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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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第11話:父の褒章 ―― 勲章より重いのは、愛されたいという願い。

白薔薇の夜会から、三日後。

リリアンヌは久方ぶりに故郷の屋敷へと戻っていた。

門をくぐると、白い花飾りが並び、整列した使用人たちが一斉に頭を下げる。

祝福の空気が漂う――はずだった。


だが彼女には、それが**祝祭ではなく“舞台の幕開け”**に思えた。

見慣れたはずの屋敷が、どこか遠い場所のように感じられる。


玄関ホールで待っていたのは、父――オルフェウス侯爵。

威厳ある軍服に包まれ、胸には数々の勲章が光っていた。

彼の立つ姿そのものが、一枚の肖像画のようだった。


「白薔薇の夜会での功績、誇らしいぞ」

父は穏やかに言い、口元だけで笑う。

その声には、軍人特有の硬質な響きがあった。


「お前はクラリスに似ている。完璧で、美しい」


――その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さなひびが走る。

“父の言葉は、いつも誰かの代わり”。

娘である自分を見ていながら、彼はいつも母という理想像を重ねている。


リリアンヌは微笑みを返す。

完璧な礼を添えて。

それが彼女に許された唯一の応答だった。


父は机の上に置かれた小箱を手に取る。

中には、金の徽章――王立校からの推挙章が収められていた。

細工の細やかさも、重みも、まるで軍の勲章のようだ。


「お前は家の誇りだ、リリアンヌ」

そう言って、父は自らの手でそれを彼女の胸元に付けた。


金属の冷たさが、肌を通して心臓に伝わる。

徽章が鳴るたびに、息が詰まる。


――それは、誇りではなく鎖のようだった。


胸元にのしかかる重み。

称賛の言葉の代わりに、沈黙の圧が広がっていく。


リリアンヌは微笑んだまま、ほんの少し目を伏せた。

父の声が遠のいていく。

まるで、耳の奥に水が満ちていくように。


「私が欲しかったのは、勲章じゃない。

ただ――“あなたの言葉”だったのに。」


ランプの灯が揺れ、金の徽章が淡く光を返す。

その光は、まるで愛の代わりに磨かれた名誉のように、冷たく輝いていた。


晩餐の間には、穏やかな音が流れていた。

銀のフォークが皿に触れるたび、微かな澄んだ音が響く。

それはまるで、上質に調律された沈黙のようだった。


テーブルの中央には白薔薇が飾られ、三人分の席。

父・オルフェウス、母・クラリス、そしてリリアンヌ。

完璧な一家の食卓――外から見れば、それは絵画のように整っていた。


母クラリスは優雅にナイフを動かしながら、笑みを浮かべる。

「あなたの舞は見事だったそうね、リリアンヌ。

 先生方が“淑女の鑑”だとおっしゃっていたわ。」


リリアンヌは姿勢を正し、わずかに首を傾げて答える。

「ありがとうございます。母の教えのおかげですわ。」


母の笑みが深くなる。

その横顔を見ながら、リリアンヌはふと――鏡を見ているような錯覚に囚われる。

彼女の言葉、表情、仕草。

どれもが、母の完璧な再現。

まるで、“娘”という存在が母の模倣品であるかのようだった。


父オルフェウスはワインを傾け、静かに頷いた。

「立派なものだ。

 お前がセレスティア家の名を継ぐ日が楽しみだ。」


その声には称賛があった。

だが、その眼差しには――距離があった。

まるで娘を見ているのではなく、

“家の象徴”を見ているかのように。


会話はやがて、戦功や政略の話へと移っていく。

父が語るのは外交と軍の動き、母が頷くのは王宮の噂。

その間に座るリリアンヌは、ただ静かに笑っていた。

完璧なタイミングで相槌を打ち、姿勢を崩さず、感情を封じて。


――だが、ふとした瞬間。

父の声が、鋭く空気を断つ。


「次は社交舞踏会ではなく、外交晩餐にも同行できるだろう。」


