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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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第15話 王子の微笑み ―― その優しさは、彼女の心をさらに凍らせた

王立学院の大広間は、無数の光で満たされていた。

天井から吊るされたシャンデリアが、金と銀の糸を編むように輝き、

磨かれた床には、ドレスの裾と燕尾服の影がゆらめいている。


リリアンヌはその中心で、完璧な笑顔を浮かべていた。

微笑む角度も、会釈の深さも、すべて計算されたもの。

まるで機械仕掛けの花のように、誰から見ても非の打ちどころがなかった。


「あの方がリリアンヌ嬢よ。まるで絵画のようだわ。」

「殿下の相手に選ばれるなんて、さすがですわね。」


囁きが周囲からこぼれるたび、

リリアンヌは心の奥で“鎧”をきつく締め直す。

称賛は重い。羨望は冷たい。

それらがいつしか、彼女にとって空気のように当たり前になっていた。


そこへ、穏やかなざわめきが走った。

視線が一斉に、階段の方へと向かう。


レオナール殿下。

淡い白金の髪に、柔らかな青の瞳。

完璧な立ち居振る舞いの中に、不思議な温もりを纏っている。

彼が一歩進むたびに、音楽さえ静まり返るようだった。


そして、司会者の声が響く。

「本年度の舞踏会、第一のパートナーとして――リリアンヌ・アーデン嬢。」


一瞬、空気が止まった。

リリアンヌは静かに裾を持ち上げ、優雅に頭を下げる。

差し出された王子の手が、自分の手に触れる。


その瞬間、周囲の視線が一斉に刺さる。

羨望、称賛、憧れ――どれもが彼女の肌を冷たく撫でていく。


(演じなければ。完璧でなければ。)


そう自分に言い聞かせ、彼女は微笑む。

だが、王子の手の温もりが、指先から心へと届いたとき――

小さな震えが胸の奥を走った。


あまりに穏やかで、あまりに優しいその手。

それなのに、彼女はふいに寒気を覚える。


(こんなに優しい笑顔なのに……

 どうして、こんなにも――冷たいの?)


音楽が再び流れ始める。

二人は完璧な調和で舞踏を始めた。

だが、リリアンヌの微笑の裏で、氷のような感情がゆっくりと沈み始めていた。


舞踏の旋律が流れる。

弦の響きが高く、低く波打ちながら、

リリアンヌとレオナール殿下の足元を包み込む。


彼の手が軽く、しかし確かに彼女の腰を支えていた。

その動作は完璧で、まるで練り上げられた芸術のよう。

けれど、彼の瞳だけはどこまでも人間的で、柔らかかった。


「リリアンヌ嬢、あなたはいつも凛としておられる。」

「皆、あなたを尊敬しているのですよ。」


言葉は優しく、真心があった。

リリアンヌは即座に、社交の仮面を被り直すように微笑んだ。


「ありがとうございます、殿下。

 それが私の務めですから。」


その声は滑らかで、完璧だった。

まるで冷たい硝子の上を指でなぞるような響き。


殿下は一瞬、彼女をじっと見つめた。

踊る足を止めることなく、ゆっくりと首を傾げる。


「……務め、ですか。」

「あなたが“自分のために”笑う姿も、見てみたい。」


その言葉は、まるで春風のように胸の奥を撫でた。

優しすぎるその響きが、逆に痛かった。


リリアンヌの心が一瞬だけ揺らぐ。

足元のリズムが、かすかに遅れそうになる。


(“自分のために”――そんな笑い方、いつ以来していないのだろう?)


