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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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第18話 侍女の忠告 ―― 「お嬢様、笑いすぎてお疲れでは?」

冬の朝。

学院のティーサロンは、陽光が淡く差し込み、白いカーテンを透かして微かなぬくもりを漂わせていた。

銀のティーポットから注がれる紅茶の香りが、まるで香水のように甘く漂う。


リリアンヌは、その中央で静かに微笑んでいた。

背筋を伸ばし、指先まで完璧な角度でティーカップを持ち上げる。

彼女の周りでは、貴族令嬢たちが花のように咲き誇っていた。


「まあ、リリアンヌ様って本当に素敵。」

「どんなときも笑顔を絶やさないなんて……わたくし、真似できませんわ。」


リリアンヌはその言葉に、品よく首を傾げた。

「お褒めいただいて光栄ですわ。けれど、皆さまもとてもお美しいもの。」


一瞬の間に、また笑顔が広がる。

誰もが彼女を“理想の令嬢”として見上げ、そして羨んだ。


けれど、リリアンヌの視線は――ふと、手元の紅茶の表面に落ちる。

薄く反射する鏡のような液面の中。

そこには、知らない誰かが浮かべたような笑顔が揺れていた。


(……この顔、私のものかしら?)


紅茶をそっと口に運びながら、彼女は胸の奥に静かな疲労を感じた。

喉を通る温かさが、まるで遠い場所の出来事のように思える。


「笑うことって、こんなに疲れるものだったかしら……」


心の声は、誰にも届かない。

届かせるつもりもなかった。


――完璧であること。

それは、彼女がこの世界で立つための唯一の盾であり、

誰にも触れさせない氷の微笑そのものだった。


彼女は再び、完璧な角度でカップを置く。

そして、取り繕うように美しく笑った。


その笑みが、どれほどの孤独の上に咲いているのか――

誰も、知る由もなかった。


夕暮れの部屋。

外では雪が舞い、薄橙の光がカーテンの端を照らしていた。

暖炉の火がぱちりと音を立てるたびに、影が壁をやさしく揺らす。


ルネは静かに紅茶を注いでいた。

銀のポットの中で香り立つ蒸気が、ふたりの間に淡い膜を作る。

その手元を見つめながら、彼女はふと小さく呟く。


「お嬢様、最近……ずっと笑っておられますね。」


リリアンヌは椅子にもたれたまま、軽く首を傾げる。

「ええ、社交の場ではそうしなければならないもの。

 笑顔は、礼儀の一部よ。」


「……そうでしょうね。」

ルネは頷きながらも、紅茶を注ぐ手を止めた。

そして、湯気の向こうから真っすぐにリリアンヌを見つめる。


「でも――お嬢様の笑顔、少し悲しそうに見えます。」


部屋の音が止まった。

火の音さえも、遠くへ引いていくようだった。


リリアンヌは、カップを持つ指を止める。

その指先が、わずかに震える。

「悲しい? わたくしが?」


ルネはおそるおそる、けれど誠実な声で答えた。

「はい。まるで……無理に笑っておられるような。」


――カップが、静かに卓上に戻された。

薄い陶器の音が、沈黙の中でひどく大きく響く。


リリアンヌは、そっと視線を逸らした。

夕陽が窓の外で沈みゆく。

光が彼女の頬をなぞり、ほんのわずかに陰を落とす。


(……見透かされた? この子にだけは、見られたくなかったのに。)


