第17話 舞踏の初舞台 ―― 優雅に舞い、孤独を隠した。
夜の鐘が三度、静かに鳴り響いた。
学院の大広間は光の海。磨き上げられた床にシャンデリアの粒が揺れ、音楽が白い息のように広がっていく。
その夜、リリアンヌ・フローレンスは“初舞踏”を迎えていた。
雪のように透き通るシルクのドレス、胸元には深紅のルビー。まるで冬そのものを纏ったような姿。
彼女が一歩進むたびに、裾が静かに流れ、光がその足跡を追った。
侍女ルネが後ろから小さく息を呑む。
「リリアンヌ様……まるで、氷の女神のようです」
彼女は鏡越しに微笑んだ。その表情は、完璧に整えられた微笑。
「ありがとう。――そのくらいで、ちょうどいいわ」
鏡の中には、冷たく光る瞳。
温もりも怯えも映さない、美しく均衡の取れた“仮面”。
(この夜は、感情など要らない。
誰よりも優雅で、誰よりも遠い場所にいればいい。)
ルネが肩にマントをかける。外の風の音がわずかに届く。
それはまるで、リリアンヌの胸の奥――凍りついた心臓が鳴らす微かな音のようだった。
そして彼女は歩き出す。
“完璧な令嬢”としての初めての舞台へ。
氷の花のように、崩れることのない微笑を携えて。
大広間の扉が開いた瞬間、空気が揺れた。
無数の燭台が一斉に光を弾き、弦楽の旋律が天井から降り注ぐ。
その中心に、リリアンヌが立っていた。
雪のような白いドレス、背筋の通った歩み。
彼女が進むたびに、周囲のざわめきが波のように広がっていく。
「見て、あれがリリアンヌ嬢よ……」
「本当に、“完璧”という言葉が似合う方……」
ささやき声の中、誰もが息を呑む。
彼女はその視線を涼しく受け止め、優雅に会釈をした。
微笑みの角度、手の動き、立ち姿――すべてが美の作法そのもの。
まるで氷で彫られた彫像が、音楽に合わせて動き出したかのようだった。
だが、その内側で。
(――寒いわ。)
頬に感じる熱は、照明の光ではなく、注がれる無数の視線の温度。
それらは決して“憧れ”ではなく、“確認”のようだった。
彼女がまだ完璧であるかどうか、氷がひび割れていないかどうかを、試すような視線。
(誰も知らない。
この微笑みの下で、私の心はどれほど震えているかを。)
遠くの壇上に、レオナール王子の姿があった。
淡い金の髪に、穏やかな瞳。
彼と目が合った――ほんの一瞬。
けれど、二人の間には何の言葉も生まれなかった。
まるで互いの沈黙が、氷と氷の壁を作るように。
音楽が鳴り響く中、リリアンヌは再び微笑んだ。
完璧な令嬢としての仮面を、崩さぬように。
(今夜もまた、私の美しさは――孤独の証。)
舞踏の合図が響く。
オーケストラが旋律を変え、中央の空間が人々の視線で満たされる。
その中に一歩、リリアンヌの名が呼ばれた。
「……リリアンヌ・ド・ベルモント嬢、よろしければ一曲を。」
声の主は、侯爵家の次男・アラン。
まだあどけなさの残る青年で、緊張した笑みを浮かべている。
差し出された手が、わずかに震えていた。
リリアンヌはその手を見つめ、ゆるやかに指先を重ねる。
「光栄ですわ、アラン様。」
音楽が流れ出す。
彼女のドレスが雪のように舞い、広間の中央を滑る。
足元の動きは軽やかで、一糸の乱れもない。
観客たちの目が、彼女の軌跡を追う。
――完璧だった。
アランは何度も息をのみ、言葉を失っていた。
まるで自分が夢の中にいるように、リリアンヌの優雅さに導かれていく。
拍手が波のように広がり、花弁のような歓声が舞い上がる。
