友の裏切り ―― 手を取るふりをして、背を押された。
春の光が、学院の回廊を淡く照らしていた。
花々が香りを競い合う中、学生たちは一様に浮き立った表情を見せている。
――それもそのはず。
年に一度の大行事、「社交晩餐会」が間近に迫っていたのだ。
大広間を彩る装飾、音楽の選定、そして客人をもてなす礼儀作法。
この晩餐会は、学院における一大社交の試練であり、
生徒たちの将来の評価にも関わる重要な場だった。
リリアンヌはその準備委員の一班に任命されていた。
彼女とマリアは同じ班――気心知れた仲間との作業に、
マリアは安心の息をつく。
「リリアンヌ様と一緒なら、きっと素敵な晩餐会になりますね!」
「ふふ……ええ。あなたの細やかさがあれば、何も心配いりませんわ。」
そんな中、班に新たな一人が加わる。
栗色の髪を優雅にまとめ、微笑を絶やさぬ令嬢――
セリーヌ・ド・ランティエ。
彼女は上級貴族の娘であり、学院でも名の通った人気者だった。
人当たりがよく、話術に長け、誰とでも自然に打ち解けられる。
その姿はまるで、春風そのもののよう。
「リリアンヌ様、マリア様、これからご一緒できるのが嬉しいですわ!」
「まぁ、こちらこそ。あなたのような方が加われば心強いですわね。」
微笑み合う三人。
その瞬間、班の空気が華やいだように感じられた。
周囲の生徒たちも、どこか羨望の眼差しを向ける。
「リリアンヌ様とセリーヌ様が同じ班だなんて、夢のようだわ。」
「まるで光と光が重なるみたい。」
はじめのうち、連携は順調だった。
セリーヌは器用に周囲をまとめ、リリアンヌの提案にも賛同を示す。
マリアもそんな二人を見て、ほっと胸を撫でおろした。
けれど――。
時間が経つにつれ、ほんの小さな、けれど確かな「ずれ」が生まれていく。
視線の交わらない瞬間。
言葉の温度の違い。
そして、笑顔の奥に潜む、かすかな翳り。
それはまだ、誰も気づかぬほど微かな歯車の音。
しかし確かに、運命の機構は静かに回り始めていた。
「リリアンヌ様、今回こそ私たちが最高の班にしてみせましょう!」
「ええ、共に頑張りましょう、セリーヌ。」
――その約束の言葉が、後にどんな意味を持つかを、
その時の彼女たちはまだ知らなかった。
春の陽が傾き、学院の中庭には柔らかな金色の光が差していた。
晩餐会の準備は日に日に慌ただしさを増し、各班の会議室では活発な声が飛び交う。
リリアンヌの班も例外ではなかった。
彼女の提案は常に整然としていて、無駄がなく、理想的だった。
けれど――“理想的すぎる”ことが、時に人々の息苦しさを招くこともある。
「それでは、装花の配置は左右対称に。客人がどこから入っても、同じ印象を受けるように。」
「さすがリリアンヌ様……ですが、それだと少し硬い印象になるかもしれませんわ。」
柔らかい声が割り込む。
セリーヌ・ド・ランティエ。
彼女は優しく微笑みながら、自然と皆の視線を引き寄せた。
「リリアンヌ様のご提案は完璧ですけれど……皆、少し肩が張ってしまうようですの。
もう少し華やかに、自由にしてもよいのでは?」
リリアンヌはわずかに目を瞬かせた。
だが、反論の言葉は口にしない。
「……ええ、もちろん。あなたの感性も素敵ですわ、セリーヌ。」
会議室には安堵の笑いが広がる。
セリーヌはあくまで彼女を立てながら、同時に周囲の共感を巧みに引き寄せていく。
数日後。
その“微妙な修正”は、いつの間にか「リリアンヌ様の考えは少し堅苦しい」という印象に変わっていた。
「セリーヌ様は本当に気が利くわね。リリアンヌ様の言葉を分かりやすくしてくださるんだもの。」
「ええ、二人はまるで理想と現実のバランスそのものね。」
リリアンヌの信頼は、誰にも気づかれぬまま、少しずつ削がれていく。
マリアはその変化を見逃さなかった。
会議後、静かな廊下で彼女はそっと声をかける。