完璧な微笑の裏に潜ませた“疲労”――

その小さな亀裂を、ルネだけが見つけてしまったのだった。


夜。

静まり返った寄宿舎の一室。

雪の気配が、窓硝子を淡く曇らせている。

リリアンヌはドレスの襟を外し、鏡の前に立った。


ルネの言葉が、胸の奥で何度も反響する。


「でも、お嬢様の笑顔……少し悲しそうに見えます。」


それはまるで、鏡の向こうから囁かれる声のように離れない。


彼女は鏡を見つめたまま、小さく笑みを浮かべた。

完璧な角度。優雅な口元。

礼儀作法の教師が賞賛した、非の打ちどころのない“社交の笑顔”。


――だが、その瞳の奥には、何も宿っていなかった。


彼女は呟く。

「笑っていなければ、きっと壊れてしまうのよ。」

唇だけが動き、声はほとんど空気に溶ける。


けれど、次の瞬間、心の奥からもうひとつの声が重なる。


「……でも、本当に、誰も見ていない場所でさえも、笑っていなければ?」


胸がひどく冷たくなった。

指先が震える。

彼女は鏡の中の“完璧なリリアンヌ”を見据え、

その頬に触れる――けれど、そこにあるのは仮面の硬さだけ。


そのとき、扉の外から小さなノック音。

「お嬢様、温かいミルクをお持ちしました。」

ルネの声が優しく響く。


リリアンヌは目を閉じ、静かに答える。

「ありがとう。でも……今夜は要らないわ。」


ドアの向こうが静まる。

部屋には、彼女の息づかいと時計の針の音だけが残る。


再び鏡を見る。

笑おうとしても、唇が動かない。

――その夜、リリアンヌは“笑えない自分”を初めて見つめた。

翌朝。

雪が静かに降りはじめていた。

学院の中庭は白く霞み、世界がひととき、呼吸を止めたように静かだった。


リリアンヌは窓辺に立ち、冷たい光の中で白手袋をはめ直していた。

昨夜の鏡の記憶――あの“笑えなかった自分”の顔が、まだ胸の奥に残っている。


そのとき、侍女ルネがそっと扉を開ける。

手にしていたのは、淡い灰色のコート。

彼女はおずおずと歩み寄りながら、いつになく真剣な瞳で言った。


「お嬢様……笑いすぎて、お疲れではありませんか?」


その言葉に、リリアンヌの指が止まる。

瞳が大きく揺れる。


「……どうして、そう思うの?」


ルネはためらいながらも、まっすぐ見つめた。

「お顔はとても綺麗なのに……目が、少し泣いておられましたから。」


沈黙。

リリアンヌの唇が、かすかに震える。

雪明かりがその横顔を照らす。


「ルネ……私、少しだけ、疲れたのかもしれないわ。」


その声は、氷の奥に閉じ込められていた真実の響きだった。

ルネは何も言わず、ただそっと彼女の手を包む。

その手は温かく、指先から静かなぬくもりが伝わる。


「それなら――笑わなくても大丈夫です。」

ルネは穏やかに微笑んだ。

「私は、お嬢様が笑っていなくても……大好きですから。」


リリアンヌの肩が、小さく震える。

彼女は何も言えず、ただその手の温かさを握り返した。


そして――

ほんの一瞬だけ、顔の力を抜く。

涙ではなく、息のような微笑みがこぼれた。


その瞬間、心の奥で“氷がひとひら”音を立てて溶けた。


夜。

雪はまだ降り続いていた。

窓辺の灯が、ゆらゆらと揺れている。


リリアンヌは椅子に腰かけ、白い外の世界を静かに見つめていた。

テーブルの上では、ルネがそっと置いていった紅茶が、湯気を立てている。

香りは優しく、心の奥にまで沁みるようだった。


彼女はカップを両手で包み、息を吐く。

指先に伝わる温もりが、胸の奥の冷たさを少しずつ融かしていく。


ふと、鏡に目をやる。

そこに映る自分は――笑っていなかった。

けれど、その顔には奇妙なほどの穏やかさが宿っていた。


まるで、ようやく自分自身と“休戦”できたように。


窓の外で、雪のひとひらが灯りに溶ける。

その儚さに、彼女はそっと目を細めた。


ラストモノローグ:


「笑顔は、鎧だと思っていた。

でも、本当の安らぎは――

その鎧を、そっと外せる場所に咲くのかもしれない。」


夜の静寂の中で、リリアンヌはただ、紅茶の香りを抱きしめていた。

その横顔には、笑みではない“やすらぎ”が、確かに咲いていた。


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