嫌疑 ―― 「あなたがやったのでは?」
朝の光が、ゆるやかに学院の教室を包み込んでいた。
昨日までの騒ぎが嘘のように、穏やかな時間が流れている。窓辺に咲いた花々は柔らかく揺れ、磨き上げられた机には淡い陽光が反射していた。
リリアンヌ・ド・ヴェルヌは、白磁のような手で花弁を撫でながら微笑む。
> 「ほら、マリア。花壇の薔薇も元気を取り戻しましたわ。」
マリアは隣でうなずき、小さく笑った。
> 「本当に……あの日のことが嘘みたいです。」
二人の会話は、春風のように軽やかだった。
銀匙事件――あの騒動から数日が経ち、学院に再び平穏が戻ったかのように見えた。
人々の噂も次第に薄れ、昼休みの笑い声が戻ってきた今、ようやく“いつもの日常”が帰ってきたのだと、誰もが信じていた。
だが、その静けさは、薄氷の上に築かれた平和にすぎなかった。
昼下がり、教室の扉が静かに開く。
厳しい面持ちの教官が一歩、また一歩と前へ進み出た。
その手には、一通の封筒が握られている。
> 「皆さん、落ち着いて聞きなさい。」
教室のざわめきが、ぴたりと止んだ。
教官は封筒を掲げ、淡々と告げる。
> 「職員室前に置かれていたこの封書――“内部不正に関する告発状”だ。
差出人不明、内容は……“リリアンヌ・ド・ヴェルヌ嬢が真犯人である”。」
――静寂。
誰かが小さく息を呑んだ音が、教室の隅で響いた。
椅子の脚がかすかに軋み、空気が一気に冷たくなる。
リリアンヌは一瞬だけまばたきをした。
だが、表情は崩れない。
まるで、冬の湖面に薄く氷が張るような沈黙が、彼女の周囲を包み込んだ。
マリアは立ち上がりかけ、思わず唇を噛んだ。
> 「そ、そんなはずありません! リリアンヌ様が――」
だがその声は、誰にも届かなかった。
周囲の視線が、まるで無音の刃のようにリリアンヌを刺す。
机に落ちる光が、少しずつ傾いていく。
平穏という名の幻は、音もなく崩れ去った。
そして、新たな“嫌疑”が――
学院の空気を、静かに、冷たく、染めていくのだった。
学院の一日は、いつもと変わらぬ鐘の音で始まった。
けれど、その音色がどこか冷たく聞こえるのは――もはや気のせいではなかった。
朝の授業が終わる頃、教官がリリアンヌを呼び出した。
彼女の立ち居振る舞いは、いつも通り端正で、背筋も伸びている。
だが、その美しい姿勢の奥で、わずかな緊張が光る。
> 「ド・ヴェルヌ嬢。学院の名誉に関わる以上、形式的な確認を行わねばなりません。
事実確認が済むまで、昼食会への参加を控えてもらう。」
リリアンヌは一瞬だけ沈黙し、やがて静かに微笑んだ。
> 「承知いたしました。学院の秩序のためでしたら、喜んで。」
その口調には怯えも抗議もない。
それが、かえって周囲の心に波紋を広げた。
――なぜ、あんなに落ち着いていられるの?
――やっぱり、何か隠しているのでは?
午後の教室には、目に見えない風が吹き荒れていた。
令嬢たちは優雅に扇を動かしながら、囁きを交わす。
> 「思えば、あの“銀匙事件”のときも妙でしたわ。庶民の娘をあそこまで庇うなんて。」
> 「もしかして、自分に罪が及ばぬよう仕組んでいたのではなくて?」
> 「まあ……怖い方。」
彼女たちの笑みは穏やかだが、言葉の端は冷たい。
優雅な語り口の中に、嫉妬と不安がゆっくりと混じっていく。
マリアは耐えきれず、立ち上がった。
> 「違います! リリアンヌ様はそんなこと――」
だが、周囲の目は彼女に向けられない。
むしろ、その必死な声が、かえって教室の空気を重くした。
> 「マリアさん……あなたは、少しお静かに。」
> 「事情を知らない方が口を挟むのは、かえってご迷惑よ。」
その言葉に、マリアの声が小さく消える。
教室の空気は、再び“優雅な沈黙”に包まれた。
それでもリリアンヌは、穏やかに笑みを崩さない。
その瞳にはわずかな哀しみが宿っていたが、揺るぎはしなかった。
> 「噂というのは、風のようなものですわ。」
> 「追えば逃げ、掴もうとすれば指の間からこぼれる。
だからこそ――静まるのを待つしかないのです。」
マリアはその言葉を聞きながら、胸が締めつけられる思いだった。
リリアンヌの微笑みは、優しさに満ちているのに、どこか痛々しい。
窓の外では、春風が静かに花びらを散らしていた。
噂という名の風が、再び彼女を孤独の庭園へと追いやっていく。
けれど――リリアンヌの瞳だけは、まだ曇ってはいなかった。
放課後の学院は、どこか重たい静けさに包まれていた。
夕陽が差し込む書庫には、無数の本が並び、紙の匂いと古いインクの香りが漂っている。
マリアはひとり、机に広げた“告発状”の写しをじっと見つめていた。
正式な証拠ではないが、教官の机から見えた一瞬の筆跡を、記憶の限りで再現したのだ。
> 「……少しでも、手がかりを見つけなきゃ……」
紙の上を、細いペン先が走る。
マリアは丁寧に、筆の傾きや運び方を観察し、模写を繰り返す。
