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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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噂の芽 ―― 一枚のハンカチが、噂を呼ぶ。

学院の昼下がり。

春の陽光が石畳をやわらかく照らし、噴水の音が遠くで小さく響いていた。

中庭のベンチの上に、ひとひらの風が舞う。


その風に揺れて落ちたのは――一枚のハンカチ。


雪のように白い布地に、緻密な刺繍。

中央には、白薔薇を象った家紋が優雅に縫い取られている。

それは学院に通う誰もが知る名家、ヴァルモンド家の象徴だった。


「……まあ、なんて美しい。」


声を上げたのは、下級貴族の少女ミレイユ。

彼女はそっとハンカチを拾い上げ、陽の光に透かして見つめた。

絹糸がきらめき、香り立つように白薔薇の意匠が浮かび上がる。


「リリアンヌ・ヴァルモンド様のものかしら……

 まさか、こんな場所に置いてあるなんて。」


ミレイユの頬に、憧れのような紅が差す。

彼女は思わず、そのハンカチを大切に自分の手提げにしまい込んだ。

悪意ではなく、ほんの少しのときめきと、

“触れてはいけない美しさ”に近づいたという高揚だけで。


その日の午後、ミレイユは茶会に招かれた。

カップを手にした友人たちの前で、つい口を滑らせてしまう。


「ねえ、これ……拾ったの。ヴァルモンド様のハンカチよ。

すごいでしょう? まるで宝石みたい……!」


少女たちの瞳が一斉に輝いた。

その白布を覗き込み、ため息を漏らす。


「本当に……! でも、どうして落ちていたのかしら。」

「もしかして、誰かに渡そうとして……?」


笑い声が、花弁のようにひらひらと舞う。

小さな囁きが、風に乗って学院の隅々まで運ばれていった。


――その瞬間、一枚のハンカチが“噂の種”となることを、

誰も知らなかった。


翌朝、学院の回廊はいつもよりざわめいていた。

ティーカップの澄んだ音の裏で、囁き声が波のように広がっていく。


「ねえ、聞いた? ヴァルモンド嬢が――誰かに想いを寄せているらしいわ。」

「まぁ……あの“白薔薇の令嬢”が? 信じられない!」

「でも、証拠があるのよ。彼女の家紋入りのハンカチを見た子がいるって。

しかも、それを受け取ったのは……上級生のユリウス様ですって!」


少女たちの声は、まるで甘い香水のように空気を満たしていく。

初めは小さな香りだったそれが、瞬く間に学院中を包み込んだ。


“白薔薇が恋に落ちた”――それは、真実よりも甘く、危うい響きを持っていた。



噂を作ったつもりはなかった。

ミレイユはただ、無邪気に話してしまっただけ。

けれど、彼女の些細な言葉は、誰かの好奇心に飾られ、誰かの嫉妬で色づき、

いつの間にか“物語”へと変わっていった。


「そんな……違うのに……!」


ミレイユは顔を青ざめさせ、廊下を駆ける。

真っ先にリリアンヌのもとへ向かおうとした。

だが、その途中で耳にしたのは――

令嬢たちが花壇のそばで楽しげに交わす言葉だった。


「あの完璧なヴァルモンド嬢にも恋をする心があるなんて……意外ね。」

「でも素敵じゃない? “氷の白薔薇”が溶けたのよ。」


笑い声が刺さる。

まるで風に乗った花粉が、人々の心を痒くするように。


ミレイユの胸に、冷たい恐怖が芽を出した。

――もう、止められない。


“噂”とは、真実より速く咲く毒花。

その花は、一度香り立てば、どんな風にも散らせない。


そしてその毒は、まだ気づかぬリリアンヌの足元にも、

静かに根を張り始めていた――。



学院の廊下。

リリアンヌが通るたびに、囁きが花びらのように舞った。


「あの方よ……ユリウス様の……」

「まあ、目を合わせただけで凍りつきそうなのに、恋をしたなんて。」


彼女は何も言わなかった。

いつも通り、完璧な微笑を保ち、姿勢を崩さず、ゆっくりと歩く。

その歩みは氷のように静かで、誇り高く――そして、誰よりも孤独だった。



その日の午後、執務室。

窓から射す光の中で、侍女ルネが口を開く。


「お嬢様……このまま何も仰らないのですか?」

「言葉を尽くすより、行いで示すのが令嬢の礼儀よ。」


ルネは唇を噛む。


「ですが、このままでは“沈黙が肯定”と受け取られてしまいます。

 皆、お嬢様が本当に恋をしているのではと――」


リリアンヌは一瞬、視線を伏せた。

そして、淡く微笑む。


「もし私が声を荒げれば、それは“真実を隠す女”の振る舞いと呼ばれるでしょう。

 否定しても、信じない者は信じない。

 ……ならば、私が信じるのは“沈黙の強さ”だけよ。」


ルネは俯き、拳を握った。


「沈黙は誤解を招きます、お嬢様……」


「いいえ、ルネ。沈黙こそが、心の強さを測る場なの。

 “噂”が真実かどうかを決めるのは言葉ではなく――

 どんなときも崩れぬ態度だわ。」


その声は確かに凛としていた。

だが、その瞳の奥に、一瞬だけ影が走る。


――本当は、怖いのだ。

誰かの言葉に形を奪われていくことが。

それでも彼女は、白薔薇の令嬢として立ち続ける。



夜、机の上に置かれた白薔薇のハンカチを見つめながら、リリアンヌは静かに息をつく。


