第20話『白薔薇の影 ―― 完璧な令嬢の裏で、誰かが静かに泣いていた。』
リリアンヌ・ヴァルモンドは、社交界で「白薔薇令嬢」と呼ばれていた。
白いドレスに身を包み、どんな言葉にも品をもって応じ、微笑みは一輪の花のように柔らかく、凛としている。
彼女が笑えば、場の空気がやわらぎ、誰もが安心したように息をつく――そんな存在だった。
夜会の晩。煌びやかな音楽と香水の香りの中、リリアンヌは完璧な所作で人々の言葉を受け流し、微笑み続けていた。
「さすがは白薔薇のご令嬢」「まるで天使のようだ」と囁く声。
けれど、彼女の胸の奥では、ひとつの疑問が静かに芽を出していた。
――どうして、笑うたびに心が少しずつ凍るのだろう。
馬車に揺られながら屋敷へ戻る道すがら、侍女ルネが小さく息を吐いた。
彼女は幼いころからリリアンヌに仕えてきた、ただ一人“仮面の下”の彼女を知る存在だった。
「お嬢様は、本当にいつも“完璧”でいらっしゃいますね……」
その声には、 admiration よりも少しの疲れと哀しみが滲んでいた。
リリアンヌは窓の外の月を見つめたまま、穏やかな声で答える。
「ええ、それが“わたくし”の役目ですもの。」
そう告げる口元には、隙のない微笑み。
けれど、ルネはそれを見つめ、何かを飲み込むように視線を落とした。
馬車の中には、微かな沈黙が落ちた。
タイヤが石畳を踏む音だけが、長い夜の静けさに響いていた。
“完璧”――その言葉の重さを、リリアンヌはまだ知らない。
その美しい仮面が、誰かの痛みを生み出していることにも、まだ。
昼下がりのティーサロン。
リリアンヌが紅茶を口に運ぶたび、まわりの令嬢たちが同じ角度でカップを傾けた。
笑う時も、立ち上がる時も――まるで鏡のように。
「白薔薇様のようになりたい」
「リリアンヌ様の香水をお取り寄せしましたの」
「次の舞踏会では、同じ髪型にするの」
そんな声が絶え間なく響く。
称賛と憧れに包まれながら、リリアンヌは優雅に微笑み続けた。
けれど、その横顔を見つめていたルネの瞳は、どこか曇っていた。
小さな声で、まるで誰にも聞こえないように呟く。
「……お嬢様は、誰の心にも届かない“理想”になってしまわれたのですね。」
紅茶の香りが立ちのぼる。
リリアンヌの指先がわずかに震えた。
「理想……? そうね、それが“わたくし”の務めだから。」
そう言いながらも、その笑みの奥にかすかな痛みが走る。
かつて彼女を導いた「微笑み」という鎧が、いまや自分を締めつける鉄の枷に変わっていることを、薄々感じていた。
ふと、窓に映る自分の姿を見る。
光の中で輝くその像は、確かに美しい――
だが、どこか冷たく、遠い。
“完璧”とは、光ではなく、他者を照らしすぎて焼く炎。
リリアンヌは、静かにまぶたを閉じた。
ルネの横顔が心に焼きつき、胸の奥に淡い痛みが残る。
夜の庭園。
風に揺れる白薔薇のアーチの下、ひとりの少女が静かに泣いていた。
月光に濡れた涙は、花弁の露と見分けがつかないほど透明だった。
リリアンヌはそっと足を止める。
その背中が小刻みに震えるのを見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……ルネ?」
侍女は振り返り、慌てて涙をぬぐう。
けれど、その手は震えて止まらない。
「お嬢様……どうして、そんな顔をしているの?」
「……泣かないで。あなたまで冷たくなってしまうわ。」
ルネは首を横に振り、言葉を詰まらせながらも、勇気を振り絞るように言った。
「だって……お嬢様が、どんどん遠くへ行ってしまうからです。」
「遠く?」
「はい。皆がお嬢様を“白薔薇”と呼ぶようになってから――
わたしが知っている“リリアンヌ様”は、
こんなに完璧じゃなかった。
もっと、笑って、怒って、泣いてくださったのに。」
その言葉は、まるで凍った心を叩くように、静かに響いた。
リリアンヌは立ち尽くす。
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていくのを感じた。
(私の“完璧”が……この子の涙を生んだ?)