告発状の文字は、右へわずかに傾き、文末に小さな装飾がついていた。
それは――思い当たる人物の筆跡に、あまりにもよく似ている。
> 「……この癖……“シャルロッテ様”の文字に、似ている……」
思わずペンを握る手に力が入った。
あの「銀匙事件」で最初に名前が挙がった令嬢。
あのときも、彼女はどこか不自然な沈黙を守っていた。
けれど、マリアはすぐに首を振った。
> 「だめ……これは、ただの推測。証拠なんて、どこにもない。」
胸の奥で、ふたつの声がせめぎ合う。
“今すぐリリアンヌ様に伝えるべきだ”
“でも、もし間違っていたら――彼女を、また傷つけてしまう”
リリアンヌのあの微笑みが脳裏に浮かぶ。
静かで、強くて、誰よりも気高い笑顔。
その笑顔を守りたい。けれど、軽率な言葉で曇らせたくない。
> 「リリアンヌ様を、信じる。だから……私は、もう少し調べてから。」
マリアはそっと告発状をたたみ、引き出しの奥へとしまった。
書庫の外では、すでに薄暗い影が廊下を伸び始めている。
その影は、まるで見えない糸のように、彼女の足元に絡みついていた。
――沈黙を選ぶこともまた、勇気なのか。
それとも、臆病の別名なのか。
マリアには、まだその答えがわからなかった。
夕暮れの教室は、すでに人の気配が消えていた。
西日が長い影を床に落とし、窓際の花瓶の水面が、橙にきらめいている。
その静寂の中に、リリアンヌとマリアだけが残っていた。
机の上には書きかけのノートと、淡い香りの残るリボン。
沈黙を破ったのは、リリアンヌの穏やかな声だった。
> 「信じることも、疑われることも……どちらも勇気が要るのね。」
その声は、風に揺れるカーテンのように柔らかかった。
リリアンヌは机の端に手を置き、少し疲れたように微笑む。
> 「噂が去っても、人の心には余波が残るもの。
それでも私が笑っていられるのは、誰かが“信じたい”と思ってくれるからですわ。」
マリアは唇を噛みしめた。
この数日、自分がどれほど迷い、恐れてきたかを思い知る。
リリアンヌを守りたい――その気持ちだけで動いてきたのに、
結果として、何もできなかったのではないかと。
> 「リリアンヌ様……私、どうすればよかったのか、分かりません。」
震える声。
マリアの両手は膝の上で、ぎゅっと握られていた。
告発状の筆跡を見たときの不安も、沈黙を選んだときの後悔も、
すべてが胸の奥で渦を巻いている。
リリアンヌはそっとその手に自分の手を重ねた。
> 「それでいいのよ、マリア。
“迷える人”だけが、他人を傷つけない道を探せるのです。」
マリアの瞳が潤み、言葉にならない声が漏れた。
> 「私の沈黙……間違いじゃなかったんですか?」
> 「ええ。あなたの沈黙は優しさよ。
“真実”を叫ぶより、“人”を守る方を選んだ。
それは、簡単にできることではありませんわ。」
夕日が傾き、二人の影がゆっくりと重なった。
花瓶の中の白薔薇が、風に揺れながら淡く香る。
その瞬間、マリアはようやく気づく。
リリアンヌがどれほど強く、そしてどれほど優しい人なのかを。
沈黙の中に、言葉以上の理解があった。
それは“信頼”という名の、静かな祈りのように――
教室の光の中で、そっと咲いていた。
朝靄に包まれた学院の中庭は、まだ静かだった。
噴水の水音がかすかに響き、遠くで鐘の音が一度だけ鳴る。
掲示板の前には、数人の生徒が集まっていた。
そこには、新たな報告が貼り出されている。
> 《告発状は匿名であり、証拠不十分。
> よって、リリアンヌ・ド・ヴェルヌ嬢への処分は行わない。》
その一文が、淡々とした筆致で告げていた。
まるで、あれほどの騒ぎがただの夢であったかのように。
けれど、夢は覚めても、余韻は残る。
教室に戻ったリリアンヌに向けられる視線は、
なおも冷たく、探るようだった。
彼女はそれを受け止めるように、静かに微笑んだ。
机の上には昨日と同じ白薔薇。
その花びらを指先でそっと撫でながら、
リリアンヌはゆっくりと息をついた。
> 「それでも、朝は必ず来ます。」
隣でマリアが小さく呟く。
> 「真実が明らかになっても……心は簡単には戻らないのですね。」
> 「ええ、マリア。でも――」
リリアンヌは花瓶の薔薇に視線を落とした。
> 「たとえ疑われても、信じる人が一人いれば……光は消えませんわ。」
その言葉に、マリアの胸が熱くなる。
夜のような疑いの中で、
彼女は確かに“光”を見つけたのだ。
窓の外では、朝日が雲間から差し込み、
学院の塔を黄金色に染め上げていた。
長く続いた夜は、ようやく終わりを告げる。
――そして、リリアンヌの微笑みはその光の中で、
静かに、しかし確かに輝いていた。
ラストモノローグ:
「疑いは夜のように訪れる。
真実を隠す闇の中で、人の心が最も試される。
けれど、疑いの夜を越えて残るのは――
誰かを信じた温もりだけ。」




