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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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密やかな警告 ―― 「殿下のお心は、もうあなたのものではありませんの」

春の陽光が差し込む学院の中庭は、花の香りと共に静かなざわめきを孕んでいた。

数日前まで、王都中が沸き立った大舞踏会の記憶がまだ鮮やかに残る。

その夜、無数の宝石のように光を放っていたリリアンヌ=フローレンスの姿も、今や噂話の中の断片となっていた。


彼女はいつもと変わらぬ穏やかな微笑を浮かべ、講義室へと歩いていく。

姿勢は凛として優雅、歩みはためらいのない静謐さを湛えて。

けれど、その背を追う声はどこか湿り気を帯びていた。


「アレクシス殿下、最近“新しい令嬢”と親しくされているらしいわよ。」

「ええ、あの子……“辺境伯の娘”だとか。かなり聡明で、王家の行事にも随行しているとか。」


さざ波のように広がる囁き。

それは悪意を装わず、しかし確実に心を削る種類の噂だった。


リリアンヌは足を止めず、微笑みを保ったまま歩き続けた。

教室の扉を開けると、光が差し込み、彼女の銀糸のような髪を照らす。

周囲の令嬢たちは一斉に振り返るが、すぐに各々の談笑へと戻っていった。


その一瞬の沈黙――それが彼女にとって何より雄弁な答えだった。


「……また、静かになりましたわね。」


小さく呟いたその声は、誰にも届かず、ページをめくる音の中に溶けていく。


“真実を暴いた令嬢”としての名誉は、今も彼女の名と共にあった。

だがその輝きは、同時に“王子の寵愛を失った令嬢”という新たな影をも生み出していた。


春の風が窓辺を通り抜ける。

花の香りに混じって、遠くでまた誰かが囁く――。


「正しすぎる人は、いつだって、愛から遠ざかるものなのね。」


リリアンヌは筆を取り、静かに書きつける。


「正しさと愛――秤にかけられるものではないのに、

 どうして人は、どちらか一方しか手にできないのかしら。」


そして、微笑んだ。

それは、誰にも悟らせぬための微笑――

沈黙と誇りを宿した、彼女だけの鎧であった。


昼下がりの温室には、初夏の陽がやわらかく差し込んでいた。

色とりどりの花々が静かに香りを放ち、ガラス越しの光が紅茶の表面に淡い金色を落とす。

リリアンヌ=フローレンスはその光を指先でなぞりながら、静かに息をついた。


学院の喧騒から遠く離れたこの温室は、彼女にとって唯一、誰にも邪魔されぬ聖域だった。

だがその静寂を破るように、ドアの開く音が響く。


「まあ……おひとりでお過ごしなのですね、リリアンヌ様。」


振り返ると、絹のような金髪と深紅のリボンをまとった令嬢が立っていた。

セレナ=ド・ヴァルティエ。

最近、王子アレクシスの側近として、式典や公務のたびに姿を見せる新星の貴族令嬢である。


リリアンヌは微笑んだ。


「お見かけするのは、これで三度目ですわね。殿下のご公務はお忙しいでしょうに、学院にも顔を出されるなんて。」


セレナは控えめに会釈をし、近くの椅子に優雅に腰を下ろす。

その所作のすべてが、まるで舞踏会の一幕のように整っていた。


「殿下はとてもお優しい方ですから。

 ご公務の合間にも、学生たちとの交流を忘れぬよう心掛けていらっしゃいますの。」


「ええ……殿下は、いつだって人々を照らすお方ですわ。」


柔らかな言葉の応酬。

しかし、空気はどこか張り詰めていた。

紅茶の香りが揺らぐたび、互いの笑みの奥に潜む棘がきらめく。


やがて、セレナはカップを持ち上げ、わずかに唇を傾けて――何気ないふうに告げた。


「殿下は最近、とても穏やかでいらっしゃいますの。

 ……あなたとお話しされていた頃よりも。」


リリアンヌの手が一瞬だけ止まる。

だがすぐに、完璧な笑みでその隙を覆い隠した。


「それはようございましたわ。

 穏やかさは、良い伴侶の証ですもの。」


二人の間に、沈黙が落ちた。

花の香りの下、紅茶の表面に映る二人の顔――

ひとつは絹のような柔らかさを湛え、もうひとつは氷のような静謐をたたえていた。


セレナ:「……やはり、噂どおりお強いお方ですのね。」

リリアンヌ:「強さではなく、ただ“見せ方”を学んだだけですわ。

 ――学院では、それが一番の防具になりますもの。」


微笑みのまま交わされる“静かな剣戟”。

一枚の花びらが、ふとテーブルに落ちた。

それを見つめながら、リリアンヌは心の奥で呟く。


(この方は――告げに来たのね。

 “殿下のお心は、もうあなたのものではない”と。)