「私は、ただの一枚の布を、

 これほどまでに“物語”に変えてしまう世界に生きているのね。」


噂という試練は、彼女の誇りと孤独を試す。

そして――“沈黙”という盾は、同時に“孤立”という刃でもあった。



午後の陽がやわらかく差し込む、学院の温室。

ガラス越しに白薔薇が揺れ、香りが淡く満ちる中――

小さな足音とともに、ミレイユが駆け込んできた。


彼女の瞳は涙に濡れ、声は震えていた。


「リリアンヌ様……! 本当は……本当は、わたしなんです……!」


リリアンヌは手を止め、ゆっくりと彼女を見つめる。

その視線には驚きよりも、静かな優しさがあった。


「何のことかしら?」


ミレイユは息を詰まらせ、両手で顔を覆う。


「あのハンカチ……! 中庭で拾って、綺麗だったから……

 お友達に見せただけなのに……!

 まさか、そんな噂になるなんて思わなくて……!」


嗚咽まじりの声が、温室の静けさに滲む。

リリアンヌはそっと近づき、ミレイユの肩に手を置いた。


「……泣かないで、ミレイユ。」


彼女は少し微笑み、まるで春風のような声で続けた。


「あなたの無邪気さが、誰かの心を動かしたのなら、

 それも一つの“現実”ですわ。」


ミレイユは顔を上げる。


「でも……皆、リリアンヌ様のことを……」


「いいの。噂というのは、悪意だけで咲く花ではありません。

 時には、憧れや羨望――人の心の“影”が形をとるもの。」


リリアンヌは花壇の白薔薇をそっと撫でた。

指先に触れた花弁が、微かに震える。


「白い花は、美しすぎると“冷たい”と呼ばれます。

 でも、誰かがそれを美しいと思ってくれる限り――

 その花は、咲き続ける価値があるの。」


ミレイユはその言葉に、涙を拭いながら小さく頷く。


「……リリアンヌ様……本当に、ごめんなさい。」


「謝ることはありません。

 ただ、次に“誰かの名”が噂にのぼったら、

 あなたがその人のために、静かに守ってあげて。」


そう言ってリリアンヌは、微笑んだ。

完璧ではない、けれど確かな温かさを帯びた笑顔。


その微笑みを見て、ミレイユの胸に芽生えたのは――

“畏れ”ではなく、“尊敬”だった。



その日の夕暮れ。

リリアンヌは一人、温室の窓辺に立つ。

ガラス越しに沈む陽が、白薔薇の花弁を金色に染めていた。


「誰が悪いのかなんて、決めなくていい。

 噂は、心の欠片たちが風に舞うだけのもの……。」


彼女の声は静かで、どこか祈りのようだった。

そして、散りかけた一輪の薔薇を摘み取り、そっと言葉を添える。


「大切なのは――その風を、どう受け止めるか、ね。」


白薔薇の花弁がひとひら、掌から舞い落ちた。

それは、噂という名の毒花を、静かに鎮める一枚の“真実”だった。


春の終わりを告げる風が、学院の石廊を静かに抜けていく。

昼下がりの陽光が、ステンドグラス越しに床を照らし、

白い花の影がゆらめいていた。


リリアンヌ・ヴァルモンドは、ゆっくりと歩いていた。

噂の渦も、ざわめきも、今はもう遠い。

けれど――背後から聞こえた声だけは、まだ澄んでいた。


「リリアンヌ嬢。あなたは、弁明しないのか?」


振り返ると、そこにいたのはユリウス・グレイ。

学院でも一目置かれる上級生で、噂の“相手”とされた人物だった。

彼の瞳は、まっすぐにリリアンヌを見つめている。


「必要ありませんわ。」


リリアンヌは、柔らかな笑みとともに答えた。

その声には、静かな確信と、わずかな哀しみが混じっていた。


「噂は風。誰が吹かせたかなど、追いかけるだけ無駄です。

 けれど――風が過ぎたあとに残る香りは、偽れません。」


ユリウスは目を細めた。


「香り、か……あなたらしい言い回しだ。」


リリアンヌは小さく首を傾げ、懐から一枚のハンカチを取り出した。

白薔薇の刺繍がほどこされた、それ――すべての始まりの象徴。


「これは、私の不注意でしたわ。

 けれど、拾ってくれた少女の優しさは――本物です。」


彼女はそれを両手で包み込み、そっと微笑む。

まるで“この布には罪も嘘もない”と語るように。


ユリウスはしばらくその姿を見つめ、やがて静かに一礼した。


「……噂に惑わされぬあなたの強さ、敬意を表します。」


「強さではありませんの。ただ――信じたいのです。

 人の善意というものを。」


風がまた、廊下を通り抜ける。

ハンカチの端がひらりと舞い、白薔薇の刺繍が光を受けてきらめいた。



その夕方。

中庭の花壇に、一輪の白薔薇が咲いていた。

リリアンヌはそこに立ち、静かに目を閉じる。


噂は消えたわけではない。

けれど、人々の囁きは、もう棘を失っていた。

まるで、彼女の沈黙が“正しさ”の形を示したかのように。


「噂とは、芽のようなもの。」


彼女は胸の内で呟く。


「放っておけば毒花にも、愛しい想い出にも育つ。

 ならば私は、摘むのではなく――

 咲かせ方を選ぶ令嬢でありたい。」


白薔薇が、風に揺れた。

その香りは、確かに残っていた。

それは、誰の言葉にも染まらない、リリアンヌ自身の“品格”の香りだった。


白薔薇は、今日も沈黙して咲く。



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