花園の午後 ―― 嫉妬は香水のように甘く苦い。
春の陽光が、学院の花園を金色に染めていた。
柔らかな風が通り抜けるたび、花びらがふわりと舞い上がり、白薔薇の香りが空気に溶けていく。
リリアンヌ・ヴァルモンドは、その中心で優雅に立っていた。
絹の手袋越しに持つ日傘が光を受け、薄く透ける。
彼女の傍らでは、令嬢たちが花を植え替え、笑い合いながら手を動かしていた。
だが――今日の花園には、いつもとは違う光景があった。
「……お見事ね、マリア嬢。花壇の色の配置、まるで絵画のようですわ。」
リリアンヌが声をかけると、少し離れた場所で作業していた少女が顔を上げた。
「ありがとうございます、リリアンヌ様。
陽の傾きで花の影が変わるのが好きで……その時間ごとに違う景色を見せられたらと。」
その言葉は、素朴で真っすぐだった。
マリア・クロエ。平民出身の特待生。
彼女が学院の花壇整備の“中心”にいるという事実だけで、
周囲の空気は少しずつ変わっていた。
「王子のお気に入りですものね……」
「あの子、すっかり有名人だわ」
そんな囁きが、花の間を縫うように広がっていく。
笑い声に紛れながらも、微かな棘を含んで。
マリアはその視線に気づいているのかいないのか、ただ手を止めずに花を植え続けた。
陽光の中で、彼女の髪が風に揺れ、その影が淡い赤に染まる。
それは、白薔薇の群れの中でひときわ鮮やかに見えた。
リリアンヌはその姿を見つめながら、静かに息をついた。
――この花園には、今、二つの香りが漂っている。
花の香と、少女たちの心に芽吹いた“嫉妬”の香。
けれど彼女は、そのどちらにも表情を崩さず、ただ微笑みを湛え続けた。
「穏やかな午後ね……」
そう呟いたその声音は、柔らかく、それでいてどこか遠い。
その裏で、花園の空気がわずかに熱を帯びていく――
まるで春の日差しの中で、静かに何かが熟れていくかのように。
午後の授業が終わり、学院のサロンには笑い声と紅茶の香りが漂っていた。
令嬢たちの間で、いま最も話題になっているのは――“香り”だった。
「ねえ、聞いた? 王都で新しく出た香水、“エトワール・ドゥ・ローズ”。」
「知ってるわ! 一瓶で銀貨三十枚よ。まるで夜明けの薔薇園みたいな香りですって。」
「ふふ、庶民には一生縁のない香りね。」
そう囁き合う少女たちの輪の中心を、ふと柔らかな香りが通り抜けた。
その香りに、全員が一瞬、動きを止める。
――まるで噂の香水と同じ匂い。
扉の向こうから現れたのは、花壇の少女――マリア・クロエだった。
春の風をまとったような笑顔。
けれどその背後には、目に見えない何かがまとわりついていた。
「あら……あの香り、もしかして“エトワール・ドゥ・ローズ”じゃなくて?」
「庶民のくせに、あの香水? 本物かしら」
「まさか……王子が贈ったんじゃないでしょうね?」
囁きが、まるで花粉のように舞い広がる。
甘く、くすぐったく、そしてじわりと毒を含んで。
マリアは小さく首を傾げるだけだった。
「あ……これ、頂きものなんです。香りが好きで、少しだけ……」
その何気ない言葉が、炎に油を注ぐ。
“頂きもの”――その一言に、令嬢たちの目がわずかに光を帯びた。
「頂きもの? 誰から?」
「まさかやっぱり……」
「ええ、王子殿下に違いないわ!」
薔薇の香りよりも濃厚な空気が、サロンを包む。
リリアンヌはその輪の外から、静かに紅茶を口にした。
そして、誰にも聞こえぬように呟く。
「香りというものは……魅了するためのものではなく、心を映すものよ。」
だがその“心”こそが、今や最も危うい。
薔薇の香水の甘さの下で、嫉妬の棘がゆっくりと伸び始めていた。
その午後――花園の空気は、蜜よりも濃く、香水よりも危険な香りに包まれていく。
放課後、陽が傾き始めた花園には、静かな風が吹いていた。
白薔薇の列の向こうで、マリアがひとり、土に触れていた。
その髪を撫でる風の中に、あの“紅い香り”が微かに混じっている。
リリアンヌは静かに近づき、呼びかけた。
「マリア・クロエさん。」
マリアが顔を上げると、白薔薇の影の中で、彼女は優雅に立っていた。
その姿はまるで、“秩序”そのものの化身のようだった。
「……あの香水、どなたから?」
リリアンヌの声は穏やかでありながら、どこか切実だった。
マリアは一瞬驚いたように目を瞬かせ、そして小さく笑う。
「実は……母からです。
王都にいる叔母が、誕生日に贈ってくれたって。
少し大人になった気がして、つけてみたんです。」
その言葉に、リリアンヌの表情がわずかにほどける。
