絢爛たる舞踏会 ―― 宝石のような夜に、彼女の居場所はなかった
午後の陽光が傾き始めた学院の談話室に、銀の封蝋が施された封筒が一通、静かに届けられた。
白い便箋には金糸で王家の紋章が浮かび上がり、その上に流麗な筆致で名前が記されている。
――リリアンヌ・エルノア・ド・ヴァンシュタイン。
それは学院上層部主催の大舞踏会への招待状。
王族や名門貴族の子弟たちが集う、年に一度の最も華やかな夜の招待客リストに、彼女の名があるという事実は、学院内で瞬く間に話題となった。
マリアは封筒を手に取り、目を輝かせた。
「リリアンヌ様……! 見てくださいませ、ついに“特別招待生”としてお名前が!
あの一件のあとも、皆があなたの正しさを認めた証ですわ!」
リリアンヌは静かに微笑み、指先で金文字をなぞった。
陽光が封筒に反射して、白い机の上に淡い光の筋を描く。
だがその微笑は、どこか儚く、影の色を帯びていた。
「ええ……確かに、形としてはそうなのでしょうね。」
彼女は目を伏せ、そっと息を吐く。
「けれど――“名を連ねる”ことと、“心を受け入れられる”ことは、まるで別のことですわ。」
マリアは言葉を失う。
その瞳の奥に、リリアンヌがこの数ヶ月で積み重ねてきた孤独の影が見えた。
不正を告発し、真実を貫いたことで得た“正しさ”は、彼女を光に押し上げたと同時に、周囲から遠ざけてもいた。
窓の外では、初夏の風が木々を揺らし、白いカーテンをやわらかくはためかせる。
だがその光景は、どこか現実から隔てられた絵画のように、遠く感じられた。
「……それでも、行かねばなりませんわね。」
「ええ?」
「たとえ居場所がなくとも、誇りは背を伸ばすものですもの。」
マリアはその言葉に小さく頷き、リリアンヌの手を取る。
その手は冷たく、それでも凛としていた。
――こうして、“名誉の回復”という名の仮面を被った夜が、静かに幕を開けようとしていた。
夜の鐘が八つを打つころ、王都学院の大広間は光の海となっていた。
幾千ものクリスタルが吊るされた大シャンデリアが、金と白の光を降らせ、
弦楽四重奏の音色が、花弁のように空間を漂う。
王族、名門、貴族。
彼らはそれぞれが磨かれた宝石のように装い、
この一夜のために用意された仮面を身に着けていた。
リリアンヌ・エルノア・ド・ヴァンシュタインは、
その中心で静かに立っていた。
淡い銀紫のドレスが灯に揺れ、
首元のサファイアが微かに脈打つように光る。
微笑は完璧で、姿勢はひとつの乱れもない。
だが、彼女の周囲には、
人の輪が――ない。
令嬢たちは距離を置き、囁きを交わす。
「あの方、また王族の庇護で呼ばれたのではなくて?」
「“正義”を振りかざした令嬢よ。
夜会の光には、ああいう方は似合わないわね。」
グラスを傾ける手の動きさえ、彼女の名前を避けるようだった。
リリアンヌはその視線のすべてを受けながら、
ただ微笑を崩さない。
――完璧な微笑は、最も美しい仮面。
周囲が輝けば輝くほど、
その静けさだけが、痛いほど浮かび上がっていく。
足元の大理石に映る自分の姿を見て、
彼女は一瞬、目を閉じた。
「宝石のような夜……けれど、宝石には温もりがないのね。」
舞踏会は華やかに進む。
音楽が高まり、ドレスが舞い、笑い声が花のように散る。
だが、その中心にいるはずの彼女だけが――
まるで、絢爛の中に閉じ込められた影のようだった。
それでも、リリアンヌは歩みを止めなかった。
一歩、また一歩。
氷のような優雅さでホールを横切り、
その姿こそが、“孤独の美”として人々の目を奪っていた。
「華やかさとは、誰かの沈黙の上に成り立つもの……
ならば、この沈黙すら、私の舞台にしてみせますわ。」
その瞳は、シャンデリアの光を映しながら――
どこか、遠い夜明けを見つめていた。
ワルツの旋律が、天蓋のように広がるホールを包み込んでいた。
ペールブルーの絨毯を踏み鳴らす靴音、
