王子と庶民の少女―― 運命の歯車が、ゆっくりと軋み始める。
春の光が学院の尖塔を照らし、白い石畳の上に柔らかな影を落としていた。
王立学院創設記念の日――
その日、学院はいつもよりも静かにざわめいていた。
王国第二王子、アレクシス・ヴェル=ロゼリア。
金糸のような髪に薄青の瞳、誰もが息をのむような気品をまとい、
彼は視察という名の下に、この地へと足を踏み入れた。
「ヴァルモンド嬢、陛下よりのご命令通り、案内を。」
近衛の声に、リリアンヌは優雅に一礼した。
完璧な微笑と仕草、それは“白薔薇”と呼ばれるにふさわしい姿だった。
だがその時――
人々の輪の向こう、花壇の前に立つひとりの少女に、王子の視線が止まった。
栗色の髪を無造作に結い上げ、粗末な制服を着ている。
だが、風に揺れたその瞳は澄んだ湖のようで、どんな宝石よりもまぶしかった。
「そこの君、名は?」
突然の問いに、少女は戸惑いながら膝を折った。
「……マリア。マリア・クロエと申します。」
彼女の声は震えていたが、そこに嘘も飾りもなかった。
その瞬間、アレクシスの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「そうか。良い名だ。」
まるで、春風が薔薇園をすり抜けたような沈黙が流れた。
リリアンヌはその様子を、遠くから静かに見つめていた。
彼女は悟る。
――この出会いは、ただの偶然ではない。
王族と庶民、決して交わらぬはずの線が、いま確かに触れ合った。
学院の花壇に、まだ名もない“新しい花の芽”が息づく。
それがどんな運命を咲かせるのか――
白薔薇の令嬢だけが、静かにその音を聞いていた。
春の終わり、学院に吹く風はどこか冷たかった。
それは季節のせいではない。
――噂という名の風が、静かに吹き荒れていたのだ。
きっかけは些細なことだった。
講義のあと、アレクシス王子がマリアに手ずから本を渡した。
昼の中庭で、二人が短く言葉を交わした。
それだけで十分だった。
「庶民の娘が王子に取り入っているらしいわ」
「身分をわきまえないなんて、恥知らずだこと」
ひそやかな囁きは次第に形を持ち、
やがて学院全体を包む“真実めいた幻想”に変わっていった。
マリア・クロエ。
平民の出ながら、成績優秀で奨学生として入学した少女。
その純粋さが、いまや“僭越な野心”として語られ始める。
茶会では、彼女の周囲に自然と席の空白ができた。
注がれる紅茶の香りの中で、誰も彼女に目を合わせない。
「庶民が王族と話すなんて、身の程をわきまえるべきね。」
そんな言葉が、柔らかな笑顔の裏でこぼれる。
マリアは俯いたまま、膝の上で指を組んだ。
けれど――そのとき、カップの音が静かに響いた。
「その言葉、少しお待ちなさい。」
白い手が、そっとマリアの前に伸びる。
声の主はリリアンヌ・ヴァルモンド。
学院一の令嬢、“白薔薇”の異名を持つ少女。
彼女は静かな笑みを浮かべながら、ゆるやかに言った。
「身分は、花の色ではありませんわ。
香りでこそ、価値があるのです。」
場の空気が一瞬で凍りつく。
誰もがその言葉の意味を理解しながらも、反論できなかった。
それは、あまりに優雅で、あまりに正しかったから。
リリアンヌはマリアに紅茶を差し出す。
「冷めてしまっては、香りが逃げますわ。……どうぞ。」
マリアは震える手でカップを受け取り、小さく礼を言った。
その瞬間、彼女の瞳にわずかな光が戻る。
――リリアンヌは知っていた。
噂は止められない。
けれど、燃え広がる火の中で“守るべき一輪”を見失わないこと。
それこそが、令嬢としての本当の矜持だと。
学院に吹く風は、まだ冷たく、まだ強い。
けれどその中心に立つ白薔薇の姿が、ひときわ凛として見えた。
夜風が花壇を渡る。
白薔薇の花弁が月の光を受けて淡く輝き、
静寂の中に、ひとつの影が佇んでいた。
リリアンヌ・ヴァルモンド。
昼の毅然とした姿とは違い、今はただ花を見つめている。
その足元から、小さな足音が近づいた。
「……リリアンヌ様。」
振り返ると、そこにはマリアが立っていた。
手には小さな籠。花壇の雑草を摘んでいたのだろう。
だが、その瞳はどこか怯えていた。
「どうして助けてくださるんですか?
