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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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3/41

王子との邂逅 ―― 運命の少年は、彼女に未来を約束した。

王都の春は、白い光で満ちていた。

 馬車の窓から見える並木道は、桜でも薔薇でもない花々が咲き誇り、

 香りが甘すぎて息が詰まるほどだった。


 七歳のリリアンヌは、母クラリスの手によってその馬車に乗せられていた。

 白いドレス。真珠のティアラ。

 裾には一枚の皺もなく、髪は金糸のように梳かれている。

 まるで“生きた少女”ではなく、“仕上げられた作品”のようだった。


 「リリアンヌ」

 母の声は、硝子のように冷たく透き通っていた。

 「どんな場でも、完璧な微笑みを忘れてはなりません。

  美しさとは、沈黙とともにあるものよ」


 リリアンヌは小さく頷く。

 微笑む練習なら、もう何百回もした。

 笑い方、姿勢、首の角度。

 それらを覚えるために、幼い日々のほとんどを費やしてきた。


 けれど今、馬車の揺れの中で――

 その完璧な微笑みが、なぜか少し重く感じられた。


 「はい、お母さま。わたくし、忘れません」


 馬車が止まる。

 扉の外には、王都の大舞踏会場。

 光と音と香水の渦の中、

 小さな令嬢はひとり、花瓶の中の白薔薇のように立ち尽くす。


 誰かのために咲かされ、

 誰のためにも動けない――そんな存在として。


 リリアンヌは一歩を踏み出す。

 足元の絨毯は、まるで深紅の海。

 そして、彼女の心は静かに囁いた。


 ――私は、見られるためにここにいるの。



王城の大広間には、春の光が満ちていた。

 シャンデリアの下、金と銀の衣が舞い、音楽が風のように流れる。

 花の香りと笑い声が溶け合い、世界そのものが祝祭に染まっていた。


 リリアンヌは、その中央にいた。

 白いドレスが光を反射し、まるで一輪の白薔薇のように輝いている。

 誰もが彼女を見つめ、微笑み、頭を下げる。


 彼女もまた、淑女の礼儀に則って微笑み返す。

 完璧な角度。完璧な口元。完璧な沈黙。

 鏡で何度も練習した通りに。


 ――けれど、誰も長く話そうとはしなかった。


 「美しいけれど、話しかけにくいわ」

 「まるで氷の人形みたい」


 囁きが、背中をすり抜ける。

 声は届かない。けれど、刺さる。


 リリアンヌは笑う。

 また、笑う。

 何度も、何度も。

 それがこの場での“呼吸”だから。


 音楽が変わり、笑い声が響く。

 人々が手を取り、踊り出す。

 それでも、彼女の周りには誰も近づかない。

 白薔薇の棘が、無言の結界を作っているようだった。


 ――笑うことと、生きること。

 それは、もう同じ意味になっていた。


 笑わなければ、価値がない。

 笑わなければ、存在できない。


 胸の奥が冷たく沈む。

 氷の上を歩くような感覚のまま、リリアンヌは再び微笑んだ。

 その笑顔が美しいほど、心は遠くへ離れていく。


 まるで、魂だけが、別の場所で泣いているように。


 人々の笑い声と楽の音が遠ざかっていく。

 舞踏会の喧騒から逃れるように、リリアンヌは庭園へと足を向けた。

 夜風が、ドレスの裾を揺らす。

 月の光に照らされた花壇には、白薔薇が静かに咲いていた。


 ――ここだけ、時間が止まっているみたい。


 彼女がそっと花に手を伸ばしかけたそのとき。

 ふと、花壇の向こうから声がした。


 「ねえ、君、どうしてそんな顔をしてるの?」


 驚いて顔を上げると、そこに一人の少年が立っていた。

 金色の髪に、小さな王冠の飾り。

 まだ幼いながらも、瞳にはまっすぐな光を宿している。


 ――王子、ルシアン殿下。


 リリアンヌは慌てて裾を摘み、完璧な礼をした。

 「ごきげんよう、殿下。私の顔が……変でしたか?」


 少年は少し首を傾げ、じっと彼女を見つめる。

 そして、いたずらっぽく笑った。


 「ううん。変じゃない。でも、それは“笑ってる”顔じゃなくて――“我慢してる”顔だよ」


 その言葉に、胸が小さく震えた。

 “我慢してる”――誰にも言われたことのない言葉。

 心の奥に触れるような声だった。


 「……私は、笑っているのよ」

 リリアンヌはそう答えながら、無意識に頬へと手を当てる。

