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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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『教育のはじまり ―― 微笑むたびに、自由がひとつ消えていく』

朝の陽が、薄絹のカーテンを透かして広間に差し込んでいた。

 金色の光が床を撫で、鏡の中で小さな影を照らす。


 幼いリリアンヌは、鏡の前に座っていた。

 背筋を伸ばし、両手を膝に置き、息を殺す。

 まだ四つになったばかりのその姿は、まるで精巧な人形のようだ。


 「リリアンヌ様、もう少し……柔らかく微笑んで」

 後ろから侍女が静かに囁く。

 「でも、歯は見せてはいけません。淑女の笑みは、音を立てないのですよ」


 リリアンヌは小さく頷いた。

 鏡の中の自分が、言われた通りに口角を上げる。

 けれど――それは心のない笑みだった。


 「……こう?」


 「ええ、完璧です。まるでお母上のように」


 その言葉に、リリアンヌの小さな指が震える。

 両手に握られた“姿勢矯正棒”が、木のきしむ音を立てた。

 それはまるで、「自由」を閉じ込めるための檻のよう。


 鏡の中、微笑む少女。

 鏡の外、息を殺す少女。


 どちらが“本当のリリアンヌ”なのか、

 彼女自身、まだ知らなかった。


昼下がりの食堂。

 陽光がステンドグラスを透かして、床に淡い薔薇模様を描いていた。


 テーブルの端には、銀のフォークとナイフ。

 花のように整列した皿の前で、幼いリリアンヌが小さな背を正して座っている。


 「リリアンヌ」

 クラリスの声は、糸のように細く、それでいて刃のように鋭い。

 「姿勢は“美”の始まり。背筋を曲げれば、心も歪むのよ」


 「はい……お母さま」


 ナイフとフォークを取る手が、わずかに震えた。

 だがクラリスはそれに気づかぬふりをする。

 いや、気づいた上で――黙って見ている。


 「優雅であれ。沈黙であれ」


 それがクラリスの口癖だった。

 言葉は飾り、感情は敵。

 淑女は語らずして“示す”ものだと、彼女は信じて疑わなかった。


 リリアンヌがスープの匙を落とすと、音が部屋に響く。

 その瞬間、侍女の一人が青ざめる。

 「お嬢様、申し訳ございません、私が――」


 「下がりなさい」

 クラリスの一言で、侍女は顔を伏せて退く。


 リリアンヌは喉の奥で何かを詰まらせた。

 自分のせいではないと分かっている。

 けれど――彼女は、叱られたかった。


 叱られれば、母が“自分を見ている”と感じられるから。

 でもクラリスは、ただ静かに微笑むだけだった。


 「あなたは失敗しない子だから」


 その言葉が、何より重く、苦しかった。


 リリアンヌは再びスープを掬い、完璧な角度で口に運ぶ。

 母は満足げに頷く。

 その瞬間、リリアンヌの心のどこかで、小さな音がした――

 自由がひとつ、削ぎ落とされた音。

白薔薇の庭園は、初夏の光に包まれていた。

 風が吹くたび、花弁がひらりと揺れ、甘い香りが漂う。


 リリアンヌは、純白のドレスに身を包み、母の隣に座っていた。

 膝の上には開いた本。

 文字を追うふりをしながら、視線はつい薔薇へと吸い寄せられる。


 クラリスは手にした扇を閉じ、ゆるやかに口を開いた。

 「リリアンヌ、薔薇という花はね――見られるために咲くのよ」


 「……見られるため?」


 「ええ。

  誰かの手で摘まれるためではないの。

  触れられずに、ただ“そこにある”からこそ美しいの」


 母の声は穏やかだった。

 けれど、花弁を撫でる風までもが、どこか緊張しているように感じられた。


 リリアンヌは首を傾げる。

 小さな指先が、そっと薔薇の枝に伸びかけて――止まる。


 「でも……薔薇は、触れられたら嬉しいのでは?」


 その一言で、空気が変わった。

 クラリスの瞳が、氷のように光を放つ。


 「リリアンヌ」

 呼ばれただけで、心臓が跳ねた。

 「あなたはまだ、“花の痛み”を知らないのね」


 リリアンヌは思わず手を引っ込める。

 けれど、指先にはほんの小さな棘の傷が残っていた。

 赤い血がにじむのを見て、彼女はそっと呟く。


 「……これが、痛み?」


 クラリスは何も答えず、扇を開く。

 その仕草ひとつで、花園の空気が再び閉ざされた。


