真実の代償 ―― 正しさを選んだ瞬間、誰も味方はいなかった。
その日の学院は、春の雨が降ったあとのように静まり返っていた。
生徒たちは講義室に散り、廊下には誰の足音も響かない。
ただ、古い書庫の奥で、ページをめくる小さな音だけが時を刻んでいた。
リリアンヌ・ド・ヴァレンタインは、埃をかぶった帳簿の山を整理していた。
校務補佐の手伝い――いつものように几帳面な手つきで、彼女は背表紙を撫でていく。
だが、ふと指先に違和感を覚えた。
一冊だけ、背革が新しい。周囲の古い紙束の中で、それだけが不自然なほど綺麗だった。
――『学院運営経費報告書・前年分』
何気なく開いたその頁。
整然と並ぶ数字の中に、ひとつだけ、違和感があった。
黒々としたインクで上書きされた金額。筆跡が途中から変わっている。
そして、欄外には消し残された痕跡――「寄付金振替分」。
リリアンヌの胸が小さく鳴った。
寄付金、それは学院を支援する貴族家からの資金。
本来なら教育設備に使われるべきものだ。
それが――“誰か”の手で別の口座に流された?
彼女は帳簿を閉じ、深く息をついた。
冷たい埃の匂いが肺を満たし、思考を研ぎ澄ます。
報告すれば、学院は揺れる。関わった者が貴族なら、ただでは済まない。
だが、黙っていれば、真実はこの埃の下で朽ちてゆくだろう。
窓から差す陽光が、帳簿の金文字を照らす。
リリアンヌはその光に目を細め、そっと呟いた。
「見なかったふりをすれば、誰も傷つかない。
でも、それでは……真実まで、眠らせてしまうことになるわ。」
言葉が、書庫の静寂に吸い込まれる。
その瞬間、彼女の中で、ひとつの決意が芽吹いた。
沈黙という安寧よりも、孤独という誇りを――選ぶ覚悟が。
翌朝。学院長室の重厚な扉が、静かに閉まる音が響いた。
深紅のカーペットを踏みしめ、リリアンヌは両手で帳簿を抱えていた。
その姿は、まるで裁きの場へ赴く修道女のように、凛としていた。
「――確証があるわけではございません。
ですが、この数字には明らかな不整合がございます。
どうか、調査をお願いいたします。」
学院長は沈黙した。
重く垂れた瞼の奥で、何かを測るようにリリアンヌを見つめる。
彼の背後の壁には、寄付を行った貴族家の紋章がずらりと飾られていた。
――その中のひとつに、“ド・ランティエ”の紋もあった。
「……承知しました。報告は確かに受け取りました。
だが、リリアンヌ嬢。これは貴族間の繊細な問題です。
あなたの善意が、予期せぬ騒動を呼ぶこともありますぞ。」
その忠告に、リリアンヌは穏やかに微笑んだ。
「それでも、真実が見過ごされる方が、私には恐ろしいのです。」
帳簿が机の上に置かれる。
音は小さいのに、まるで雷鳴のように重く響いた。
その翌日、学院はざわめきに包まれた。
廊下を歩くたび、リリアンヌの耳に囁きが刺さる。
「どうしてそんなことを……? 黙っていればよかったのに。」
「敵を作ったわね。あの教官、後ろ盾は公爵家よ?」
「あの方、正しいことしかしないから――怖いのよ。」
どの声も、遠ざかる足音のように冷たかった。
視線は避けられ、微笑みは影を帯びる。
正義が告げられた瞬間、学院の空気がわずかに軋んだのだ。
マリアが息を切らして追いつく。
廊下の角で、彼女は心配そうに声をかけた。
「リリアンヌ様……皆、分かっていないだけです。
間違っているのは、あなたではありません!」
リリアンヌはその言葉に、わずかに微笑を返した。
けれど、その瞳の奥には静かな決意と、ほんの少しの寂しさが宿っていた。
「ええ、大丈夫よ。
正しさは時に孤独でも――嘘より、ずっと静かですもの。」
外では風が吹き、木々の枝がざわめいた。
それは、まるで彼女の心に呼応するかのような、孤独の調べだった。
学院に設けられた「調査委員会」は、重々しく発足したものの――
動きは遅く、報告は曖昧で、空気はどこか濁っていた。
会議室の扉が閉まるたび、外では誰かのため息が漏れる。
学院の噂は風より早い。
やがて、それはリリアンヌの足元を冷たく包み始めた。
「あの令嬢が、寄付金の件を暴いたそうよ。」
「でも証拠なんて曖昧なんでしょう? だったら――騒ぎを起こしただけね。」