「リリアンヌ様、セリーヌ様……少し、言葉が違って伝わっているような気がします。」
リリアンヌは振り返り、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。
その笑みは春風のようにやさしく、けれどどこか儚かった。
「ありがとう、マリア。けれど……私は友を疑うより、信じて確かめたいのです。」
「信じる」という言葉が、こんなにも脆く聞こえたのは初めてだった。
マリアは胸の奥に、小さな不安の種を感じながらも、それ以上言えなかった。
そしてその種は、静かに――確実に、芽吹き始めていた。
学院の大広間では、晩餐会の装飾会議が開かれていた。
机の上には色とりどりの花の見本と、配置図、リボン、ガラス器。
春の陽光が窓から差し込み、会場はまるで前夜祭のような華やぎに包まれていた。
「本日の議題は、中央テーブルの装花案についてです。」
教官の声に、生徒たちは一斉に資料を手に取る。
その中には――見覚えのない図案が混ざっていた。
花の配置はリリアンヌが提出したものとは異なり、色のバランスも変えられている。
しかも、その差し替え案の欄外には確かに彼女の名が記されていた。
「……これを、あなたが指示したのですね? リリアンヌ・ド・ヴェルヌ嬢。」
教官の厳しい声。
会場がざわめく。
「えっ、でも……リリアンヌ様の提案は淡い色合いのはずでは?」
「そうよ、あんな派手な赤を使うなんて――」
誰もが困惑する中、リリアンヌだけが静かに立ち上がった。
「申し訳ございません、先生。誤解があったようです。
私が正式に承認した案ではございません。」
教官は眉をひそめる。
「だが、この書類にはあなたの署名がある。」
その瞬間――セリーヌが椅子を引き、立ち上がった。
慌てたように、けれどどこか“計算された慌て方”で。
「先生! きっと、リリアンヌ様のご意図がうまく伝わらなかったのですわ!」
「彼女はもっと穏やかな案を望んでおられたのです。
ただ、私たちがその意図を取り違えてしまったのかもしれません……!」
庇うような言葉――だが、その響きは微妙にずれていた。
まるで「誤解を招くほど指示が曖昧だった」と言っているように。
教官はため息をつき、
「次からは、誰が最終決定を下すのかを明確にしなさい。」
とだけ告げて退室する。
会議室に残った沈黙。
誰もが気まずそうに視線をそらした。
マリアは、拳を震わせながら立ち上がった。
「セリーヌ様、それではまるで……!」
声は震え、怒りと悲しみが入り混じっていた。
だが――リリアンヌが、そっと彼女の肩に手を置く。
その微笑は、どこまでも穏やかで、痛々しいほど優しい。
「いいのです、マリア。……真実は、沈黙の中でも残りますから。」
セリーヌはその横顔を見つめ、一瞬だけ目を伏せた。
そして、誰にも気づかれぬように――ほのかな笑みを浮かべた。
その笑みは、“友情”の仮面をかぶったまま、
ゆっくりと“崩壊”の幕を引き寄せていた。
晩餐会を翌日に控えた夜。
学院はすでに静まり返り、廊下のランプが琥珀色の光を落としていた。
リリアンヌの部屋では、まだ机の上に装飾案の台帳が開かれている。
淡い薔薇色のリボン、純白の花弁のスケッチ――
その指先は疲れているのに、動きを止めようとしなかった。
そんな時、軽やかなノックの音。
「リリアンヌ様、まだ起きていらしたのね?」
セリーヌ・ド・ランティエが、ほほえみを浮かべて入ってきた。
その笑みは、いつも通り完璧で、隙がなかった。
「もう遅い時間よ、セリーヌ。どうなさったの?」
「少しだけ……お話したくなったの。」
彼女はそう言って、部屋の中央に進み出る。
蝋燭の光が、金の髪を淡く照らす。
「リリアンヌ様。あなたの誠実さは――本当に、尊敬しているの。」