シャンデリアが放つ金の光が、無数のドレスの裾に反射して波のように揺れる。
そのとき――人々の視線が、一点に集まった。
王太子アレクシス・ル=クロード。
蒼の軍礼装に身を包み、
彼はまっすぐリリアンヌのもとへ歩み寄る。
「リリアンヌ嬢。皆の前で……もう一度、踊ってくれませんか?」
ざわめきが広がった。
令嬢たちの囁きが、花の影のように揺れる。
「また……殿下が彼女を?」
「見なさい、あの微笑。まるで氷の彫像だわ。」
リリアンヌは一瞬だけ、沈黙した。
だが次の瞬間、彼女は完璧な優雅さで裾を持ち上げ、
深く一礼する。
「この光栄に、心より感謝いたしますわ。」
アレクシスがその手を取る。
柔らかな弦の音が流れ、
二人の姿がホールの中央で回り始めた。
青と銀が溶け合うような舞。
観客の吐息が、音楽に紛れて消える。
リリアンヌの笑顔は完璧だった。
背筋はまっすぐ、指先には揺らぎもない。
それはまるで、何も傷つかぬ人形のように美しかった。
――だが、その瞳の奥では、
小さな痛みが波のように広がっていた。
(この光の中にいるほど、私は遠ざかっていく……)
(皆と、世界と、自分からさえも。)
回転のたび、宝石の光が彼女の瞳を刺す。
笑みを保つほどに、胸の奥の孤独が静かに軋んでいった。
やがて、アレクシスが囁く。
「あなたの微笑みは、美しいけれど……悲しい。」
リリアンヌはわずかに瞳を伏せ、
その声を受け止めるように囁いた。
「美しいものほど、傷を隠すのに向いていますの。」
その言葉は、音楽よりも静かで、
どこか祈りにも似ていた。
最後の一音が消える。
二人の舞が止まり、拍手が響く。
だがその拍手の中で――
リリアンヌの心だけは、ひとつも鳴らなかった。
彼女はただ、微笑んだまま。
誇りという仮面を外さぬまま、
再び、孤独の中心に戻っていった。
音楽は、まるで夜空に散る星のように始まった。
銀のシャンデリアが光をこぼし、絹の裾がその光をすくい上げる。
宝石のざわめき、香水の甘い波。――それらすべてが、ひとつの夜の夢のように渦を巻いていた。
ホールの中央に立つリリアンヌは、
完璧な微笑みを唇に浮かべていた。
ドレスは淡いクリームローズ。
上品に結い上げた髪の下で、彼女の瞳だけが、どこか遠くの光を見ているようだった。
そこへ、王太子アレクシスが歩み寄る。
人々の視線が息を呑んだように彼を追い、
囁きが花の影のように揺れる。
「また殿下が……」
「彼女を選ぶなんて、どういうおつもりかしら。」
アレクシスはそのさざめきを気にも留めず、
リリアンヌの前で静かに手を差し出した。
「リリアンヌ嬢。皆の前で――もう一度、踊ってくれませんか?」
彼の声は穏やかだったが、その響きには微かな決意があった。
リリアンヌは息を止め、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
だが次の瞬間には、何事もなかったように微笑み、
裾を持ち上げて優雅に一礼した。
「この光栄に、心より感謝いたしますわ。」
音楽が変わる。
ワルツの旋律が流れ、
二人はゆっくりと、円を描くように舞い始めた。
彼女の動きはまるで風のようだった。
なめらかで、均整が取れ、見る者の呼吸さえ忘れさせる。
だが、彼女の心は――静かに軋んでいた。
光の粒が髪に触れるたび、
遠い日々の記憶が痛みのように胸を締めつける。
(この光の中にいるほど、私は遠ざかっていく……)
(皆と、世界と、そして――自分自身からさえも。)
人々の拍手、憧れ、称賛。
そのどれもが、彼女にとっては透明な壁のようだった。
誰も触れられず、誰にも届かない。
アレクシスは踊りながら、彼女の瞳を見つめた。
そこに映る静けさに、彼は胸を締めつけられる。
「あなたの微笑みは、美しいけれど……悲しい。」
その囁きに、リリアンヌはわずかにまぶたを伏せる。
そして、ほとんど息にもならぬ声で答えた。
