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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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王子の庇護 ―― それが、かえって傷を深くした。

昼下がりの講堂に、黄金の光が静かに降り注いでいた。

リリアンヌ・ド・ヴェルヌは窓辺の席で、筆先を整えながら淡く微笑む。

――けれど、その笑みの奥に潜む影を知る者は、ほとんどいない。


「名誉は戻った」と人は言う。

だが、噂というものは花粉のように、風が吹けばまた舞い上がる。

廊下の角で囁かれる声は、彼女の背に静かに刺さっていた。


「やっぱり、何か裏があるんじゃない?」

「あの事件の後でも、平然としてるなんて……貴族の娘は違うわね。」


それでも、リリアンヌは一度も言い返さなかった。

ただ、筆を置き、姿勢を正し、礼儀正しく微笑み続ける。

それが彼女の誇りであり、静かな抵抗だった。


――その日。学院に、王子アレクシスが視察に訪れた。


講堂の扉が開くと同時に、空気が張り詰める。

生徒たちは一斉に立ち上がり、礼を取った。

王子の目は人々をゆるやかに見渡し、やがて一点で止まる。


「久しいな、リリアンヌ嬢。」

その声は柔らかく、それでいて威光を帯びていた。


彼は迷いのない足取りで彼女の前に立ち、静かに言葉を紡ぐ。


「私は知っている。あの件で、君がいかに誠実に振る舞ったかを。

 ヴェルヌ家の名は、決して汚れてはいない。」


その瞬間、講堂の空気がわずかにざわめいた。

称賛の言葉――だが、それは同時に“印”でもあった。

王子に認められた令嬢。

王子の庇護のもとにある存在。


「まぁ……」

「王子の前であんなふうに名指しされるなんて……特別扱い?」

「庇われるほど、何かあるのかしら。」


小さな囁きが波紋のように広がっていく。


リリアンヌはゆっくりと会釈した。


「もったいなきお言葉にございます、殿下。

 身に余るお心遣い、心より感謝申し上げますわ。」


彼女の声は涼やかで、揺らぎひとつない。

だが胸の奥では、別の痛みがひっそりと芽吹いていた。


――守られるということは、同時に、誰かと隔たること。

その庇護の温かさが、周囲との距離をより深くしてゆくことを、

彼女はすでに悟っていた。


そして、微笑みを保ったまま、リリアンヌはゆっくりと視線を伏せた。

その笑みこそが、彼女の防壁であり、孤独の証だった。



翌朝の学院は、まるで季節が変わったかのように空気が違っていた。

昨日まで囁かれていた悪意の言葉は姿を消し、

代わりに、整えられた敬語と過剰な礼儀が廊下を満たしていた。


「おはようございます、リリアンヌ様。

 ……まあ、なんとお美しいお仕度で。」

「さすが、王子のご信任を受けるお方。

 立ち姿ひとつで気品が溢れておりますわ。」


言葉は柔らかい。けれど、その中に混じる「線引き」の温度を、

リリアンヌは敏感に感じ取っていた。

まるで、誰もが見えない境界線を引き、そこから内側へ踏み込もうとしない。


昼餐のテーブルも、彼女の周囲だけが小さな静寂に包まれていた。

席を共にする令嬢たちは礼を欠かさないが、

笑い声の輪は、いつも一歩先の席で止まる。


「……さすが王子のお気に入りね。」

「恐れ多くて、うかつに話しかけられないわ。」


――その声が届くたび、リリアンヌは微笑んだ。

けれど、その笑みが誰にも届かぬことを、彼女自身がいちばん知っていた。


午後、マリアがそっと教室の隅から近づいてきた。

小さな声で、けれど勇気を振り絞るように言葉を紡ぐ。


「……リリアンヌ様。わたし、少し距離を取った方がいいのかもしれません。

 皆、私のことまで“王子の取り巻き”みたいに言うのです。」


リリアンヌはゆるやかに振り返り、

その瞳に影を落とすことなく、穏やかな笑みで答えた。


「いいえ、マリア。あなたまで遠ざかってしまえば――

 本当に“孤高”になってしまいますわ。」


マリアの胸がきゅっと締め付けられる。

彼女の言葉は、慰めではなく、祈りのように静かだった。


庇護とは、守りでありながら、同時に“壁”でもある。

リリアンヌの微笑みの内側には、誰にも触れられぬ距離があった。

それでも彼女は、その壁の向こうから、そっと友を想い続けていた。


春風が学院の庭を渡り、淡い花弁を運んでいく。

その風の中で、リリアンヌは王子アレクシスと並んで歩いていた。

話題は学院の運営について――けれど、その距離の近さは、

見る者の想像を容易に誘うものだった。


「リリアンヌ嬢、貴女のような生徒が増えれば、この学院ももっとよくなる。」

