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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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第13話 『初めての涙 ―― こぼした瞬間、侍女が慌てて拭い取った。』

―― 鏡の前の微笑


夜の寄宿舎は、息をひそめるように静まり返っていた。

リリアンヌはドレッサーの前に腰を下ろし、銀の櫛で髪を梳いている。

窓の外では月が揺らぎ、鏡の中の少女を白く照らしていた。


「今日も、失敗はなかったわね。」


ぽつりと呟き、鏡の中の自分に微笑みかける。

昼の授業も、礼法の講義も、社交会での立ち居振る舞いも完璧だった。

教師たちの称賛、友人たちの羨望。

――そのすべてを、計算通りにこなしてきた。


けれど、鏡の中の笑顔はどこか遠い。

口角の角度も、視線の置き方も、すべて「正しい」はずなのに。

そこに映るのは、まるで別の誰かのようだった。


櫛を置き、彼女はゆっくりとまぶたを閉じる。

瞼の裏に残るのは、白薔薇の夜会の残響。

音楽と拍手、そして「完璧だ」という言葉の数々。

それらはまるで、心の中の空洞を広げるために響いているようだった。


机の上に、薄いガラスのような栞が置かれている。

白薔薇の花びらを押し花にしたもの――

あの夜、彼女が「微笑むこと」を選んだ瞬間の記憶。


指先でそっと触れると、ひんやりとした感触が伝わった。

「綺麗ね……でも、触れるたびに冷たいの。」


その言葉が、鏡の中の自分の唇と同時に動く。

一瞬、どちらが“本当の声”なのかわからなくなった。


リリアンヌは微笑みを整え、姿勢を正す。

鏡の前の彼女も、同じように微笑み返す。

けれどその瞳の奥には――

小さな、気づかれぬひびが入っていた。

―― 侍女ルネとの会話:「泣くのは、いけないこと?」


夜更け、ランプの明かりが柔らかく揺れていた。

机の上には紅茶の香りが淡く漂い、静けさに包まれた部屋の空気をほんの少しだけ温めている。


「リリアンヌ様、少しお疲れのようです。」


カップをそっと置きながら、若い侍女ルネが言った。

栗色の髪を後ろで束ねた彼女は、貴族の娘たちを相手にするには珍しく、どこか優しい眼差しをしていた。

その穏やかさは、母の監督下では決して許されなかった種類の“温度”だった。


「ええ、でも……淑女は疲れを見せてはいけないのよ。」

リリアンヌは微笑む。

それは完璧な笑顔――けれど、少しだけ紅茶の表面が揺れた。


ルネは一瞬、言葉を選ぶように黙った。

そして、ためらいがちに尋ねる。


「……泣きたくなることも、ありませんか?」


その一言が、まるで小石のようにリリアンヌの胸に落ちた。

「泣く?」

彼女は、まるで知らない言葉を聞いたように繰り返す。


頭の中で、母の声がよみがえる。

――「涙は未熟の証。貴族の娘は感情を見せてはならない。」


けれど、ルネの声は静かに続いた。

「泣くのは弱さではありませんよ。

 それは……心が、まだ生きているという証です。」


その言葉に、リリアンヌの胸の奥がわずかにざわめいた。

胸の奥が、何かを思い出そうとして疼く。

いつからだろう――涙という行為を、忘れてしまったのは。


「でも……涙は“汚れ”だと教えられたわ。」

彼女は微笑んで言った。

「母は、泣く娘を“未熟”と呼ぶの。」


ルネは少し悲しそうに、しかし優しく頷いた。

「それでも、心は泣き方を覚えているものです。

 どんなに教え込まれても、消えたりはしません。」


その言葉が部屋に残る。

リリアンヌはうつむき、カップの縁を指でなぞった。

紅茶の表面が、わずかに光を反射して揺れている。

それが、どこか“涙”に似て見えた。


胸の奥で、何かが小さく鳴いた。

――“泣いてみたい”

