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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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雨の日の手紙 ―― 便箋は濡れ、言葉は滲んだ。

その週、学院の空はずっと泣いていた。

 朝も昼も夕も、灰色の雲が低く垂れこめ、校舎の窓を無数の雨粒が叩き続けている。

 中庭の白薔薇も、今はただ静かに濡れ、俯いたまま。


 リリアンヌは、そんな景色を眺めながら、窓辺の机に腰を下ろしていた。

 淡い桃色の便箋には、いくつもの書きかけの言葉がある。

 その行を見つめ、彼女は小さく息をついた。


「伝えるべきか、沈黙を選ぶべきか……」

「どちらも、勇気が要りますわね。」


 宛名の欄には――

 《セリーヌ・ド・ランティエ》

 かつての友の名が、少し震えた筆跡で書かれていた。


 窓の向こうで雨脚が強まる。

 ペン先に映る光が揺れ、紙の上で滲みのように震えた。


 そのとき、控えめなノックの音がした。


「リリアンヌ様……」


 入ってきたのはマリアだった。淡い金の髪をリボンでまとめ、手には湯気の立つ紅茶を抱えている。

 彼女は静かに机の上の便箋に目をやり、そっと問いかけた。


「そのお手紙……まだ出さないのですか?」


 リリアンヌは少しだけ目を伏せ、柔らかく微笑む。


「ええ……雨のせいかしら。言葉が滲みそうで、まだ筆が進まないの。」


 その声には、疲れでも後悔でもない。

 ただ、濡れた心の底で灯るような静かな迷いがあった。


 マリアはそっと机の上にカップを置く。

 紅茶の香りが、雨の湿気と混じり合って、かすかに甘い。


「……セリーヌ様に、伝えたいことがあるのですね。」

「ええ。けれど、言葉というのは難しいものですわ。

  真実ほど、紙の上で形を失いやすいのですもの。」


 窓の外では、雨がさらに強く降り出した。

 まるで、迷いを肯定するかのように。


 リリアンヌは、インクの染みた指先で便箋の端をなぞり、そっとつぶやいた。


「この雨が止んだら……出せるかしら。」


 その言葉は、雨音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。

 ただ、窓越しの世界に、静かな願いだけが溶けていった。


春の雨は、まだやまなかった。

 そのしとしととした音が、学院の廊下にも、教室の隅にも染み込んでいる。


 だが、その静けさの中に――一人の名だけが、そっと避けられていた。


 セリーヌ・ド・ランティエ。

 晩餐会の夜から、彼女は学院に姿を見せていない。

 公式の報告には「病気療養中」と書かれていたが、誰も本当の理由を問おうとはしなかった。


 人々は彼女の名を口にしない。

 けれど、その沈黙こそが、何より雄弁に事情を物語っていた。


 リリアンヌは、その朝も机の引き出しを開けた。

 そこには、封をされないままの手紙が一通、丁寧に重ねられている。

 薄い桃色の便箋は、日ごとに端が丸まり、インクの跡が少しずつ薄れていた。


「おはようございます、リリアンヌ様」


 マリアが教室に入ってきて、机に花を一輪置いた。

 小さなスズラン――彼女の気遣いの象徴のように、静かに香る。


「セリーヌ様のこと……まだ、心にありますか?」

「ええ。忘れようと思っても、忘れることが“裏切り”になる気がして。」


 マリアは黙って頷いた。

 リリアンヌは視線を落とし、指先で便箋の角を撫でながら、ぽつりとつぶやく。


「伝えたいのは、怒りではなく“赦し”なのに……」

「どうして、言葉にしようとすると痛くなるのかしら。」


 マリアは一瞬、何も言えなかった。

 窓の外では、雨が硝子を叩いている。

 その音は、まるで返事のように、どこまでも優しく、けれど切なかった。


 昼休み、他の令嬢たちは談笑していた。

 けれど、セリーヌの名前が出ると、すぐに会話が途切れる。

 「かわいそうに」と誰かが言い、「仕方ないわね」と別の誰かが応じる。

 ――そのどちらにも、ほんとうの思いはなかった。


 リリアンヌはただ窓際に座り、雨に煙る中庭を見ていた。

 手の中の便箋は、まだ白い余白を残したまま。

 インクの匂いが薄れていくたびに、彼女の中の“赦し”も形を失いそうになる。


「言葉で赦すことは、こんなにも難しいのね……」


 そのつぶやきに、誰も答えなかった。

 ただ、窓を伝う一滴の雨が、便箋の端を濡らして――

 まるで彼女の代わりに涙を落とすかのようだった。


放課後の鐘が鳴るころ、学院の空はまだ泣きやまぬままだった。

 重く垂れ込めた雲が、まるで誰かの心のように沈んでいる。


 リリアンヌは傘を持たず、ただ静かに中庭を歩いていた。

 制服の裾が濡れ、髪に雨が落ちる。

 それでも、彼女の腕の中には――白い封筒が、大切そうに抱かれていた。


 宛名は、

 「セリーヌ・ド・ランティエ様」。


 筆跡は丁寧で、けれどその文字の端が少しだけ滲んでいる。

 まるで、書き手の心が雨に透けて見えるようだった。


 門のそばまで来たとき、背後から小さな声がした。