「学院の名誉を傷つけたのは、彼女の方ではなくて?」
正しさが、いつしか“騒動”と呼ばれる。
それは真実よりも、秩序を守るための方便だった。
教官の一人が授業の合間にリリアンヌへ告げる。
「あなたの行いが誠実であることは理解しています。
ですが、波風を立てぬこともまた“賢明さ”というものです。」
その声には非難よりも“忠告”の響きがあった。
けれど、それが余計に彼女の胸を締めつける。
“正しいこと”をするというのは、誰かの安寧を壊すことでもある。
それを理解してなお、歩みを止められない自分が、少し怖かった。
放課後、マリアが校舎の影でリリアンヌを待っていた。
いつもなら駆け寄ってくる彼女が、その日は立ち止まったままだった。
まるで、一歩近づけば何かが崩れてしまうとでもいうように。
「……リリアンヌ様。私……もう、これ以上は……」
「ええ、分かっていますわ。」
リリアンヌは微笑んで首を振る。
マリアの手が震えているのを見て、責める言葉を呑み込んだ。
「仕方のないことですの。
真実を選ぶというのは、時に――誰も味方がいなくなるということですもの。」
その声は静かだった。
だが、どこまでも透明で、雨の後の空気のように澄んでいた。
マリアは涙をこらえ、深く頭を下げた。
遠ざかる足音を聞きながら、リリアンヌは小さく息を吐く。
――正しさには、重さがある。
それを抱えられる者だけが、孤独の意味を知るのだ。
数週間の沈黙のあと、学院全体を揺るがす知らせが告げられた。
学院長の厳粛な声が講堂に響く。
「経費帳簿の改ざんは事実であると確認された。
関係した教官は本日付で辞任処分とする。」
その瞬間、空気が凍りついた。
正しさが証明された――けれど、それは誰一人として喜べない結末だった。
廊下を歩けば、誰もがリリアンヌを避けた。
視線は敬意ではなく、恐れの色を帯びている。
「……すごい方ね。学院を動かすなんて。」
「でも、次に暴かれるのは誰かしら。」
「あの方の前では、隠しごとなんてできないわ。」
称賛と警戒が、ひとつの沈黙に溶けていく。
リリアンヌはそれを聞きながら、ただ静かに歩いた。
誰も彼女を責めはしない。
けれど、誰も彼女に近づこうともしなかった。
正しさの代償とは、孤独そのものだった。
夕暮れの廊下に、一人立つ。
窓の外では、沈みかけた陽が雲の隙間からこぼれ、床を赤く染めていた。
リリアンヌは胸に手を当て、ぽつりと呟く。
「正しさは、光ではなく――
影を照らし出す炎なのかもしれませんわね。」
光は眩しく、確かに真実を浮かび上がらせる。
だがその炎が最初に焼くのは、いつも“差し出した者の手”だった。
誰も見ていない講堂の端で、蝋燭の火がわずかに揺れる。
それはリリアンヌの心のように、決して消えず、静かに灯り続けていた。
夜の学院は静まり返っていた。
講堂の灯りは消え、雨上がりの石畳が淡く月光を返している。
リリアンヌは回廊の端に佇み、沈黙の中で息を整えていた。
風がカーテンを揺らし、淡い影を壁に落とす。
その影の中から、小さな足音が近づいてくる。
マリアだった。
「リリアンヌ様……」
彼女は息を弾ませながら、濡れた手を胸に当てた。
> 「私は、正しいことをしてくれたあなたを――誇りに思います。」
リリアンヌは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑む。
> 「誇り……ふふ。そんな言葉を、今の私にくださるのですか?」
月明かりが、彼女の頬をかすめた。
その微笑みは優しく、それでもどこか遠い。
「誇りよりも、人の温もりの方が恋しくなるものですわ。
けれど――それでも、間違いよりは、この寂しさを選びたい。」
マリアは言葉を失い、ただ彼女の隣に立った。
二人の影が並んで長く伸びる。
その間に、もう言葉はいらなかった。
ラストモノローグ
「真実は、必ずしも光をもたらさない。
それは人を照らすよりも、影を際立たせる。
正しさを選ぶたび、誰かを傷つけ、誰かを失う。
けれど――沈黙に背を向けたその一歩こそが、
本当の“誇り”という名の代償なのだわ。」
夜が明け始める。
冷たい光の中に立つリリアンヌの姿は、
孤独ではなく――静かな信念そのものだった。




