教室の沈黙 ―― 誰もが見て見ぬふりをする優雅な孤立。
朝の光が、窓辺のレースを透かして教室に流れ込んでいた。
整えられた机の列、丁寧に磨かれた床、飾られた花瓶の薔薇――どこを見ても、完璧な秩序が保たれている。
だが、その静けさの奥には、確かに“歪み”があった。
リリアンヌ・ヴァルモンドが教室の扉を押し開けると、柔らかなざわめきがすっと消える。
談笑していた令嬢たちの声が途切れ、笑顔が薄れていく。
それは敵意ではない。ただの沈黙。
しかし、その沈黙こそが、もっとも冷ややかだった。
「おはようございます――皆様。」
微笑みを浮かべてそう告げても、返る声はない。
わずかに椅子の軋む音が遠くで響き、あとはただ、時の針が動く音だけが空気を支配する。
リリアンヌは歩みを止めず、席へと向かう。
その姿勢は変わらず優雅で、微笑も崩さない。
――貴族の娘として、沈黙すらも礼儀の一部と心得ている。
しかし、彼女の心の奥で、微かな痛みが弾けた。
この“沈黙”の原因は、先日の香水の一件。
庶民の少女マリアを庇い、誤解を解こうともしなかった彼女に、
周囲の上級令嬢たちは言葉ではなく“無視”という方法で距離を取った。
挨拶をしても返事はなく、目が合えばそっと逸らされる。
それでもリリアンヌは、微笑を絶やさない。
彼女にとって、それが唯一の誇りであり――防壁でもあった。
「……静かですわね。今日も。」
誰に聞かせるでもなく、リリアンヌは小さく呟いた。
その声は、春の朝の光の中に静かに溶けていく。
そして彼女は思う。
――優雅な沈黙ほど、人を孤独にするものはない。
午前の授業。
リリアンヌはいつものように背筋を伸ばし、ノートを開いた。
講師が問いかける声に、彼女は静かに手を挙げる。
「その理論は、王国法典第八条の“身分的均衡”を根拠にしておりますわ。」
正確で、美しい答えだった。
だが、教室には小さな沈黙が落ちる。
講師がわずかに咳払いをして次の生徒を指名し、何事もなかったかのように授業は進む。
誰も、彼女の意見に頷かない。
誰も、視線を向けない。
――まるで、リリアンヌという存在が教室の空気から抜け落ちているかのようだった。
隣席の令嬢が机の上でペンを転がす。
リリアンヌがそっと声をかける。
「申し訳ありません、その箇所を見せていただけるかしら?」
「あら……ごめんなさい。今、少し急いで書き写していて……あとで。」
言葉は柔らかい。
微笑も上品。
だが、そこには確かに“拒絶”の気配があった。
昼休み。
中庭へと向かう廊下で、リリアンヌは二人の友人に声をかける。
「ご一緒にいかが? 今日は良いお天気ですし、外でお食事など――」
「あら……ごめんなさい。今日はもう予定があるの。」
また、同じ言葉。
丁寧な断り文句の裏に、遠ざかる足音。
まるで、花が一枚ずつ散っていくように、彼女の周囲から人の温度が消えていく。
それでも、リリアンヌは笑う。
決して崩れぬ姿勢で、沈黙の中に立ち続ける。
「優雅であることが、強さの証――そう教えられてきましたもの。」
けれど、その優雅さがいまや鎖のように、彼女の心を締めつけていた。
教室の窓から、午後の日差しが斜めに差し込む。
光の中で、彼女の白い指先だけが震えている。
――これが“貴族のいじめ”。
声を荒げず、言葉を使わず、ただ“関わらない”ことで人を切り離す。
それが最も洗練された、そして最も残酷な方法だった。
昼下がりの教室。
窓辺に射す光が、机の上のインク瓶を淡く照らしていた。
マリアはその光の先に――一人の少女を見ていた。
白い制服の襟も、姿勢も、完璧に整えられた令嬢。
それでも、その背中には、どこか“孤独”の影があった。
リリアンヌ・ヴァルモンド。
学院中の憧れであり、理想。
そして今――誰からも話しかけられない存在。
マリアは唇を噛む。
自分がその原因であることを、痛いほど分かっていた。
「私のために……こんな……」
「でも、どうすればいいの……?」
声に出すには小さすぎる囁きが、胸の奥で渦を巻く。
