第12話 裏庭の小鳥 ―― 鳴き声が羨ましいと初めて思った。
放課後の鐘が遠ざかり、校舎の陰に柔らかな光が落ちていた。
寄宿舎の裏庭――風に揺れるラベンダーの香りが、ゆるやかに流れていく。
リリアンヌはベンチに腰かけ、膝の上に分厚い詩集を広げていた。
けれど、視線はページの文字を追わず、ただ紙の白さだけを眺めている。
朗読の授業で褒められたばかりなのに、胸の奥には何の余韻も残っていなかった。
「……静かね」
ぽつりと呟いた声が、風に溶ける。
そのとき――どこかで、小さな音がした。
チチ、チチチ――。
リリアンヌが顔を上げると、古い樹の枝に小さな鳥籠が吊られていた。
細い金の格子の中で、一羽の青い小鳥が羽を震わせている。
翼の内側が陽に透け、ガラスのように淡く光っていた。
誰かが飼っているのだろうか。
寮の少女たちは、誰もこの裏庭に来たがらない。
なのに、この小鳥だけは毎日ここにいる――そんな風に感じられた。
リリアンヌが近づくと、小鳥は首を傾げ、囀り出した。
その声はかすかに震えて、それでもどこまでも澄んでいた。
まるで、空の端まで届くような自由の響き。
「どうして……こんな狭い籠の中で、そんなふうに歌えるの?」
思わず口をついて出た問いは、風に攫われて消えた。
小鳥は何も答えず、ただ羽を揺らす。
――リリアンヌの胸の奥で、微かな痛みが広がる。
あの小さな声は、どこか懐かしかった。
かつて、自分もそうやって何かを語りたかった気がする。
けれど今は、言葉の代わりに“笑顔”だけが残っている。
風が木々を撫で、小鳥の囀りがまた響く。
その声は――檻の中のものとは思えぬほど、自由だった。
リリアンヌはそっと瞳を伏せる。
ページの上で、陽の光が揺れた。
胸の中にふいに浮かんだ思い。
――羨ましい。
声を持つということが、こんなにも美しいなんて。
その日から、リリアンヌは裏庭に通うのが日課になった。
授業が終わると、そっと本を抱えて人気のない裏門を抜ける。
古い樹の下――籠の中の小鳥が、必ず彼女を待っていた。
最初のうちは、ただ見ているだけだった。
けれど、いつしかリリアンヌは小さく口を開くようになっていた。
「今日も完璧に笑いました。
紅茶の席で、少しだけ間違えそうになったけれど……誰にも気づかれませんでした。」
小鳥は首を傾げるだけで、返事をしない。
けれど、その静けさがなぜか心地よかった。
「あなたはいいわね。
好きな時に、好きな声を出せるもの。」
彼女が微笑むと、小鳥は細い喉を震わせて答えるように囀る。
その音は、まるで“誰にも届かない言葉”が風に変わる瞬間のようだった。
リリアンヌは目を閉じ、そっと息をつく。
「ねぇ……私も、ああやって生きられると思う?」
当然、答えはない。
けれど、小鳥の沈黙が、どこか“聴いてくれている”ように思えた。
日が傾き、影が長く伸びていく。
そのとき、突然、風が吹いた。
――カラン。
鳥籠が大きく揺れ、金の鎖が軋む音がした。
中の小鳥が怯え、羽をばたつかせる。
その羽音が、彼女の胸の奥を震わせた。
「怖いのね……でも、逃げられないのね。」
リリアンヌはそっと柵越しに手を伸ばし、籠を支える。
青い羽が一枚、彼女の袖に触れて落ちた。
掌の上に、かすかに震える羽。
それは空のかけらのように淡く、美しかった。
――私も同じ。
誰かのために形を整え、
震えても、声を上げることは許されない。
籠の中の小鳥は再び静かに鳴いた。
まるで、彼女の沈黙に答えるように。
その日、夕陽はやけに赤かった。
裏庭の影が長く伸び、籠の中の小鳥を朱に染めている。
リリアンヌは、いつものように静かに近づいた。
けれど――今日は、何かが違った。
鳥籠の留め金が、かすかに外れている。
いつもなら固く閉ざされているはずの小さな鍵が、風に揺れていた。
「……あら?」
リリアンヌは思わず立ち止まり、胸が高鳴るのを感じた。
籠の中の小鳥は、止まり木の上でじっと彼女を見ている。
逃げる素振りもない。
ただ、静かに、待っているように。
