第14話:幻の手紙 ―― 机の引き出しに、破られた手紙が一枚
午後の光が、寄宿舎の窓からやわらかく差し込んでいた。
リリアンヌは課題の整理をしながら、ふと机の奥に手を伸ばす。
その机は、入学当初からずっと使っているものだったが、
最下段の引き出しを開けたのはいつ以来だろう。
金属の小さな鍵を回す。
――カチリ。
音が、部屋の静けさの中に溶けていく。
引き出しの奥底には、ほこりをかぶった羽根ペンの折れた軸。
そして、その下に黄ばんだ紙の切れ端が挟まっていた。
リリアンヌはそっとそれを取り上げる。
破れた封筒の中には、一枚の便箋。
古いインクの跡が、にじんで読みにくくなっている。
「お父さまへ――」
そこまで書かれ、言葉は途切れていた。
文の続きも、署名もない。
まるで、途中で息が止まったような手紙。
リリアンヌは息を呑んだ。
小さな音が喉の奥で鳴る。
――この筆跡。
間違いない。幼い頃の、自分の字だ。
指先に、かすかな震えが伝う。
紙の感触が、何かの記憶を呼び覚まそうとしていた。
けれど、その輪郭はぼやけたまま掴めない。
(……いつ、これを書いたの? どうして、破ってしまったの?)
窓の外では、春の風が木々を揺らしている。
その音が、遠い日のざわめきのように聞こえた。
封じられた過去の断片――
その一枚が、彼女の心にそっと影を落とす。
夜。
寄宿舎の部屋には、ひとつのランプだけが灯っていた。
琥珀色の光の中で、リリアンヌは机の上に一枚の紙を広げる。
破れた手紙。
幼い文字が、震えるように並んでいる。
読み進めるたびに、胸の奥が締めつけられていく。
「お父さまへ――」
「きょう、はじめて……」
そこから先の文字は、にじんで消えていた。
けれど、その“書けなかった続きを”リリアンヌは知っていた。
――あの夜のことを。
幼い自分が、手紙を胸に抱えて、父の執務室の前に立っていた。
扉の隙間から漏れる灯り。
重厚な机。
父の声と、そして――母の声。
「子どもじみた感傷を見せてはなりません。泣くのは下品です。」
その言葉に、手が止まった。
紙の上に落ちたインクのしずくが、涙のように滲んでいく。
――ああ、あのときの私。
ただ、褒めてほしかっただけなのに。
だが“泣いてはいけない”という声が、幼い心を縛った。
手紙を握りしめ、破り捨てたとき、
胸の中で何かが静かに壊れる音がした。
今、その記憶がまざまざと蘇る。
リリアンヌの指が震える。
インクの跡をなぞると、まるで今も温もりが残っているかのようだった。
「……わたし、あの時――何を怖がっていたのかしら。」
問いかけても、返るのは紙の擦れる音だけ。
それでも、確かに感じる。
この胸の奥で、ずっと誰かに届かなかった“言葉”が眠っていたのだと。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
リリアンヌはまだ机の前に座り、夜の名残を指先でなぞっていた。
破られた手紙の断片が、淡い光を受けて散らばっている。
扉が静かに開き、侍女のルネが紅茶の盆を持って入ってくる。
彼女は一瞬立ち止まり、机の上に目をとめた。
「これは……お手紙、ですか?」
リリアンヌは驚いたように目を瞬かせ、すぐに小さく笑う。
「ええ。昔のものよ。
――父に書こうとして、やめた手紙。」
ルネは盆をそっと置き、椅子の傍らに膝をついた。
「なぜ、渡されなかったのですか?」
リリアンヌは少しだけ目を伏せた。
その表情には、懐かしさと痛みが溶け合っている。
「怖かったの。
“愛してほしい”なんて言葉を笑われる気がしたの。
あの頃の私は、それを“恥ずかしい”と思わされていたから。」
ルネは何も言わず、散らばった紙片を丁寧に拾い集めていく。
破れた断面が、まるで小さな傷のように見えた。
