第19話 王妃教育 ―― 王家の花嫁に必要なのは、愛ではなく耐性。
冬の陽が薄く差し込む学院の講堂に、静寂が降りていた。
白大理石の床に並ぶ令嬢たちのドレスが、まるで雪の花弁のように揺れている。
――王太子妃教育課程、開講。
その告げられた言葉に、周囲がざわめいた。選ばれる者はわずか数名。
その名簿に、リリアンヌ・アーデンの名が刻まれていた。
背筋を伸ばしたまま、彼女は軽く息を吸う。
歓声を上げる令嬢もいれば、嫉妬に眉を寄せる者もいる。
だがリリアンヌは、ただ静かに微笑んでいた。
――そう、これは栄誉ではなく、試練。
それを、彼女は本能的に知っていた。
講堂の扉が開く音が響く。
黒いレースの帽子を被った老貴婦人が、ゆっくりと歩み出る。
彼女こそ、王家付きの教育監督官――マダム・グランフェール。
その声は冷たく、凛としていた。
> 「王家に必要なのは“情熱”ではありません。“耐久力”です。」
その瞬間、空気が張り詰める。
令嬢たちの背筋が一斉に伸び、華やかな空気が氷に閉ざされたようだった。
リリアンヌは微笑みを崩さぬまま、心の奥で小さく呟く。
> 「……耐えることなら、もう慣れているわ。」
彼女の瞳の奥には、かつて散りかけた薔薇のような光が宿っていた。
それは哀しみでも、諦めでもない。
――ただ、凍てついた誇り。
こうして、リリアンヌの“王妃教育”が始まった。
その一歩が、どれほどの孤独と静寂に満ちているのかを、まだ誰も知らない。
翌朝から、リリアンヌたちの「王妃教育課程」は始まった。
日の出より早く叩き起こされ、無音の廊下を進む。
冷えた空気の中、マダム・グランフェールの杖の音だけが規律を刻むように響いた。
――午前、姿勢訓練。
一本の本を頭に載せ、三時間。まばたきの回数さえ数えられる。
――昼、毒見学習。
「王妃は常に狙われるもの。どんな苦味にも、動じてはなりません。」
銀匙に落とされた苦薬を、唇の端で受ける。
喉を焼く痛みに、他の令嬢たちは顔を歪めるが、リリアンヌだけは微笑んだままだった。
> 「涙は、国を弱くします。
王妃は、微笑みの鎧で民を守るのです。」
マダムの声は氷よりも冷たく、そして正確だった。
その言葉が胸に突き刺さるたび、リリアンヌは何かを少しずつ手放していくのを感じた。
午後は礼儀作法と政治の基礎。
数時間にわたる立ち稽古、膝をついての会釈、国家系譜の暗唱。
貴族たちの血統と義務の重さが、まるで氷鎖のように心を締めつけた。
日を追うごとに、令嬢たちは一人、また一人と脱落していく。
泣きながら辞退を申し出る者。
虚脱のまま部屋に籠もる者。
だがリリアンヌだけは、微動だにせず、ただ淡々とその場に立ち続けていた。
――誰も、彼女が息を詰めながら笑っていることに気づかない。
夜。
部屋に戻ったリリアンヌは、鏡の前でドレスの襟を正した。
そこに映る自分の微笑みは、もはや「表情」ではなかった。
張りつめた仮面。呼吸するたび、ひび割れそうな氷。
> 「これは、王妃になる訓練ではなく……“氷の女”になる訓練ね。」
唇から零れた声は、暖炉の火にも届かず、闇に沈んでいく。
窓の外では雪が降り続けていた。
けれど、その冷たさは、彼女の心の温度よりも――ずっと優しかった。
雪の降る午後、学院の大広間に晩餐会の準備が整えられていた。
王妃候補たちが一堂に会し、食器の音と静かな旋律が響く中、
扉の向こうから現れたのは、ひときわ柔らかな光を纏う青年――王太子レオナールだった。
その姿を目にした瞬間、リリアンヌの指先がわずかに震える。
(……殿下。)
かつての舞踏会で手を取られた記憶が、胸の奥に冷たい波紋を広げた。
レオナールはゆっくりと歩み寄り、マダム・グランフェールの説明を受けながら、候補者たちの席を順に見て回る。
その視線がリリアンヌの前で止まった。
彼女は完璧な角度で立ち上がり、深く一礼する。
> 「お久しゅうございます、殿下。」
> 「ああ……覚えているよ、リリアンヌ嬢。」
彼の声音は穏やかでありながら、どこか遠い痛みを含んでいた。
短い沈黙のあと、レオナールは微かに笑った。
> 「君は……いつも冷たい微笑をしているね。」
その言葉に、リリアンヌの心臓がひとつ、強く跳ねた。
だが彼女はすぐに口角を上げ、完璧な声で応じる。
> 「王妃候補に必要なのは、“冷静さ”ですわ。
感情を乱すことこそ、失礼になりますもの。」
その瞬間、マダム・グランフェールの誇らしげな視線が背に刺さる。
けれど、レオナールは彼女の答えに微笑まず、わずかに目を伏せた。
> 「……それでも、僕は“温もりのある王妃”が欲しい。」
その声は、まるで冬空の下に落とされた小さな焔のようだった。
リリアンヌの胸の奥で、何かがかすかに溶ける音がした。
(温もり……? それを、私に望むの?)