手を伸ばす。けれど、触れられない。
白薔薇の間を吹き抜ける風が、二人の距離をそっと広げた。
ルネの涙が一滴、花弁に落ちる。
その白が、ほんの一瞬だけ、悲しみに染まったように見えた。
リリアンヌは気づく。
――“白薔薇の影”とは、自分の背後に寄り添いながら、
光に焼かれてきたルネ自身のことだったのだと。
「……ごめんなさい、ルネ。
わたくし、あなたの涙の上に立っていたのね。」
夜気が冷たく、薔薇の香りがどこか切なかった。
二人の間に、ようやく“言葉のない真実”が芽吹いた。
突如、夜風が強く吹き抜けた。
白薔薇のアーチが揺れ、花弁が雪のように舞い散る。
淡い香りとともに、ひとひらがルネの手のひらに落ち――そして、儚く崩れた。
「あ……」
彼女はその花弁を見つめ、震える声で呟いた。
「お嬢様も、どうか……少し壊れてください。」
リリアンヌは驚き、息を呑む。
月光の下で、ルネの目は涙で潤み、それでもまっすぐに彼女を見ていた。
「……そんなこと、できないわ。
壊れたら、もう立っていられないもの。」
ルネは首を横に振る。
その声は、風よりも静かで、けれど真実を突くほどに強かった。
「それでも、そうでなければ……“人”じゃなくなってしまうんです。」
沈黙。
白薔薇がひとつ、二つと落ち、足もとに淡い白の絨毯をつくる。
リリアンヌは、ゆっくりと膝をついた。
完璧な姿勢も、王妃教育で学んだ所作も、すべてを忘れるように。
そして、震える手でルネを抱きしめた。
「ルネ……ごめんなさい。
あなたの涙の上に、私は立っていたのね。」
ルネの肩が小さく震え、リリアンヌの胸に温もりが広がる。
それは、彼女が久しく忘れていた“人の温度”だった。
風が止み、沈黙の中、地に落ちた白薔薇がひとつ、ゆっくりと崩れていく。
その花弁の儚さは、まるで――“完璧”という仮面の終焉を告げる鐘の音のようだった。
朝の光が、薄いレースのカーテン越しに差し込む。
昨日の風が嘘のように静かな朝だった。
リリアンヌはドレッサーの前に座り、胸元の白薔薇のブローチを外す。
銀の留め具が小さく音を立て、机の上に置かれた薔薇が、柔らかく光を受けていた。
鏡の中の自分を見つめる。
そこにいたのは、完璧ではない――少し疲れて、それでもどこか温かな表情の少女。
かつて“理想の令嬢”と呼ばれた面影に、人のぬくもりが戻っていた。
そのとき、ルネが静かに部屋へ入る。
銀のトレイに湯気の立つ紅茶を乗せ、微笑を浮かべながら尋ねた。
「お嬢様……今日は白薔薇をお付けにならないのですか?」
リリアンヌは少しだけ微笑み、首を振る。
「ええ。今のわたくしには、少し眩しすぎるの。」
その声は、以前のように完璧ではなかった。
けれど、どこか柔らかく、確かに“生きている”響きがあった。
二人の間に静かな沈黙が流れる。
カップの中の紅茶がわずかに揺れ、窓の外では、白薔薇が朝露を抱いて揺れていた。
ラストモノローグ:
「完璧という名の花には、影がある。
その影に気づけたとき――
ようやく私は、“人”として息をしている気がした。」
白薔薇の下で、二人の影がそっと重なる。
“理想の令嬢”は終わりを迎え、
“ひとりのリリアンヌ”が、静かに――再び、生まれ直した。