しかし彼女は何も言わず、最後の一口を静かに飲み干した。


「どうぞ、ごきげんよう。ヴァルティエ嬢。

 ……お紅茶が冷めてしまいますわ。」


セレナは微笑を崩さず、一礼して去っていった。

残された温室には、まだ香りの残る紅茶と、冷えゆく沈黙だけが漂っていた。


温室の空気が、ふと静まり返った。

外では雨上がりの光がガラスを伝い、雫が静かに滑り落ちていく。

その透明な音だけが、沈黙を埋めていた。


セレナ=ド・ヴァルティエは、花の間を抜けて一歩、また一歩と近づく。

花弁がその裾を撫で、淡い香水の匂いが空気に溶けた。


そして――囁くように言葉を落とす。


「リリアンヌ様……殿下のお心は、もうあなたのものではありませんの。」


その声音は、あくまでやわらかく、礼儀の形を崩さない。

けれど、その奥に潜む冷たい確信は、ガラス越しの冬の光のように鋭かった。


リリアンヌは、わずかに瞳を伏せた。

紅茶の表面に映る自分の微笑――それは完璧に整えられた“仮面”だった。


「……そう。ならば、そのお心をどうぞ大切になさって。」


声は穏やかだった。

けれど、その奥底には、微かな痛みと誇りの混じる色があった。


「わたくしは、奪うことよりも――守る方が得意ですの。」


カップを持つ指先が、ほんの少しだけ震えた。

ガラスのカップの中で、紅茶がわずかに揺れ、琥珀の光が波打つ。


セレナはその一瞬を見逃さなかった。

だが、彼女は何も言わず、静かに笑みを整える。


「……まあ、なんて素敵なお考えでしょう。さすが“学院の鏡”と称えられるお方。」


一礼し、香りだけを残して去っていく。

扉の閉まる音が温室に響き、再び静寂が戻った。


リリアンヌは残された空気の中で、そっと息を吐く。

指先に残る紅茶の温もりは、もうすぐ冷めようとしていた。


(王族の恋は、いつだって政治の延長。

 “正しさ”を選んだわたくしは、知らぬ間に――愛を遠ざけたのかもしれませんわね……)


光がガラスを透け、彼女の横顔を照らす。

その微笑は、まるで砕ける寸前のガラスのように――

美しく、脆く、そして静かに輝いていた。


学院の廊下に、微かなさざめきが流れていた。

声をひそめながらも、誰もがその話題を避けられない。


「殿下、最近はセレナ様とご一緒にいらっしゃるとか。」

「まあ……リリアンヌ様とは、もう……?」


扇の陰、書架の影、ティーサロンの片隅――

どこでもその名は囁かれ、甘く、そして残酷な噂へと形を変えていった。


昼下がりの教室。

窓辺に座るリリアンヌの姿は、いつもと変わらぬ穏やかさをたたえていた。

けれど、その静けさこそが痛々しく、マリアには胸を締めつけるように感じられた。


マリアは意を決して、机越しに声をかける。


「リリアンヌ様……噂なんて、きっとすぐに消えます。

 殿下も、本当は――」


リリアンヌはゆるやかに微笑んだ。

その微笑みは、まるで曇天の下に咲く白百合のように静かで、触れれば崩れそうだった。


「いいのです、マリア。心が離れたのなら、それもまた、自然の理。

 無理に追えば――誇りを失うことになりますわ。」


その声には、痛みを隠すような優しさがあった。

マリアは何も言えず、ただ彼女の横顔を見つめる。


窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。

その音は、まるで彼女の胸の奥の震えを写し取るかのように、かすかに震えていた。


――けれど。


リリアンヌの指先は、机の上でほんの少し強く握られていた。

その白い手の甲に、わずかに血の気が引く。


(痛い……でも、これが“誇り”の代償なら――

 わたくしは、微笑んで受け入れなければなりませんわね。)


沈黙の中で、ガラスのような決意が光った。

その輝きは儚く、それでも確かに――彼女を支える唯一の光だった。


夜の学院は、息をひそめたように静まり返っていた。

遠くで風が木々を渡り、ガラス窓をわずかに揺らす。


リリアンヌの部屋には、ひとつの灯だけが残っている。

鏡の前、彼女は白い寝間着のまま、姿勢を正していた。


蝋燭の炎が揺れ、鏡の中の自分が淡く光を受ける。

リリアンヌは唇の端を上げた。

それは、いつもの完璧な微笑――

けれどその奥に宿るのは、かすかな影だった。


「誇りは、愛よりも冷たいけれど……

 それを失えば、私は私でなくなる。」


声に出してみると、胸の奥で何かが少しだけ震えた。

その震えを押し込めるように、彼女はもう一度、微笑を整える。


笑みの形は整っている。

しかし、鏡の奥の瞳は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。


――愛を捨てたわけではない。

ただ、愛よりも先に“自分のあり方”を選んだだけ。


彼女にとって、それは痛みと同時に、誇りそのものだった。


窓の外では、満月が白々と輝いていた。

その光がカーテンの隙間から差し込み、鏡の中のリリアンヌを包み込む。

彼女はそっと瞼を閉じ、深く息を吸い込んだ。


(これが、わたくしの“微笑”……

 たとえ誰にも気づかれなくとも、この形だけは失いたくない。)


その想いが胸の奥で静かに結晶し、

月光の中で――彼女の微笑は、まるで薄氷のように美しく、儚く、強く輝いた。


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