ほんの一瞬だけ、彼女の表情が揺らぐ。
しかしすぐに微笑を整え、冷たく、完璧な声で返した。
> 「殿下の理想に応えられるよう、努力いたしますわ。」
彼女の瞳の奥に、誰にも見えぬ痛みが沈む。
(その“温もり”を、私はもう持たないのよ……)
晩餐会の音楽が再び流れ始める。
だがその音は、リリアンヌには遠く、
まるで凍てついた心の底で反響しているようだった。
冬の曇天が窓を覆い、王妃教育の最終試験が始まった。
大広間の中央には長卓が置かれ、上座にはマダム・グランフェール。
その厳しい眼差しが、王妃候補たちをひとりずつ見据えていた。
> 「――では、課題を告げます。
隣国の侵攻により、飢饉が発生。
救うには、自国の財を民に解き放つか、
隣国との交渉のため百人の民を人質として差し出すか。
王妃として、どう判断しますか。」
静寂。
会場の空気が一瞬で凍りつく。
最初の令嬢が震える声で答える。
> 「……そんな……人質なんて出せません! 国を……」
マダムの杖が机を打つ。
> 「感情論は不要です。退席なさい。」
次の令嬢、三人目――次々と脱落していく。
残されたのは、ただ一人。
リリアンヌ。
彼女はゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。
その表情には、何の揺らぎもない。
> 「民を守るために、百人を犠牲にいたします。
悲しみは残りますが――国が滅べば、万が一の希望も消えます。
犠牲の上に立つ決断こそ、王妃の務めと心得ます。」
その言葉が終わった瞬間、
会場には、息を飲む音すらなかった。
マダム・グランフェールがゆっくりと立ち上がる。
杖の先で床を叩き、満足げに頷いた。
> 「――完璧です。
情に流されず、理を貫く。
貴女こそ、王妃の器。」
周囲から拍手が起こる。
他の令嬢たちは驚きと羨望の目でリリアンヌを見つめた。
だが、彼女の瞳の奥では――
なにかが静かに砕けていく音がした。
> (これが……“正解”?)
> (私は、正しく答えたのよね……?)
胸の奥に、誰にも見えない小さな痛みが広がる。
それは誇りでもあり、失われた温もりへの哀しみでもあった。
> 「――それは、“人間らしさを失った証”でもあるのね。」
その心の声は、拍手の渦の中に掻き消えていった。
微笑む彼女の頬を、涙が伝うことはなかった。
氷の王妃の誕生を、静かな鐘が告げていた。
夜の帳が学院を包み、静かな雪が降り始めていた。
王妃教育課程の修了式を終え、部屋に戻ったリリアンヌは、
窓辺の机に座り、ひとつの封筒を見つめていた。
封蝋には王家の紋章――
深紅の印章が、ロウソクの灯に鈍く光る。
封を切ると、上質な羊皮紙が一枚。
そこに記された文字は、淡々としていた。
> 「王妃教育第一課程 首席修了」
その文面を指でなぞりながら、
リリアンヌはゆっくりと息を吐いた。
それは達成の吐息ではなく、
寒い空気をやっと体から追い出すような、
小さな安堵の呼吸だった。
机の端には、半ば冷めた紅茶。
窓の外では雪明かりが街を包み、
遠くの鐘が静かに一度だけ鳴った。
リリアンヌは羽根ペンを手に取り、
白い便箋に、淡いインクでゆっくりと綴る。
> 「王家の花嫁に必要なのは、愛ではなく耐性。
けれど、それを“誇り”と呼ぶには――
まだ、少し寒すぎるわ。」
書き終えた手紙を折りたたみ、
彼女は暖炉の炎の中へと静かに投じる。
紙がゆらめき、溶けるように消える。
まるで胸の奥の想いごと、
火にくべてしまうように。
ロウソクの灯が、彼女の横顔を照らした。
その唇には、微笑がある。
けれどそれは、誰に向けたものでもない。
ただ――自分を保つための、最後の礼儀。
ラストモノローグ
> 「もし王妃とは、“愛を諦めた女”の冠なら――
私は、その氷の冠を静かに受け入れよう。
けれど、心の奥でだけは、まだ……春を信じていたいの。」
雪が舞う。
その音のない世界の中で、
彼女は微笑みを浮かべたまま、
そっと瞳を閉じた。
――微笑の奥に、誰も知らない小さな祈りを隠して。