「美しいものほど、傷を隠すのに向いていますの。」
その言葉は、音楽よりも静かで、
まるで祈りのように夜空へ消えていった。
最後の一音が響く。
舞が終わり、拍手が起こる。
リリアンヌは微笑んだまま、深く一礼した。
だがその笑みは――氷のように静かだった。
華やかな光の中、彼女だけがひとり、
仮面のような誇りをまとって立っていた。
そして誰にも気づかれぬまま、
その誇りの奥で、彼女の孤独だけが
ひっそりと、夜の宝石のように輝いていた。
舞踏の喧騒が遠ざかるころ、夜風が静かにホールの扉を撫でた。
リリアンヌは、誰にも気づかれぬように外へ出た。
庭園には月光が降り注ぎ、白い薔薇が薄青の輝きをまとっている。
音楽も笑い声も、もうここまでは届かない。
夜露に濡れた石畳に、彼女の靴音がひとつ、ふたつ。
その音さえやがて消え、リリアンヌは足を止めた。
そっと踵を外し、裸足で冷たい石の感触を確かめる。
――冷たい。
けれど、その冷たさが妙に心地よかった。
仰ぎ見た夜空は、舞踏会のシャンデリアよりも静かな光を放っている。
そして、その光を受けながら、彼女はぽつりと呟いた。
「この世界では、完璧であることが、孤独なのね……」
その声は、月明かりの中に吸い込まれるように消えていった。
胸の奥にしまい込んでいた何かが、そっとほどけていく。
彼女の瞳から、一粒の涙が頬を滑り落ちた。
まるで宝石の欠片のように、月光を反射してきらめく。
そのとき、背後から静かな足音。
リリアンヌが振り返ると、マリアが立っていた。
ドレスの裾を濡らしながら、彼女はそっと近づき、
一枚のハンカチを差し出した。
「リリアンヌ様……舞踏会で一番輝いていたのは、あなたです。」
リリアンヌは微笑もうとしたが、唇が震えた。
そして小さく首を横に振る。
「いいえ――一番冷たく光っていたのかもしれませんわ。」
その微笑みは、哀しみを包み隠すように柔らかかった。
マリアは言葉を失い、ただ彼女の隣に腰を下ろした。
二人の間を、夜風が静かに通り抜ける。
遠く、舞踏会の残響がまだ微かに聞こえる。
けれどこの庭園だけは、まるで世界から切り離されたように穏やかだった。
涙の跡が乾くころ、月は雲の切れ間からさらに強く輝きを増した。
宝石のような夜――
だがその輝きの中にいるリリアンヌの心だけは、
ひとしずくの涙のように、儚くも人間らしい温もりを宿していた。
夜が明けはじめ、東の空が淡く白んでいく。
豪奢な舞踏会のホールには、散らばった花びらと、
香水の名残と、そして静けさだけが残っていた。
かつて笑い声と音楽に満ちていたその場所は、
いまやまるで一夜の夢が醒めた後のように、
現実の冷たさを取り戻していた。
リリアンヌは、一人その中央に立っていた。
舞踏の余韻を纏ったドレスの裾を摘み、ゆっくりと歩く。
足音が大理石の床に響くたび、彼女の心にも
ひとつ、ひとつ、夜が剥がれ落ちていくようだった。
壁際に並ぶ鏡の前で、彼女は立ち止まる。
そこには完璧な令嬢の姿――整った髪、姿勢、微笑み。
けれどその瞳の奥には、誰も知らぬ翳が宿っていた。
リリアンヌはそっと指先で鏡面をなぞる。
映る“自分”に語りかけるように、静かに微笑んだ。
「完璧さとは、他人に見せるための仮面。
でも――私が守りたいのは、その下にある“本当の私”ですわ。」
朝日が差し込み、鏡の中の彼女を黄金色に染める。
光の粒が舞い、散らばった花びらの上で瞬いた。
それはまるで、夜の涙が光に変わる瞬間のようだった。
ラストモノローグ:
「宝石のような夜は、人の心を照らすには眩しすぎる。
華やかさの中でこそ、孤独は最も深く輝く。
それでも――私は微笑む。
光の中で見失われた“誠実”という名の影を、守るために。」
そう呟いた彼女の横顔に、朝の光がやさしく触れる。
その微笑みは、夜を越えた者だけが知る静かな強さを湛えていた。




