微笑みの防壁 ―― 反論せず、微笑みだけで守り抜く。
昼下がりの学院食堂は、陽光と香りに満ちていた。
銀の器が淡く光り、スープの湯気が柔らかに揺れる。
けれど、その空気の奥に潜む“ざわめき”は、静かに人々の間を渡っていく。
「処分なし、ですって。つまり――証拠がないだけよね。」
「ええ。貴族の家柄がなければ、どうなっていたことかしら。」
囁きは、花びらのようにひそやかで、毒を含んでいた。
リリアンヌ・ド・ヴェルヌは、その声が届く距離に座っていたが、
顔色ひとつ変えず、指先でナプキンを整え、
いつものように上品な笑みを浮かべるだけだった。
彼女の隣で、マリアは小さく唇を噛む。
あの事件のあと、ようやく穏やかな日々が戻ると思っていたのに。
「リリアンヌ様……どうして何も言わないのですか?!」
思わず声を上げるマリアに、リリアンヌはふっと視線を向ける。
その瞳には怒りも悲しみもなく、
まるで遠くの空を見つめるような静けさが宿っていた。
「言葉で築いた壁は、壊されやすいものですの。
けれど、“笑顔”は誰にも壊せませんわ。」
その声は、さざ波のようにやわらかく、
それでいて、誰も踏み込めぬ強さを秘めていた。
マリアは何も言い返せず、ただその横顔を見つめる。
学院の午後を満たすのは、食器の触れ合う音と、
どこか張り詰めた沈黙。
けれど、その中心に立つリリアンヌの微笑みだけは、
まるで陽光そのもののように――
誰の言葉にも染まらず、穏やかに光り続けていた。
昼下がりの教室。
窓から差し込む光が、机の上の羽ペンを柔らかく照らしていた。
リリアンヌ・ド・ヴェルヌは、姿勢を崩さずに講義を聞き、
発言を求められれば、端正な声で完璧な答えを返す。
筆記帳の文字は流麗で、行間に乱れひとつない。
休憩時間になれば、他の令嬢が書き損じたノートをさりげなく整え、
「大丈夫ですわ」と、穏やかに微笑んで返す。
――彼女の一挙手一投足が、あまりにも“完璧”だった。
「あの方、本当に何を考えているのか分からないわ。」
「微笑まれるたび、こちらが悪者になった気がするの……。」
囁きは少しずつ、風のように広がっていく。
誰も彼女を直接非難しない。
けれど、その完璧さが、かえって人々の心をざわつかせた。
リリアンヌはその視線をすべて受け止めながら、
ただ静かに、優雅に微笑む。
まるで、沈黙そのものが彼女の“鎧”であるかのように。
一方、マリアはその微笑みの奥を知っていた。
夜遅くまでノートを見つめる横顔。
手元の震えを、そっと押さえる仕草。
それは、傷つかないための沈黙ではない。
誰かを責めずに済むよう、
他人を傷つけぬための“防壁”――。
「リリアンヌ様……」
声に出しかけたマリアの言葉は、午後の風に紛れて消えた。
リリアンヌは静かに微笑む。
その微笑みは、涙よりも強く、
そして、沈黙よりも優しかった。
午後の陽射しがやわらかく中庭を包む。
リリアンヌは白い手袋をはめ、薔薇の花壇にしゃがみこんでいた。
指先で棘の位置を確かめながら、枯れかけた蕾を静かに摘み取る。
風が吹き抜け、彼女の金の髪がふわりと揺れる。
そのとき、足音が近づいた。
振り返ると、一人の下級生が立ち尽くしていた。
手に持った教科書を胸に抱きしめ、視線を落としたまま、唇を震わせる。
「……ごめんなさい。」
その声は、花弁のように小さく震えていた。
リリアンヌは驚きもせず、ただ穏やかに顔を上げた。
「薔薇もね、傷をつけられても咲くのよ。」
少女が顔を上げる。
光を透かした瞳の奥に、揺れる後悔が見えた。
「誰かを責めるより、光を求めて伸びる方が、美しいでしょう?」
その言葉は、春の風のように優しかった。
少女の目から、ひとしずくの涙がこぼれる。
リリアンヌはそっと立ち上がり、手を差し伸べる。
「大丈夫。噂も、心も、いつか癒えるものですわ。」
少女はその手を取る。
触れた瞬間、冷たい風が止み、花壇の薔薇が小さく揺れた。
沈黙の中、二人の間に新しい空気が生まれる。
それは赦しの香り――
涙の代わりに、心に咲く一輪の薔薇のようだった。
季節がわずかに移ろい、学院の空気に初夏の香りが混じりはじめた。
廊下を行き交う令嬢たちの囁きが、少しずつ柔らかくなる。
もう誰も、あからさまに噂を口にすることはなくなっていた。
リリアンヌはいつも通り、静かに微笑みながら廊下を歩く。
その姿はまるで、嵐のあとに立つ一本の塔のよう。
言葉を使わずして、彼女は「誇り」という名の音楽を奏でていた。
授業で発言すると、かつて避けていた令嬢たちも自然に頷く。
昼食の席には、久しく見なかった笑顔が並ぶ。
それは誰かを屈服させた結果ではない。
彼女の沈黙が、“恐れではなく理解”をもたらしたのだ。
マリアは、少し離れた席からその光景を見つめていた。
胸の奥で、そっと息を吐く。
「あの微笑みは、強さそのもの……。
沈黙の中で、誰よりも優しく戦っている。」
リリアンヌが振り返る。
目が合った瞬間、マリアの心に温かなものが広がった。
言葉も、弁明もいらない――ただ微笑むだけで、真実が伝わる。
その午後、学院の風は静かに変わった。
誰もが少しずつ、自分の“信じる声”に耳を傾けはじめる。
それこそが、リリアンヌの“静かな勝利”だった。
夕暮れの光が、学院の尖塔を金色に染めていた。
静まり返った教室の窓辺で、リリアンヌはそっと目を閉じる。
花瓶の白薔薇が、微かな風に揺れた。
噂も、疑いも、過ぎ去ってしまえばただの影。
けれど、心の中に残るのは――その影の中で守りたかった“誰か”の姿。
「微笑みは、言葉よりも静かで、盾よりも強い。
それは、心に築く“防壁”――
誰かを遠ざけるためではなく、誰かを守るために立てるもの。
誇りとは、沈黙の中にこそ咲くのかもしれない。」
陽が沈み、薔薇の影が長く伸びる。
けれど、その影の奥には、確かな光があった。
それは、リリアンヌの微笑みのように――
静かで、揺るぎない、ひとつの“美しさ”だった。