皆、わたしを嫌っているのに……」
彼女の声は震えていた。
強がることも、取り繕うことも知らない少女の素直な言葉。
リリアンヌは少しだけ目を伏せ、静かに答えた。
「私もかつて、誤解の中で咲いていました。
噂や視線の中で、“理想”という名の檻に閉じ込められてね。
けれど――誰かが、そんな私を見ていてくれたのです。
それだけで、救われたわ。」
マリアは息を呑み、しばらく言葉を失う。
そして、両手で胸を押さえながら言った。
「……わたし、王子殿下のために頑張りたいんです。
身分なんて関係ないって、証明したくて。
“庶民でも咲ける花がある”って、見せたいんです。」
その瞳は涙を含みながらも、真っすぐで、ひどく眩しかった。
リリアンヌの胸に、微かな記憶が蘇る。
――春の日、笑顔で「ずっと一緒に」と言った少女。
クラリス・アーデン。
彼女と同じ、真っすぐな光。
眩しすぎて、少しだけ痛い。
リリアンヌは小さく笑みをこぼした。
「……あなたの花は、まだ蕾ね。
でも、その芯の強さはきっと冬にも負けない。
咲かせなさい、あなたの春を。」
マリアは目を見開き、そしてゆっくりと頷いた。
「はい……ありがとうございます、リリアンヌ様。」
夜風が二人の髪を揺らす。
白薔薇の香りが、微かに重なった。
――“白薔薇と庶民の花”。
異なる根を持ちながら、今、同じ月明かりの下で寄り添って咲いていた。
春の陽射しが学院の尖塔を照らしていた。
だが、その明るさの裏で、静かに影が伸びていく。
王子アレクシスと庶民の少女マリア。
二人の交流は、今や学院中の噂となっていた。
――そして、噂はいつの間にか“政治”の匂いを帯び始めていた。
貴族派の令嬢や上級生たちは集まり、ひそひそと声を交わす。
「庶民を王子に近づけるなど、不敬極まりないわ。」
「それを許しているのがヴァルモンド嬢だというのだから、驚きね。」
「まさか、ヴァルモンド家が“庶民派”に寝返るとは……?」
白薔薇の名が、またもや風に弄ばれる。
ルネは焦燥を隠せず、リリアンヌに訴える。
「お嬢様、このままでは誤解が広まる一方です。
殿下のご寵愛に絡んでいると噂されてしまっては……」
リリアンヌは鏡の前で白い手袋を整え、静かに言った。
「噂など、風と同じ。
けれど――風が嵐になる前に、誰かが“舵”を取らねばなりません。」
その言葉の裏には、確かな決意があった。
その翌日。
学院中庭にて、王子アレクシスが貴族派の一団を前に立ち上がった。
マリアの前に進み出て、堂々と告げる。
「彼女は庶民である前に、一人の学生だ。
身分がどうであれ、私は彼女と語りたい。
――それが罪だというのか?」
その声は清らかに響き、あまりにも真っすぐだった。
しかし、その瞬間、学院の空気が凍りついた。
「第二王子が庶民の娘を擁護した」――
その一言が、権力と伝統の均衡を崩す引き金になる。
貴族たちは騒然とし、誰もが口を閉ざせなくなる。
ただ一人、リリアンヌだけが微笑を崩さず、静かに一歩退いた。
(……殿下は“理想”を掲げた。
ならば、私は――“秩序”を守る盾にならねばならない。)
彼女の微笑の奥で、何かが凍りつく。
白薔薇の花弁が春風に舞うその瞬間、
リリアンヌ・ヴァルモンドは、自らを再び“仮面の令嬢”へと戻していた。
学院の大広間には、無数の燭光が揺れていた。
絹の裾が擦れる音、笑い声、銀のグラスが触れ合う澄んだ響き。
その中心で、王子アレクシスと少女マリアが並んでいた。
音楽が流れ出す。
柔らかなワルツの旋律が、夜会を包み込む。
「お手をどうぞ、マリア。」
「……わ、わたしなどが、本当に……?」
「“など”ではない。君でなくては。」
二人が踊り出した瞬間、ざわめきが広がった。
貴族の誰もが言葉を失い、ただその光景を見つめる。
――王子と庶民の少女。
それは“禁忌”を越える一歩であり、王国の未来を揺るがす始まりでもあった。
リリアンヌ・ヴァルモンドは、遠くの柱陰からその光景を見つめていた。
薄紅の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
だが、その瞳の奥では、淡い影がゆらりと揺れた。
「――この国の運命は、静かに動き始めたのかもしれないわね。」
傍らに控えるルネが、不安げに囁く。
「お嬢様……殿下は、あまりに大胆です。」
「ええ。でも……時に、時代は大胆な愚かさから動くものですの。」
グラスに映る炎が、ゆっくりと揺れる。
それはまるで、王国という巨大な機構の中で、
最初の“歯車”が軋みを上げる音のようだった。
リリアンヌはそっとグラスを傾け、心の奥で呟く。
ラストモノローグ:
「恋も、身分も、理も――すべてが交わる時、歯車は軋む。
それでも、私は見届けよう。
どんな音を立てても、この運命の旋律が“美しい”と信じて。」
――白薔薇は沈黙のまま、ただ夜会の終わりを見届けた。
その香りだけが、未来への予兆のように、長く長く残っていた。