 その日を境に、リリアンヌは庭へ出ることを許されなくなった。


 白薔薇は風に揺れながら、まるで彼女を忘れないように

 静かに花弁を散らしていた。

王都の学院付家庭教師が、今日から屋敷にやって来た。

 白い指先で本を開くたび、紙の音がまるで儀式のように響く。


 「貴族の令嬢に必要なのは、優雅さと均衡です」

 「感情ではなく、表情で世界を操りなさい」


 リリアンヌは静かに頷いた。

 母の言葉と、教師の言葉が、まるで同じ旋律のように耳に残る。


 数日後、彼女は他家の子女たちと初めて顔を合わせた。

 華やかなドレスの少女たちが、笑い声を弾ませる。

 けれど、その輪の中に入ることはできなかった。


 彼女が微笑むと、誰もが一瞬、息を呑む。

 「なんて綺麗な子なの……」

 「でも、なんだか――冷たい」


 そんな囁きが、ガラス越しに聞こえるようだった。


 リリアンヌは、学んだ通りの笑みを浮かべ続ける。

 口角を少しだけ上げ、歯を見せず、瞳だけを動かして。


 ――それが、正しい笑顔。

 ――それが、誉められる笑顔。


 けれど、心の奥がひやりとした。

 笑うたびに、胸の中の“何か”が、ひとつずつ消えていく。


 「笑えば褒められる。

  でも……笑うたびに、冷たくなる気がする」


 それが何なのか、幼い彼女にはまだ分からなかった。

 ただ、胸の奥に小さな音が響く。

 ――カラン。

 ガラスがひとつ、心の中で砕ける音。


 リリアンヌはその音を、誰にも聞かせまいと

 もう一度、完璧な笑顔を浮かべた。

夜。屋敷は深い眠りに沈み、時計の針が遠くでひとつ音を刻む。

 リリアンヌはベッドを抜け出し、ゆっくりと鏡の前に立った。


 月明かりがカーテンの隙間から差し込み、

 白磁の肌と銀の瞳を、静かに照らし出す。


 鏡の中の少女が――微笑んでいた。

 完璧な淑女の笑み。

 歯を見せず、唇の端だけをわずかに上げた、美しい仮面。


 けれど、鏡の外のリリアンヌは、もう笑っていなかった。

 瞳に光はなく、呼吸も浅い。

 それでも、鏡の中の少女だけが、冷たい笑顔を浮かべ続けている。


 ――「美しく咲きなさい」

 母クラリスの声が、頭の奥で囁く。

 ――「けれど、誰にも触れさせてはだめよ」


 その言葉が、まるで鎖のように心を締めつけた。


 リリアンヌは、鏡に手を伸ばす。

 冷たい硝子の感触が、指先を拒む。

 どれだけ触れようとしても、そこには届かない。


 「……ねえ、あなたは、わたしなの?」


 鏡の中の少女は答えない。

 ただ、静かに――微笑み返す。


 月光が二人を照らし出す。

 一方は完璧な微笑みを浮かべ、

 一方は何の感情もない、無垢な顔で立ち尽くす。


 その瞬間、リリアンヌは悟った。

 ――“本当の笑顔”は、鏡の向こうに閉じ込められてしまったのだ、と。


 そして、月が雲に隠れる。

 部屋が闇に沈む中、鏡の中の少女だけが、

 まだ微笑み続けていた。


 夜が明けた。

 窓辺のカーテンが、朝の風にそっと揺れる。


 リリアンヌはゆっくりと目を覚ました。

 夢の余韻の中、ふと視線を窓に向ける。


 そこに――白い花弁が一枚、落ちていた。

 昨夜の風に運ばれてきたのだろうか。

 雪の欠片のように小さく、淡く、触れれば消えてしまいそうだった。


 彼女はその花弁をそっと拾い上げる。

 掌に乗せた瞬間、冷たい感触が指に伝わる。


 「……私も、この花のように、静かに咲かなくては」


 それは、母の教えをなぞるような言葉。

 でも、その声はどこか震えていた。


 窓の外では、庭園の白薔薇がまだ眠るように揺れている。

 朝露の光が、それらを儚く照らす。


 だが次の瞬間――

 彼女の掌の中で、花弁がゆっくりと色を失っていった。

 白が灰へ、灰が粉へ。

 まるで、命そのものが指の隙間からこぼれ落ちるように。


 リリアンヌは息を止めた。

 掌を開いたそこには、ただ小さな灰の影が残るだけ。


 「……笑えば、また一つ、消えてしまうのね」


 朝の光が彼女の頬を照らす。

 その顔には、完璧な微笑み――ではなく、

 まだ拙く、不器用な“少女の表情”が浮かんでいた。


 それは、この日、彼女が最後に見せた“本当の笑顔”だった。


 ――微笑むたびに、自由がひとつ消えていく。

 そのことを、リリアンヌはもう感じ始めていた。





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