「リリアンヌ様! お待ちください!」


 マリアが、息を切らせて駆け寄ってくる。

 傘を片手に、もう片方でスカートを押さえながら。


「風邪を引いてしまいます! どうして……どうして、そんなに濡れてまで?」


 リリアンヌは足を止め、振り返った。

 雨粒がまつげに光り、微笑がかすかに震える。


「言葉を渡さなければ、心は止まったままですわ。」

「たとえ、届かなくても――出さなければ、始まりませんの。」


 その声は、雨音の中に吸い込まれていった。

 マリアは息を呑む。

 彼女の手の中の封筒は、すでにしっとりと濡れ、インクが涙のように滲んでいる。


 郵便受けは、校門の脇の石壁に埋め込まれていた。

 錆びた鉄の口が、まるで過去を飲み込むように沈黙している。


 リリアンヌはその前に立ち、しばらく封筒を見つめていた。

 そこには未練も、哀しみも、赦しも――すべてが詰まっている。

 ひとつ息を吸って、そっと呟いた。


「もう、濡れても構いませんわ。

 この手紙は、私の心そのものですもの。」


 そして、彼女は指先で封を閉じた。

 手紙をゆっくりと差し入れる。


 ――カサリ、と静かな音。


 たったそれだけの音が、雨の中で不思議なほど響いた。


 マリアは、濡れた彼女の背中を見つめながら、小さく震えた。

 それは悲しみの姿ではなかった。

 痛みを抱えながらも、確かに前へ進む人の姿だった。


「……リリアンヌ様。」

「はい?」

「きっと、届きます。たとえこの雨の向こうでも。」


 リリアンヌは振り返り、柔らかく笑った。


「ええ。――届かなくても、想いは残りますわ。」


 雨はやまない。

 けれど、空のどこかで光がほんの少し滲んでいた。


その朝、雨はようやく止んでいた。

 雲の切れ間からこぼれた光が、学院の石畳を柔らかく照らしている。

 湿った空気の中に、どこか新しい息吹のようなものが混じっていた。


 リリアンヌが教室に入ると、机の上に一通の封書が置かれていた。

 白い便箋が、まだ少しだけ湿り気を帯びている。

 宛名には――彼女自身の名前。


「……わたくし、宛て?」


 小首を傾げて封を開く。

 そこには、見覚えのある優雅な筆跡が並んでいた。


「リリアンヌ様へ。

 あの日、あなたの微笑みが痛かった。

 でも今なら分かります。

 あの痛みこそが、“赦し”の形だったのですね。

 どうかもう一度――友と呼ばせてください。」


 そこまで読んだところで、インクが滲んでいた。

 水に濡れた跡が、まるで涙のように紙を波打たせている。

 途中の数行は判読できず、言葉が滲んで、にじんで、

 白い紙の中に溶けていった。


 けれど、最後の一文だけは、驚くほど鮮明だった。


「ありがとう」


 その五文字が、陽の光に照らされてきらりと光る。


 リリアンヌは便箋を両手でそっと持ち上げ、窓辺に立つ。

 朝の光が紙を透かし、滲んだ文字の向こうに柔らかな影を作る。


「雨が、言葉を滲ませても……想いだけは消えませんのね。」


 微笑がゆっくりと彼女の頬に戻っていく。

 その微笑みには、悲しみも後悔もなかった。

 ただ、確かな“温もり”があった。


 窓の外では、最後の雨雫が葉先から落ちて、

 静かに地面へと吸い込まれていく。


 マリアが教室の扉から顔を出す。


「リリアンヌ様、朝の鐘が鳴りましたよ。」

「ええ、今行きますわ。」


 リリアンヌは手紙を丁寧に折りたたみ、胸元にしまった。


 ――もう、濡れても構わない。

 この言葉は、もう雨の中ではなく、

 光の中で生きているのだから。


 翌朝、雨はすっかり上がっていた。

 学院の庭に残る水たまりが空を映し、雲の切れ間から差す光を震わせている。

 リリアンヌはいつもの席に座り、静かに紅茶を口にした。

 机の上には、一通の封を閉じた手紙――昨日、読み終えたセリーヌの返事が置かれている。


 マリアがそっと窓辺に寄り、遠慮がちに問いかけた。


「お二人は、もう……和解なさったのですか?」


 リリアンヌは微笑む。

 その笑みは、昨日までの雨のような翳りを残さず、柔らかな光を帯びていた。


「ええ。言葉は半分しか届きませんでしたけれど――」

「その“半分”で、十分でしたわ。

 想いは、残りを埋めてくれますもの。」


 マリアは安堵の息をつき、窓の外を見やった。

 そこには薄日が差し、雨粒が光を反射して虹がゆるやかに架かっている。


 その光が、机の上の手紙を照らした。

 滲んだ文字の上に、七色の光がやわらかく広がり、

 まるで“赦し”という名の花が咲いたようだった。


ラストモノローグ


「言葉とは、雨に濡れる便箋のようなもの。

 形は滲み、文は欠けても――

 そこに込めた心だけは、決して消えない。

 赦しとは、伝わることではなく、

 伝えようとする勇気の中に咲く花なのだわ。」


 外では、虹の下を小鳥たちが飛び交っていた。

 リリアンヌはそっと手紙に触れ、窓を開く。

 風が吹き込み、紙の端が小さく揺れた。


 それはまるで、

 ――“ありがとう”という声が、風の中に返ってきたかのようだった。





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