リリアンヌが教室を出るたびに、誰かが視線を逸らす。
話題が変わる。
笑い声が一瞬で途切れる。
そのたびに、マリアの心臓も小さく痛んだ。
彼女は何度も立ち上がろうとした。
けれど、足が動かない。
“庶民の生徒”が、上級令嬢に声をかける――それが、どれほどの勇気を要するかを知っていたから。
(わたしなんかが声をかけたら、余計に迷惑になるかもしれない……)
その恐れが、唇を縫い止める。
それでも、目だけは逸らせなかった。
リリアンヌが教科書を閉じる。
その指先の震え、呼吸の浅さ。
誰も気づかないほどの小さな変化を、マリアだけが見ていた。
「……ごめんなさい、リリアンヌ様。」
心の中でそう呟く。
声にはならなかったが――
その瞬間、マリアの中で、確かに“何か”が芽吹いた。
それはまだ、小さな、小さな種。
けれど――沈黙を破る勇気の、最初の芽だった。
放課後の教室には、夕陽が斜めに差し込んでいた。
机の列が金色に染まり、ほこりが光を受けて、静かに漂っている。
その静寂の中心で――リリアンヌ・ヴァルモンドはひとり、花瓶の薔薇を整えていた。
白い指先が茎を撫で、花弁を開かせる。
誰にも見せるためではない、ただ“整える”ための所作。
孤独だった。
けれど、その姿はどこか、神聖な祈りのようでもあった。
──そのとき。
教室の扉が、かすかに軋んだ。
「……リリアンヌ様。」
振り返ると、そこに立っていたのはマリア・クロエ。
小さな包みを胸に抱え、怯えたように、それでもまっすぐな瞳でこちらを見つめていた。
「どうしたの、マリア?」
リリアンヌの声は、驚くほど穏やかだった。
マリアは一歩、二歩と近づき、両手で包みを差し出す。
「これ……作ったんです。
少しでも、元気を出してもらえたらと思って……」
手の中には、小さなリボン。
質素だが、丁寧に縫われ、端には白い刺繍糸で小さな薔薇の模様があった。
リリアンヌは一瞬、言葉を失う。
教室の空気が、ふと柔らかく揺れた気がした。
「……ありがとう、マリア。」
リリアンヌはリボンをそっと手に取り、花瓶の薔薇に結ぶ。
紅と白が重なり、淡い光を反射する。
「沈黙の中にも、音はあるのね――優しさの音が。」
マリアは涙ぐみながら微笑んだ。
その瞬間、教室に満ちていた“沈黙”が、音もなくほどけていく。
夕陽が傾き、二人の影が長く重なった。
そこに流れるのは、声にならない旋律――
冷たい静寂を、初めて温めた“友情”の音色だった。
翌朝の教室。
窓から射す光は、昨日と同じ角度だった。
整然と並ぶ机、香り立つ紅茶、軽やかに交わされる他愛ない会話――
だがそのどれもが、どこか遠い世界の音のように感じられる。
リリアンヌ・ヴァルモンドは静かに席に着き、書物を開いた。
誰も彼女に声をかけない。
それでも、背筋はまっすぐ、微笑みは崩れない。
──そのとき。
小さな足音が、沈黙を横切った。
マリア・クロエが、リリアンヌの隣の席に歩み寄る。
周囲の令嬢たちが一瞬息を呑む。
視線が走る。
誰も何も言わない。
それでも、その“沈黙”が――昨日とは違って聞こえた。
マリアは一度深呼吸をし、震える声で言った。
「おはようございます、リリアンヌ様。」
一拍の静寂。
やがて、白薔薇の令嬢は顔を上げ、やわらかく微笑んだ。
「ええ……おはよう、マリア。」
その声は、ほんの少しの音。
けれど、それだけで十分だった。
教室の空気が、すこし緩む。
一部の令嬢が視線を逸らし、誰かがそっと紅茶を注ぎ直す。
小さなひびが、“沈黙”の壁に走った瞬間だった。
窓辺の薔薇が、光を受けて淡く揺れる。
まるでその声に、応えるように。
ラストモノローグ:
「沈黙とは、拒絶の形にもなりうる。
けれど、そこに一輪の声が咲けば――
世界は、再び色を取り戻す。
優雅に孤立するよりも、美しく響く方を、私は選びたい。」
白薔薇の花弁が、朝の光に透けていた。
その中心で、微笑む令嬢の横顔は――
もう、孤独の色をしてはいなかった。