春の風がふたりの間を通り抜け、香りを揺らした。
「そう……ならば大切になさい。」
「え?」
「その香りが、あなたらしさなら。
たとえ誰が何を言おうと、それを恥じてはいけません。」
マリアは息を呑んだ。
リリアンヌの声は冷たくも、どこか優しい。
“庇護”ではなく、“尊重”の響きがあった。
「リリアンヌ様……ありがとうございます。」
ふたりの間に、静かな理解が生まれたその瞬間――
薔薇の垣根の影で、ひとりの令嬢が立ち尽くしていた。
その目は、驚きと不安と、そして僅かな嫉妬に濡れていた。
翌朝、学院のサロンでは新しい囁きが飛び交っていた。
「ねえ聞いた? ヴァルモンド嬢が、あの庶民を問い詰めたんですって。」
「やっぱり気に入らなかったのよ。王子のことも、香水のことも。」
「まあ……白薔薇様も人間なのね。」
花園の真実は、風のように儚い。
そして、沈黙と誠実ほど――人々が最も誤解するものはない。
リリアンヌは窓辺に立ち、遠くに咲く紅い花を見つめながら、そっと呟いた。
「香りは、誰のものでもない……それでも、風は選ばれてしまうのね。」
午後の陽光が傾きはじめた花園に、静かな陰りが落ちていた。
マリアの周りには、いつもいた少女たちの姿がない。
代わりに聞こえるのは、小さな囁き声。
「あの香水、やっぱり贈り物だったらしいわよ」
「ねえ、あの笑顔……少し得意げじゃない?」
マリアは土に膝をつき、しおれた花を見つめる。
その指先は震え、唇はかすかに噛みしめられていた。
「皆、どうして……?
私、何もしていないのに……」
背後から、柔らかな足音。
リリアンヌが、白い日傘を差して歩み寄る。
「人はね、マリア。香りの強い方へ惹かれるものよ。」
「でも……それを妬むのも、人なのです。」
マリアは顔を上げた。
その瞳には、戸惑いと、微かな涙の光。
リリアンヌはそっと香水瓶を取り出す。
“エトワール・ドゥ・ローズ”。
彼女自身がいつも身につけていたものと、同じ銘柄だった。
「ほら。」
リリアンヌは空気にひと吹きした。
淡く甘い香りが花々の間を漂う。
その香りにマリアの香水が重なり――ふたつの香りが、ひとつに混ざった。
「香りはね、混ざれば、もっと優しくなるでしょう?」
マリアは驚いたように目を瞬かせ、やがて小さく笑った。
「……ありがとうございます。
リリアンヌ様の香り、温かいです。」
リリアンヌも微笑みを返す。
その笑顔は氷ではなく、陽だまりのようだった。
二人が並んで花壇の花を整える姿を、遠くから少女たちが見ていた。
白と紅、二つの香りがひとつに溶ける光景。
「なんだか……素敵ね。」
「庶民とか貴族とか、もう関係ない気がする。」
いつしか、噂は静まり、マリアの香水は“高慢”の象徴ではなく、
“誠実”の香りとして語られるようになる。
――嫉妬の花弁は、毒を秘めて咲く。
だが、ほんの少しの理解と共に揺らめけば、それは香りへと変わる。
リリアンヌは空を見上げ、春の風を吸い込みながら微笑んだ。
「香りも、心も。独り占めするより、分け合う方が……ずっと美しいわね。」
数日後、学院の庭は花々の頂きを迎えていた。
春の風が、咲き誇る色と香りをそっと撫でる。
白薔薇、紅のチューリップ、淡紫の藤――まるで学院全体が香水瓶の中に閉じ込められたかのようだった。
その中央、花壇の前に並ぶ二つの影。
リリアンヌとマリアが膝をつき、土に手を添えていた。
「リリアンヌ様、あの時……わたし、本当に怖かったんです。」
「人の視線も、噂も……まるで棘みたいで。」
リリアンヌは手を止めず、柔らかに微笑んだ。
「誰かに妬まれるほど、あなたが輝いていたということよ。
怖れることはないわ、マリア。
嫉妬もまた、光の裏側にあるもの――誇りなさい。」
マリアは唇を噛み、やがて小さく頷く。
二人の手が、同じ花の根元をそっと押さえる。
白と紅の花弁が、夕陽の中で寄り添うように揺れた。
――風が吹いた。
リリアンヌの白薔薇の香りと、マリアの“エトワール・ドゥ・ローズ”が混ざり合う。
甘く、けれどほのかに切ない余香が、花園全体に広がっていく。
その香りは、もうどちらのものでもなかった。
ただ、穏やかに、ひとつの調べとして残る。
ラストモノローグ:
「嫉妬とは、香水のようなもの。
つけすぎれば苦く、ほどよく香れば人を惹きつける。
私たちは――香りの強さより、その混ざり方で、美しさを知るのだわ。」
午後の光が、白薔薇の花弁を透かす。
風が通り抜け、香りが静かに空へと溶けていく。
白薔薇は微笑んでいた。
まるで、誰かの心の和解を祝福するように。