「身に余るお言葉ですわ。けれど、陛下の理想を支えるのは私ではなく……」

「違う。君のような誠実さが、真の支えになるのだ。」


アレクシスの声は真摯で、嘘のひとつもなかった。

けれどその真摯さこそが、リリアンヌの胸を締めつけた。

彼女は一歩下がり、視線を落とす。


――この距離を、誰かが見ていたなら。


その懸念は、やはり杞憂ではなかった。



その日の午後、廊下の一角では囁きが渦を巻いていた。


「リリアンヌ様、また王子と一緒に……まるで婚約者みたい。」

「もう妃候補として内定しているんじゃなくて?」

「かわいそうに、あの庶民の娘。結局、捨てられたのね。」


「庶民の娘」――その言葉は、マリアの耳にも届いていた。

本のページをめくる指が震える。

心の奥に、黒い影が差し込むようだった。


――リリアンヌ様は、きっと悪くない。

――それでも……私、どうしてこんなに苦しいのだろう。


彼女は教室を出て、庭の方へ歩いた。

春の陽光がまぶしいのに、胸の奥は冷たい。



一方、アレクシスと別れたリリアンヌは、

王子の誠意の余韻と、マリアの沈黙の重みの狭間で立ち尽くしていた。


「……殿下は、私をお守りくださっている。それなのに……」


その瞳はわずかに揺れ、風が金の髪をかすめた。


“守られる”とは、いつしか“縛られる”ことにも似ていた。

アレクシスの優しさは確かに本物だった。

けれど、その優しさが、リリアンヌの友情の輪をゆっくりと崩していく。


彼女の胸の奥で、初めて「庇護」という言葉が、

かすかな痛みを帯びて響いた。



夜の学院を包む風は、昼のざわめきを洗い流すように静かだった。

灯りの消えた花園で、白薔薇だけが月光を受けて淡く光っている。


その中に、二つの影。

リリアンヌとマリア。

二人の間には、昼間とは違う沈黙が流れていた。


最初に口を開いたのは、マリアだった。

彼女の声は、震えていた。


「……どうして、王子様の庇護を受け入れたんですか?」


リリアンヌは驚かなかった。

ただ、白薔薇を指先で撫でながら、ゆっくりと息を吐いた。


「拒むことが、誰かの好意を傷つけることもありますの。

 でも、受け入れたままでは……誰かの心が遠ざかってしまうのも、分かっているの。」


マリアは唇を噛み、俯いた。

風が二人の間をすり抜け、薔薇の花弁を散らす。

ひとひらがマリアの肩に落ち、それを見たリリアンヌは静かに微笑んだ。


「守られるのは、楽ではありませんわ。」

「……え?」

「でも――“守る人の優しさ”まで否定するのは、もっと痛いのです。」


月の光が、彼女の横顔を照らす。

その微笑みは穏やかでありながら、どこか悲しかった。


マリアは、胸の奥に何かが刺さるのを感じた。

リリアンヌは、王子を憎んでいない。

むしろ、彼の誠実を大切にしている。

それでも――自分の居場所を失いかけている。


「……リリアンヌ様、それでも、苦しくないのですか?」

「ええ。苦しいですわ。」

「それでも微笑むんですね。」

「ええ。風が吹いても、薔薇は咲くでしょう?

 それと同じことですの。」


夜風が再び吹き、白薔薇が揺れる。

その音はまるで、二人の心を包む小さな祈りのようだった。



王子アレクシスが学院を去る日、

中庭には春の名残を乗せた風が吹いていた。

生徒たちは整列し、名残惜しそうにその姿を見送る。


リリアンヌは一歩前へ進み、深く一礼した。

その所作は完璧で、凛として、美しかった。


「ご厚意に、心より感謝いたします。

 ですが――私には、私の立つ場所がございます。」


その言葉に、王子の瞳が静かに揺れる。

何かを言いかけたが、結局その唇は小さく微笑に変わった。


「……君らしいな、リリアンヌ。」


彼が馬車に乗り込み、扉が閉じる音が響く。

車輪が石畳を叩き、王子の姿がゆっくりと遠ざかっていく。


その瞬間、リリアンヌはふっと息を吐き、

小さく、しかし確かな笑みを浮かべた。


――庇護という名の鎖を、ようやく解いたのだ。


遠くからその様子を見ていたマリアが、そっと歩み寄る。

彼女の瞳には涙が光っていたが、微笑みは温かかった。


「リリアンヌ様……とても、綺麗でした。」

「ありがとう、マリア。あなたが見ていてくれたから、胸を張れましたわ。」


二人は互いに微笑み合い、

春風がその間を優しく通り抜けていく。

沈黙の中に、確かな信頼の花が咲いた。


ラストモノローグ


「庇護とは、時に棘を持つ花。

美しく香るほど、誰かを遠ざけてしまう。

けれど――真の優しさとは、守ることではなく、

相手が自ら立つ光を信じること。

私はその光を、もう一度見たいのです。」



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