「でも……その誠実さが、時に皆を息苦しくさせていることも、知って?」
リリアンヌは静かに視線を上げる。
「息苦しく……?」
「そう。あなたはいつも正しくて、美しくて、誰よりも誇り高い。
でも、人は完璧な人のそばにいると、鏡を見せられているように感じるの。
自分の欠点が、あなたの光で照らされてしまうから。」
セリーヌは軽く笑みを含んだ声で続けた。
「少し、“隙”を見せた方がいいのよ。
そうすれば、皆にもっと愛されるわ。」
その言葉は甘く、優しい――けれど、どこかに冷たい棘が潜んでいた。
リリアンヌは一瞬だけ目を伏せ、そして微笑んだ。
「ありがとう、セリーヌ。あなたの忠告、嬉しく思います。
……でも私、隙を見せて“愛される”より、
誠実でいて“嫌われる”方を選びますわ。」
セリーヌの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
それはまるで、思惑が見透かされたような、わずかな苛立ちの色。
だがすぐに、彼女は再び完璧な笑みを取り戻す。
「……そう。あなたらしいわね、リリアンヌ様。」
「でも――その強さが、いつかあなたを一人にしてしまわないことを、祈っているわ。」
その言葉を残し、セリーヌは静かに扉を閉めた。
リリアンヌはしばらく机の上の台帳を見つめる。
炎が揺れ、影が彼女の横顔を切り取る。
やがて、蝋燭の灯が一瞬だけ揺らめき――
その間に、部屋の外で足音が一つ、遠ざかっていった。
そして翌朝。
学院中を駆け巡る新たな噂。
「リリアンヌ様が、また装飾案を独断で差し替えたそうよ!」
「今度は王子の意向を無視したとか――」
机の上に置かれた台帳のページは、確かに“差し替えられていた”。
記された筆跡は――あまりにも、セリーヌの筆致に似ていた。
晩餐会の朝。
学院の大広間は白と金の装飾で満たされ、音楽と笑い声が交錯していた。
薔薇の香りが漂う中、各班の代表が最後の確認に追われている。
リリアンヌの班も例外ではなかった。
教官が台帳を手に取り、最終確認の声を上げる。
「この配置案……少し修正が入っているようだが、誰の指示かな?」
その瞬間、会場の空気がわずかに緊張した。
リリアンヌは静かに歩み寄り、台帳を受け取る。
ページをめくる指が、止まる。
記された筆跡――優美で、流れるような文字。
見覚えのある線。
セリーヌのものだった。
ほんの一瞬、空気が凍る。
背後でマリアが小さく息をのむ。
だがリリアンヌは、何も言わなかった。
ただ、穏やかにページを閉じ、教官に微笑みかける。
「ええ、すべて私の責任ですわ。ご安心くださいませ。」
その声は、静かで、確かだった。
否定も弁解もなく、ただすべてを受け止める誇りの声。
教官は一瞬だけ目を細め、ゆっくりと頷いた。
周囲の令嬢たちはざわめきながらも、何も言えずにいた。
マリアはその背中を見つめ、唇を震わせる。
「どうして……どうして、何も言わないのですか……?」
リリアンヌは、ふと微笑んで答えた。
「裏切りとは、手を離すことではないの。
信じられたまま、その背を押すこと――だからこそ痛いのですわ。」
その瞳には、涙の代わりに穏やかな光が宿っていた。
セリーヌはその場で立ち尽くしていた。
手の中の扇が微かに震える。
リリアンヌの言葉が、何よりも鋭く、何よりも優しく、胸を貫いた。
「……リリアンヌ様……」
彼女の声は、誰にも届かぬほど小さく、風に溶けていった。
やがて晩餐会は滞りなく進行し、
夜の帳が降りるころには、リリアンヌの班の装飾がもっとも美しく輝いていた。
その光の中で、彼女はただ一人、静かに立っていた。
ラストモノローグ
「友情の裏には、時に嫉妬が潜む。
手を取り合うふりをして、誰かを突き落とすこともある。
けれど――それでも、私は手を差し伸べる。
裏切りの痛みより、信じる心の方が、きっと強いから。」