一枚を指先に載せ、彼女は柔らかく言った。
「もし、書きかけのままでも――その想いは、きっと届いていますよ。」
リリアンヌは一瞬だけ息をのむ。
“届いている”――その言葉が、胸の奥の氷をかすかに溶かすようだった。
「届いていればいいわね。
……たとえ、幻でも。」
窓の外で、小鳥がひと声鳴いた。
朝の光が破片の上に落ち、それがまるで小さな返事のように輝いた。
夜。
寄宿舎の部屋は、ひとつのランプの灯りだけに照らされていた。
カーテンの向こうでは、冬の風が静かに枝葉を揺らしている。
リリアンヌは机に向かい、そっと椅子に腰を下ろした。
目の前には、昼間ルネと拾い集めた破片たち。
そして、その横に新しい白紙の便箋。
――同じ机の上。けれど、今の心は違う。
彼女は深く息を吸い、震える手で羽根ペンを取った。
インクの先が紙に触れると、ほんのかすかな音が響く。
「お父さまへ。
これは、昔の私が書けなかった手紙です。
あの時は、言葉にできなかった想いを――
今なら、少しだけ書ける気がします。」
ペン先が慎重に、けれど確かに進んでいく。
文字はたどたどしく、ところどころ掠れていた。
しかしその一文字ごとに、心の奥から何かが溶け出していく。
彼女は、記憶の中の父を思い浮かべる。
厳しい顔。滅多に笑わない唇。
けれど、その背中の影に、ほんの少しだけ優しさの名残を感じたことがある。
「……あれは、たしかに愛だったのかもしれない。」
小さく呟く。
そして、筆を止めずに続きを書く。
「――あなたの娘であることを、私はようやく“受け入れられそう”です。」
書き終えた瞬間、静寂が降りる。
リリアンヌはゆっくりとペンを置き、便箋を見つめた。
そこには、もう“幻”ではない言葉が並んでいる。
それは、幼い自分が求めた“愛されるための手紙”ではなかった。
“自分から愛を渡すための手紙”――
ようやく、彼女自身の意志で綴られたもの。
窓の外に、月が柔らかく滲んでいた。
光が便箋に反射し、淡い銀の輝きが彼女の頬を照らす。
リリアンヌは微笑む。
それは、誰かに見せるためではなく、
“書けた自分”を静かに祝福する微笑だった。
朝の光が、薄いカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。
リリアンヌはゆっくりと机に向かい、
昨夜書き終えた手紙を丁寧に折りたたむ。
封筒に入れる指先が、わずかに震えていた。
それは迷いではなく、長い沈黙を越えた“余韻”のようだった。
机の上には、まだあの破られた手紙の断片が残っている。
インクの滲み、掠れた線。
幼い日の心が、そのまま閉じ込められていた。
彼女はそれをそっと集め、
封をしないまま窓を開ける。
風が吹き込んだ。
散らばった紙片が宙を舞い、朝日にきらめく。
リリアンヌはそれを目で追いながら、小さく微笑んだ。
「さようなら、“言えなかった私”。」
その声は、鳥の鳴き声と混じって消えていく。
裏庭へ降りると、木々の葉が優しく揺れていた。
ポストの前で、彼女は新しい手紙を差し出す。
宛名は――空白のまま。
けれど、投函するその瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
――この手紙は、誰に届かなくてもいい。
それでも“書いた”という事実こそが、
彼女にとっての贈りものだった。
ラストモノローグ
「破られた手紙は、もう幻。
でも、その幻があったから――私は今、書ける。
誰に届かなくても、これは私の“本当の声”。」
朝の風が、まだ彼女の髪を撫でていた。
空を見上げると、ひとひらの紙片が、
青空の中でゆっくりと光に溶けていった。
それは――“幻”が“現実”へと変わる瞬間だった。