 それでも、少年は首を横に振った。


 「ほんとの笑顔はね、心が動いたときにしかできないんだ。

  君のは……まるで氷の花みたいだ」


 “氷の花”。

 その比喩が、胸の奥で静かに響く。

 彼の笑顔は不思議だった。

 暖かくて、まぶしくて、見ているだけで涙が出そうになる。


 そのとき、初めて――彼女の微笑みに、ほんの小さな“ヒビ”が入った。


 月明かりの下、白薔薇が風に揺れる。

 そして、リリアンヌの頬を一筋の涙が伝った。

 彼女はそれを、ただの夜露だと思おうとした。


 けれど、胸の奥で小さく囁く声があった。


 ――これが、“心が動く”ということ?


夜の庭園は、音もなく風をはこんでいた。

 遠くの舞踏会場からは、まだ楽の音が微かに響いている。

 だが、この花壇の周囲だけは、まるで別の世界のように静かだった。


 王子ルシアンは、白薔薇の茂みにそっと手を伸ばした。

 「痛っ……」

 小さな指先に、棘がかすかに触れた。

 けれど、彼は顔をしかめるだけで、花を離さなかった。


 「殿下、危のうございます」

 思わず声を上げたリリアンヌに、少年は笑顔を向ける。

 「大丈夫。棘を抜いてから渡せば、痛くないから」


 そう言いながら、彼は一本の白薔薇を丁寧に摘み取ると、

 指先で茎の棘を一本ずつ取り除いていく。

 その手の動きは、驚くほど優しかった。


 「母上が言ってたんだ。

  “痛いまま渡す贈り物は、本当の贈り物じゃない”って」


 彼は微笑みながら、数本の薔薇を紡いで輪を作りはじめる。

 風が吹くたびに、白い花びらがふわりと揺れる。

 まるで夜空の雪が、彼の手の中に舞い降りるようだった。


 「はい」


 少年は出来上がった花冠を、そっとリリアンヌの頭に乗せた。

 その指先が、髪に触れる。

 ――初めて“誰かに触れられた”瞬間だった。


 リリアンヌの胸の奥で、何かが静かに弾けた。

 冷たかった心に、ほんの少しの温度が流れ込む。

 それは痛みではなく、優しさの形をしていた。


 「君は薔薇が似合う」

 少年は照れくさそうに笑った。

 「でも……誰の花でもない方が、きっといちばん綺麗だ」


 その言葉に、リリアンヌは息をのむ。

 “誰の花でもない”――それは、彼女がこれまで決して許されなかった言葉。

 けれど、ルシアンの声に滲む純粋さが、その呪いをやわらかく溶かしていく。


 「……ありがとう、殿下」


 小さな声が、夜風に溶けた。

 彼女の唇が、初めて“心から”の微笑みを形づくる。


 その瞬間、月明かりが二人を包み、

 花冠の白薔薇がきらりと光を返した。


 ――それは、氷の少女が初めて“春”を感じた夜だった。


夜風が、花冠の白薔薇を揺らした。

 遠くの楽団の音が、波のように薄れていく。


 王子ルシアンは、リリアンヌをまっすぐに見つめていた。

 その瞳には、幼いのに不思議な強さがあった。


 「ねえ、リリアンヌ」

 「……はい、殿下」


 「いつか、僕が大人になったら――」

 少年は一拍、息を吸い込んで言った。


 「君をこの“檻”から連れ出すよ」


 リリアンヌは瞬きをした。

 檻? どういう意味か、すぐには分からなかった。

 けれど、その言葉の響きが胸の奥に落ちた瞬間、

 何かがじんわりと溶けていくのを感じた。


 「……檻、なんて……私は、閉じ込められてなど……」

 そう言おうとしたのに、声が震えて続かなかった。


 代わりに、頬を伝う温かいものがあった。

 それが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。


 リリアンヌは初めて、心が動いた。

 それは痛みではなく、やさしい衝撃。

 ずっと張りつめていた氷の仮面が、

 ひび割れる音を立てた気がした。


 ルシアンは慌てて、彼女の頬に触れた。

 「泣かせるつもりじゃなかったんだ」

 「……いいえ」

 リリアンヌは首を振る。

 「泣いたの、はじめてだから」


 その微笑みは、これまでのどの笑顔とも違っていた。

 それは“誰かのため”ではなく、

 自分の中から自然に生まれた、小さな春のような笑顔だった。


 月明かりが二人を照らす。

 風が吹き、花冠から一枚の白い花弁が舞い落ちる。


 ――それは、氷の少女が初めて見た“未来”の形。









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