だが、答えを探す前に、彼女はもう一度笑顔を整えていた。

瞳の奥の震えを、誰にも悟らせぬように。


「殿下の前で、取り乱すわけにはまいりませんわ。」


その声音は静かで、完璧。

まるで鏡のように、殿下の優しさを映し返すだけの笑み。


レオナールはわずかに眉を下げ、

それ以上、何も言わなかった。


その沈黙の中で、

リリアンヌはふと気づく――

彼の優しさに触れるほど、自分の“氷”が痛みを持って軋むのを。


(どうして……優しい言葉ほど、寒く感じるのかしら。)


音楽が一段と高まり、

二人は再び完璧な舞踏を続ける。

しかしその瞬間、彼女の胸の奥では、

誰にも見えない氷の花が、ひっそりとひび割れ始めていた。


音楽がゆるやかに終章を迎え、

シャンデリアの光がきらめきながらもどこか遠のいていく。


リリアンヌはそっと一礼し、

賑やかな輪から離れた。


ドレスの裾が床を滑るように揺れ、

夜風の通う扉を押し開けると、

ひんやりとした静寂が頬を撫でた。


バルコニーには誰もいない。

星々の光が冷たく降り注ぎ、

月明かりが白い肌を淡く照らす。


彼女は胸の奥で息をついた。

――完璧な微笑の裏で張り詰めていた糸が、

ようやく少しだけ緩む。


(……息ができる。

 でも、これも一瞬だけ。)


そのとき、背後から声がした。


「リリアンヌ嬢。」


驚いて振り向くと、

レオナール殿下がそこにいた。


金糸のような髪が月光を受け、

その穏やかな微笑は、舞踏会の中とは違っていた。

少し疲れを滲ませた、人間らしい笑み。


「人の視線に囲まれるのは、疲れますね。」


リリアンヌは一瞬、答えをためらった。

やがて、かすかに首を傾げて返す。


「……殿下でも、そう思われるのですか?」


殿下は小さく笑う。

その声音には、どこか寂しさがあった。


「ええ。私も“理想の王子”でいなければならないのです。

 でも――」


彼は星空を見上げた。

光の粒が瞳に映り込み、ほんの少し、遠くを見ているようだった。


「誰かが、その仮面の奥を見てくれたら……と思うこともあります。」


静寂が落ちる。

夜風がドレスの裾を揺らし、

リリアンヌの胸がきゅっと締めつけられる。


(仮面の奥を、見てほしい?)


その言葉が、まるで刃のように心に刺さる。


――彼は、誰かに本当の自分を見てほしいと願う人。

  けれど自分は、その“仮面の外”に出られない人。


彼の優しさが、

自分の“虚構”を照らしてしまう。


その光が眩しすぎて、

まるで凍てつく夜のように痛い。


(殿下のような人に、見透かされたら……

 私はきっと、崩れてしまう。)


リリアンヌは微笑む。

けれどその笑みは、涙の代わりに心を覆う氷の膜だった。


「……殿下。

 王子であるあなたがそうであるように、

 私も“令嬢”でいなければなりませんの。」


彼女の声は穏やかで、完璧。

夜風に混じって消えていく。


レオナールはその言葉に何かを感じ取ったのか、

少しだけ悲しげに瞳を伏せた。


そして、ただ小さく――


「おやすみなさい、リリアンヌ嬢。」

とだけ告げて、静かに去っていった。


残された彼女の微笑は、

もう誰にも見せることのない、“凍った仮面”のまま。


(温もりは、怖い。

 それを受け止めた瞬間、私の氷はきっと――溶けて、壊れてしまうから。)


月光が彼女の頬を撫でる。

その白い光の下で、

リリアンヌの微笑はひときわ美しく、

そして、ひどく冷たかった。


音楽はもう終わっていたはずなのに――

大広間の奥から、最後の旋律がまだ微かに響いていた。


バルコニーに立つリリアンヌのもとへ、

静かに歩み寄る足音。


レオナール殿下は、彼女の前で立ち止まると、

ゆっくりと手を差し出した。


「もう一度、踊っていただけますか?」


その声音は穏やかで、しかしどこか切実だった。

夜風に金の髪が揺れ、

その瞳は――まっすぐに彼女を見ていた。


リリアンヌの心が、かすかに軋む。


(どうして……そんな目で、私を見るの……?)


