の空気へと溶けていった。


温室の扉が、静かな音を立てて開いた。

春の風がふわりと吹き込み、花々の香りと紅茶の湯気がやわらかく揺れる。


「リリアンヌ様――やっぱり、ここにいらしたんですね。」

振り返ると、マリアが戸口に立っていた。

彼女の手には、小さなノートと羽ペン。授業帰りのままの姿だ。


「温室の紅茶、恋しくなったでしょう?」

そう言って笑うマリアの声は、春の陽だまりのようにあたたかかった。


リリアンヌは微笑みを返す。けれど、その瞳はどこか遠くを見ている。

彼女はゆっくりとカップを傾けながら、小さく呟いた。


「紅茶は、心を落ち着かせますの。

……香りは、記憶を呼び覚ますから。」


その声音には、柔らかい寂しさが混じっていた。


マリアは何も言わず、彼女の隣に腰を下ろした。

花の香と紅茶の香が溶け合い、二人の間に静かな時間が流れる。


窓の外では、小鳥が枝に止まり、

春の歌を口ずさんでいる。


マリアはただ黙って、同じ香りを吸い込んだ。

彼女には、リリアンヌが言葉にしない想いが分かっていた。


――それでも、この香りの中で笑ってくれるなら。

それだけで、今は十分だと思った。


カップの中で、琥珀色の紅茶がわずかに揺れる。

立ちのぼる湯気は春の光に溶け込み、

淡い金糸のように空へと昇っていった。


リリアンヌは、その香りを胸いっぱいに吸い込む。

花の香、土の香、そして――かすかに残る記憶の香。


「あら……どうしてかしら。」

「今日は、少しだけ、味が違って……」


そう言いながら、彼女の瞳に小さな光が宿る。

それは、反射した陽光か――それとも、涙のきらめきか。


一粒の涙が、頬をつたってカップの縁に落ちた。

小さな波紋が揺れ、香りがふわりと広がる。


マリアは驚くこともなく、静かにハンカチを差し出した。


「それが、“思い出の味”ってやつですよ。」


その言葉に、リリアンヌはかすかに息をのむ。

そして、そっと微笑んだ。


「……ええ、たしかに。少し甘くて、少し苦いわね。」


彼女の笑みは、もうあの“完璧な仮面”ではなかった。

小さな欠けを抱いたまま、

それでも人の温もりを受け入れられる――そんな柔らかな微笑。


外では、花びらが風に舞う。

その香りが、紅茶の香と混ざり合い、

まるで過去と現在がひとつに溶けるようだった。


カップをそっと置いたリリアンヌは、

長いまつげを伏せて一呼吸し、それから立ち上がった。


温室の硝子越しに、春の光が降り注ぐ。

透ける金糸のような髪が風に揺れ、

白いカーテンがふわりと舞い上がった。


「マリア、ありがとう。

 わたくし、少しだけ――前を向けそうですの。」


その声は、紅茶の香よりもやわらかく、

長い冬を抜けたあとの陽だまりのようだった。


マリアは微笑みながら、そっと肩を並べる。


「泣いたあとに飲む紅茶って、不思議と甘く感じません?」

「ええ……まるで、赦しの味のようですわ。」


二人の笑みが、湯気の中で重なり合う。

窓の外では、若葉の緑がまぶしく揺れていた。

その風が、温室の中へと吹き込み、

花々の香とともに紅茶の甘い匂いをさらっていく。


それはまるで、

リリアンヌの胸に残っていた痛みを、

静かに、やさしく連れ去っていくようだった。


彼女はそっと目を閉じ、微笑む。

――今度こそ、ほんとうの意味での“微笑”で。


紅茶の香が、春の風に溶けていく。

陽光がガラスを透かして花々を照らし、

揺れる影が、まるで過ぎ去った季節の記憶のように

静かに揺らめいていた。


リリアンヌはカップを両手で包み、

その香りを胸いっぱいに吸い込む。

微笑はもう、飾りではなかった。

涙を知り、痛みを抱えたあとの――

ほんとうの意味での、穏やかな微笑だった。


「紅茶の香りは、心に残る。

 甘く、少しだけ苦く――まるで、愛の記憶のように。

 けれど、もう涙は隠さない。

 あの日の痛みも、この微笑も、すべてわたくしの一部だから。

 春の風が、それを優しく包んでくれますように。」


カップの中の紅茶が、淡い陽を映して揺れる。

その香りは、過去の悲しみを遠くへ運びながら、

新しい季節の始まりを静かに告げていた。


――温室の片隅で、

ひとりの令嬢の“完璧な微笑”はようやく、

“人間らしい笑み”へと変わっていった。


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