だが、その中心にいる彼女だけが――ひどく静かだった。
(皆が見ているのは、私ではない。
“完璧であろうとする私”という仮面だけ。)
アランの掌の温もりが、彼女の手のひんやりとした感触に触れる。
けれど、誰もその冷たさに気づかない。
優雅な軌跡を描きながら、彼女は心の奥でそっと呟いた。
(優雅さとは、孤独の形なのね。)
最後の一回転。
裾がひるがえり、光が反射し、雪片のように散った。
アランが深く礼をし、観客の拍手が響く中――
リリアンヌは微笑んだ。
“舞うための微笑”。
それは、誰にも触れさせない氷の仮面だった。
旋律が最高潮を迎える。
リリアンヌはアランと最後の一歩を踏み出し、スカートの裾が白い波のように揺れる。
会場全体が息を呑む中、彼女はふと――顔を上げた。
視線の先、二階のバルコニー。
そこに、レオナール王子の姿があった。
雪のような白の軍礼服、背後には冬の月。
彼の青い瞳が、静かにこちらを見つめている。
その眼差しは、かつての温もりを思い出させるほどに柔らかく、
そして――届かぬ距離にあった。
心臓が、一瞬だけ音を立てた。
リリアンヌは胸の奥で、凍てついた何かがわずかにひび割れるのを感じる。
(どうして、そんな目で見ないで……)
胸の奥に疼くものを、彼女はすぐに抑えた。
表情は崩さない。唇の端に、完璧な微笑を浮かべる。
それが彼女の武器であり、唯一の盾。
> 「殿下の前では、泣けないわ。
わたしは、“咲く”と決めたのだから。」
旋律が終わりを告げる。
最後の音が空気に消えると同時に、リリアンヌは深く礼をした。
その動作は流麗で、欠片の隙もない。
瞬間、広間に拍手が湧き上がる。
だが――その音は、彼女には氷の砕ける響きにしか聞こえなかった。
(華やかに舞うほど、孤独が澄んでいくのね。)
微笑んだまま、リリアンヌは顔を上げる。
レオナールの姿はもうそこにはなかった。
ただ月光だけが、彼女の頬に薄く触れていた。
舞踏会が終わり、音楽も笑い声も遠ざかる。
控え室の空気は静かで、灯りの火だけが微かに揺れていた。
リリアンヌは鏡の前に立ち、ドレスの肩紐を外す。
雪白のシルクが滑り落ち、床に柔らかな音を立てる。
髪をほどきながら、鏡に映る自分へ微笑んだ。
「今日の私は、完璧だったわ。」
唇が小さく動く。
それは、称賛でも誇示でもなく――確かめるような呟きだった。
鏡の中の自分は、相変わらず美しかった。
冷たく、揺るぎなく、感情の影ひとつ見せない令嬢。
だが、指先に残るわずかな冷たさが、心の奥を刺す。
(この手……あの方と踊らなかったのに、どうして震えているの?)
扉が静かに開く。
侍女ルネが温かな毛布を持って入ってきた。
「お疲れ様でした、リリアンヌ様。とてもお綺麗でした。」
リリアンヌは微笑んで、軽く首を振る。
「ありがとう。……少しだけ、胸が痛いの。」
その声は小さく、暖炉の火に溶けて消えていく。
ルネは何も言わず、ただそっと毛布を彼女の肩に掛けた。
リリアンヌはもう一度、鏡の自分を見つめる。
微笑は崩さない。けれど、その瞳の奥に一滴の光が揺れた。
それは涙ではなく、凍てついた輝きのように見えた。
ラストモノローグ:
「優雅に舞うことは、愛されることではなかった。
けれど、あの孤独の中で咲けたなら――
それも、私の誇りだと思いたい。」
夜の静寂の中、氷のような月光が差し込む。
その光を背に、リリアンヌはひとり微笑んだ。
――完璧な仮面の裏で、確かに“彼女自身”が息づいていた。