彼女は視線を逸らした。

それでも、差し出された手から逃げられなかった。


恐る恐る、手を取る。

その瞬間、指先から温もりが伝わる。


冷たいはずの風の中で、

その温度だけがあまりにも現実的だった。


レオナールが一歩、静かに踏み出す。

リリアンヌも自然と身を寄せ、

夜の下でふたりの影がゆっくりと揺れた。


音楽の残響が、心の奥に蘇る。

遠くで誰かが弾くピアノの調べ。

それに合わせて、彼女の足が動いた。


――美しく。

――けれど、どこか壊れたように。


彼の胸に視線を落としたまま、

リリアンヌは小さく呟いた。


「どうして……そんな顔で、私を見るのですか……」


震える声。

夜風がそれをさらっていく。


レオナールは答えなかった。

ただ、彼女の手を強く、けれど優しく包む。


その温もりに、心の氷がきしむ。

小さなひびが入る音が、確かに聞こえた気がした。


(触れられたら、きっと溶けてしまう。)


彼女の唇から、吐息がこぼれた。

涙ではなく、冷たい息。

氷の内側に閉じ込めた叫びが、

ようやく形を変えて外へ出た。


(でも――溶けたら、私という形はどうなってしまうの?)


恐怖と渇望が、同時に胸を締めつける。


“壊れたい”と思う心と、

“壊されまい”とする理性が、

彼女の中でぶつかり合っていた。


レオナールの手が、そっと彼女の頬に触れる。

その瞬間、リリアンヌの瞳が見開かれた。


氷のように張り詰めた微笑が、

かすかに、震える。


「やめて……そんな優しさを、向けないで……」


声は、かすれていた。


けれど、彼は静かに首を振る。


「あなたの“仮面”の下にあるものを、

 見ないふりをする方が、残酷でしょう?」


その言葉に、世界が揺らいだ。

リリアンヌの中で何かが崩れ落ちる音がする。


踊りの形が乱れる。

足元のリズムがほどけ、息が詰まる。


それでも、彼の手だけは離せなかった。


(もし、壊れてしまっても――

 この人の中でなら、許される気がした。)


風が吹く。

ドレスの裾が翻り、

ふたりの影が重なって――一瞬、ひとつになった。


夜の月が、その姿を見守っていた。

氷は、静かに涙に変わりつつあった。


舞踏会の終わりを告げる鐘が、静かに鳴り響いていた。

音楽は止み、煌びやかな灯りが次々と落とされていく。

最後のワルツの余韻だけが、大広間に漂っていた。


リリアンヌはゆっくりと礼をして、

王子レオナールの前に立つ。

彼の瞳は夜明けを映すように柔らかく、

それでいて、どこか切なさを帯びていた。


「あなたの笑顔は、氷のように美しい」


彼は、まるで祈るように告げる。


「でも、その中にある痛みを――私は忘れません。」


その言葉に、リリアンヌの心が微かに揺れた。

氷の下で、小さく波紋が広がる。


彼女はゆっくりと息を吸い、

微笑を整える。


「……ありがとうございます、殿下。

 その言葉だけで、今夜はもう十分です。」


礼儀正しく、完璧な声。

それはまるで氷の表面をなぞるような静けさだった。


レオナールは一歩、下がる。

そして、深く頭を下げると、

人々の挨拶の中へと消えていった。


残されたリリアンヌは、ひとりでバルコニーに立つ。

夜明けの光が差し込み、

遠くの空が淡い紫から金へと変わり始めていた。


冷たい風がドレスの裾を揺らす。

彼女は目を閉じ、胸の奥に残る痛みを確かめるように、

小さく微笑んだ。


それは、完璧に美しく――けれど、

その瞳の奥にはまだ凍てつく静寂があった。


(もし、この心が溶ける日が来るなら――

 その時、私はどんな顔で笑えばいいのかしら。)


空が白み始める。

遠くの鐘が、再び一日の始まりを告げた。


リリアンヌは振り返らずに歩き出す。

その背に、朝の光が降り注ぐ。

けれど、その光さえも――

氷の中に閉じこめられたままだった。


ラストモノローグ


「優しさが怖いと思ったのは、初めてだった。

 あの微笑みは、私を救う光ではなく、

 氷を深く閉じこめる鏡のようだった――。」




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