「……出たいの?」
誰にともなく呟いた言葉が、風に溶ける。
指先が自然と動き、錠へと触れる。
カチリ、と小さな音。
扉が、わずかに開く。
その瞬間――
「リリアンヌ様、何をしているのです?」
背後から、冷たい声が落ちた。
彼女の肩がびくりと震える。
振り返ると、そこには礼法教師が立っていた。
黒衣の裾が夕風に揺れている。
「飼い鳥を逃がすなど、無責任で礼節を欠く行為です。
誰の許可でそんなことを?」
リリアンヌは青ざめ、慌てて手を引っ込めた。
扉が閉じる。
カチン、と鍵が戻る音が、やけに大きく響いた。
「……申し訳ありません。そんなつもりではなく……」
教師はため息をつき、静かに首を振った。
「思いやりは美徳です。ですが、“形式”を乱せば、それは秩序の破壊です。」
その言葉に、リリアンヌは何も言えなかった。
ただ、足元の影を見つめる。
――小鳥の影が、籠の中で震えていた。
教師が去ったあと、リリアンヌはそっと籠を見上げた。
「……どうして、“自由にしてあげたい”と思うことが、間違いなの?」
答えは、やはり返ってこない。
小鳥は黙って、彼女を見つめていた。
その瞳の奥に、自分の顔が映っていることに――リリアンヌは気づかなかった。
夜の帳が、静かに学院を包んでいた。
リリアンヌはベッドの上で身じろぎもせず、瞳を閉じている。
けれど眠りは浅く、胸の奥で何かがざわついていた。
――その夜、彼女は夢を見る。
白い霧の中、一本の枝。
そこに小さな鳥籠が吊られている。
中には、あの青い小鳥。
けれど、囀っているのは――リリアンヌの声だった。
> 「……やめて。私の声を、返して。」
そう言うと、小鳥は微笑むように羽を震わせた。
> 「どうして?
> あなたが黙っているから、代わりに歌ってあげているの。」
鳥の声が、だんだんと悲鳴のように変わっていく。
笑いながら泣いている――そんな声だった。
リリアンヌは籠を掴み、必死に揺さぶる。
> 「もうやめて! 私は、あなたじゃない!」
カラン、と音を立てて籠が割れる。
光が弾け、小鳥が飛び立つ――その瞬間、
リリアンヌの喉が焼けるように熱くなった。
彼女は目を覚ました。
暗い天蓋。
荒い呼吸。
頬を伝う涙が、枕を濡らしている。
口を開こうとする――けれど、声が出ない。
(……叫びたいのに。)
(どうして、こんなにも痛いのに。)
喉の奥が、鉄で塞がれたように重い。
彼女は震える指で喉元を押さえた。
(私の声は……いつから、“他人のもの”になってしまったのだろう。)
沈黙が、夜を埋め尽くす。
そして、その沈黙の奥で――
微かに、小鳥の囀りが聞こえた。
それは、確かに彼女自身の声だった。
朝の光が、柔らかく裏庭を包んでいた。
露に濡れた草の上を、リリアンヌの靴音が静かに進む。
いつもの場所。
古い樹の枝に吊られた鳥籠――
けれど、その中は空だった。
扉が開いている。
中には、青い羽が一枚だけ残されていた。
風が通り抜け、その羽がふわりと揺れる。
リリアンヌはゆっくりと手を伸ばし、その羽を指先に取った。
朝日があたると、羽はかすかに光り、まるで空の欠片のようだった。
「……そう。行ってしまったのね。」
声は小さく、それでいて、どこか満たされていた。
誰に聞かせるでもなく、ただ風に溶けるような囁き。
「羨ましいわね……あなたの声は、誰の許しもいらないもの。」
リリアンヌは羽を胸元にそっと当てた。
温もりはない。けれど、不思議と心は静かだった。
遠くで、どこかの木立から鳥の囀りが響く。
それは自由そのものの声。
昨日までは、胸を締めつけたその音が――
今は、ほんの少しだけ優しく聞こえた。
彼女は空を見上げる。
青が、どこまでも広がっている。
微風が頬を撫で、髪を揺らす。
> 「もし私にも翼があるなら、
> それは“愛されるため”じゃなく――
> “私の声で生きるため”に。」
小さく、誰にも見せない微笑みが浮かぶ。
それは、まだ不器用で、少しだけ震えていた。
けれど――確かに、“リリアンヌ自身”の微笑だった。