そんな衝動が、一瞬だけ心をかすめる。


だが、次の瞬間には、彼女は理性でその感情を押し戻す。

微笑みを取り戻し、カップを唇に運ぶ。

「ありがとう、ルネ。もう大丈夫よ。」


紅茶の味は、少しだけ塩辛かった。


―― 壊れたティーカップ:「どうして……涙が?」


ルネが部屋を出ていったあと、静寂が戻る。

ランプの炎が小さく揺れて、机の上の影を伸ばした。

リリアンヌはひとり、紅茶の残りを口にしようとカップを持ち上げる。


けれど――指先が、かすかに震えていた。

今日の授業も、礼法も、会話も、すべて“正しく”こなしたはずなのに。

理由のない疲労が、腕を重くする。


カップが傾ぎ、次の瞬間、

――パリン、と。


陶器の割れる音が、夜気を切り裂いた。

琥珀色の液体が床にこぼれ、光を反射して広がっていく。

その光景を見つめながら、リリアンヌの胸の奥で何かがきしんだ。


「……ごめんなさい……」


誰に向けた言葉かも分からない。

ただ、唇から自然にこぼれた。


床の紅茶が、まるで“血”のように見えた。

完璧であろうとした日々の破片が、今そこに散らばっているようだった。


そのとき――

頬を温かいものが伝う。

ぽたり、と落ちた。


「……え?」

指先で触れる。濡れている。

掌に映るのは、小さな透明の雫。


「これ……何……?」

声が震える。

自分の体が、“泣く”という行為を思い出していない。


次の瞬間、涙がもう一粒、静かに落ちた。

それは割れた陶器の欠片に反射して、光の粒になった。


胸の奥から、ようやく、閉じ込めていた何かが流れ出していく。

けれど、リリアンヌの表情は、まだ戸惑いのままだった。

泣くことを許された心が、どう振る舞えばいいのか分からない――

そんな少女の顔。


割れたカップは、完璧さの崩壊。

紅茶は、抑え込まれた感情の流出。


そして涙は――彼女が“人間”に戻るための、最初の証だった。


―― クライマックス:慌てる侍女 「涙を拭ってはいけない」


割れた陶器の破片が床に散らばり、

紅茶の琥珀色が月明かりに濡れている。

リリアンヌはその中に座り込んでいた。

指先が震え、胸の奥から、知らない音が漏れる。

――それが自分のすすり泣きだと気づくまで、少し時間がかかった。


そのとき、扉が勢いよく開いた。


「リリアンヌ様! どうなさったのですか!?」


駆け込んできた侍女ルネが息を呑む。

床一面の破片、そして涙に濡れた少女の顔。


「いけません、リリアンヌ様……お召し物が……!」

慌ててハンカチを取り出し、涙を拭おうとする。


けれど――リリアンヌはその手を、そっと押さえた。

柔らかな指先で、静かに。


「いいの。これは……汚れじゃないの。」


ルネの手が止まる。

リリアンヌは微笑んでいた。

泣きながら、笑っていた。


涙は頬を伝い続ける。止めようとしても止まらない。

それでも、その顔には不思議な安らぎがあった。


「ようやく……“痛い”って言えた気がするの。」


声は震えていた。

でも、それは壊れた声ではなく、ようやく自分のものになった声。

静かな部屋に、確かに響いた。


ルネは何も言えず、その場に膝をつく。

そっとリリアンヌの隣に座り、ただ彼女の背中に手を置いた。

叱責も慰めもいらない。

この涙が――彼女の“はじまり”だと分かっていたから。


完璧の檻の中で育った少女が、ようやく人として泣く。

その涙は、弱さではなく――初めての自由。


―― 結末:静かな余韻 「涙の味は、苦くて、少し甘い」


涙が乾くころ、

部屋には静かな音だけが残っていた。

破片のひとつひとつを拾い上げるルネの動きは、

まるで壊れた心をそっと撫でるように、丁寧だった。


リリアンヌはベッドの端に腰を下ろし、

まだ熱の残る頬に指を当てた。

その指先に触れるもの――それは、確かに“生きている”感触だった。


「……涙って、こんなに温かいのね。」


小さく呟くと、ルネは静かに顔を上げて微笑む。

「リリアンヌ様の笑顔が……本当に、初めてのものに見えます。」


窓の外、夜が少しずつ溶けていく。

淡い光がカーテンの隙間から差し込み、

床の上に砕けた陶器をやさしく照らす。


その光の中で、リリアンヌの瞳はかすかに赤く、

けれど――穏やかだった。


唇が、ほとんど無意識に動く。

それは祈りではなく、ただの独白。


「こぼした瞬間、侍女が慌てて拭い取った。

でも、あの一滴だけは――心に残しておこう。

“完璧じゃない私”を、覚えておくために。」


彼女はそっと息をつき、まぶたを閉じる。

涙の跡が乾いた頬に、かすかな微笑が浮かんだ。


――涙の味は、苦くて、少し甘い。

それは、彼女が“人間”になった夜の、確かな証だった。





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