まるで命令のように告げられたその言葉。

否定も、迷いも、選択肢も存在しない。

ただ、“期待”という名の命令だけがある。


リリアンヌはわずかに息を吸い、

銀のフォークを置いて、微笑んだ。


「光栄ですわ。父上。」


その声は澄んでいて、礼儀正しい。

けれど、その胸の奥では――

なにも温度を持たない声が静かに呟いていた。


「私がほしかったのは、“誇り”じゃない。

ただ、“娘として”名前を呼んでほしかった。」


その瞬間、蝋燭の火がわずかに揺れる。

揺らめく光の中で、三人の影が壁に伸びる。

だが――リリアンヌの影だけが、ほんの少し、空席のように薄かった。


夜更け、屋敷は静寂に包まれていた。

廊下の長い絨毯が足音を吸い込み、

ランプの灯が淡く壁を照らしている。


リリアンヌは眠れずに、自室を抜け出していた。

階段を降り、書斎の前を通りかかる。

扉の隙間から、金色の光がこぼれているのが見えた。


――父の書斎。

幼い頃から、扉の向こうは“禁じられた領域”だった。


息をひそめて覗き込む。

そこには、父オルフェウスが一人、机に向かっていた。

軍服の肩章が淡く輝き、手元では布が動いている。


彼は、静かに――勲章を磨いていた。


机の上には、整然と並んだ数々の徽章。

戦で得たもの、功績によるもの、王からの褒賞。

どれも黄金の光を放ち、

ランプの炎に照らされては、過去の栄光を映し出していた。


金属が布にこすれる音が、

まるで心の空洞を満たすように、規則正しく響いている。


リリアンヌはしばらく、言葉を忘れて立ち尽くした。

その背中は揺るぎなく、威厳に満ちていて、

けれど――どこまでも遠かった。


彼の周囲には、

「国のため」「家のため」「名誉のため」という言葉が

目に見えない鎖のように絡みついている気がした。


ふと、机の端に一枚の古びた写真が見えた。

額縁の中――若き日の父と母、そして幼い自分。


けれど、三人はそれぞれ別の方向を見ている。

母は優雅に微笑み、父はまっすぐ前を見据え、

幼いリリアンヌだけが――ただその間で、不安げに立っていた。


笑顔はあるのに、

ひとつも、視線が交わっていない。


喉の奥がきゅっと締まる。

リリアンヌは扉にそっと手を当て、

かすかな声で呟いた。


「……お父さま。

 あなたの“誇り”の中に、私はいますか?」


答えは、なかった。


ただ、布が金属を磨く音だけが続く。

こすられるたびに、勲章が新しい光を放つ。

まるで、愛の代わりに磨かれる名誉のように。


リリアンヌは静かに目を閉じる。

耳に残るのは、金属音のリズム。

それはまるで――心臓の鼓動の代わりに響く音だった。


扉の向こうの光が揺れ、

影が壁に伸びる。

父の影の中に、彼女自身の小さな影が重なって、

やがて――見えなくなった。


朝の光が、屋敷の石畳を淡く照らしていた。

馬車の前で、リリアンヌは出発の支度を整えて立っていた。

侍女がトランクを積み、御者が手綱を確認している。

空気は澄んでいるのに、胸の奥だけが重かった。


そのとき、玄関から足音が響く。

父――オルフェウス侯爵が現れた。

軍服の襟を正し、整えられた口髭の下に、

あのいつもの無表情な笑みを浮かべている。


「これを、身につけていなさい。」

そう言って、彼は小箱を差し出した。


開くと、中には昨日の夜、彼が磨いていた金の勲章が入っていた。

家紋をかたどったその徽章は、朝日に反射してまぶしく光る。


「お前が我が家の名を背負う証だ。」


静かな声。

それは誇りを伝える言葉のはずなのに、

リリアンヌには、重石のように響いた。


彼女は一瞬、手を伸ばしかけて――止まる。

指先が震える。

胸の奥から、何かが張り裂ける音がした。


「……お父さま。」

声はかすれて、しかし真っすぐだった。


「私は、この勲章を……重いと感じてしまうのです。

 どうしてでしょうね。」


父はわずかに眉をひそめた。

だが何も言わない。

沈黙だけが、風よりも冷たく二人の間に流れる。


リリアンヌは、その無言の時間の中で――悟った。

この人の愛は、形しか持たないのだと。


彼女は勲章を手に取り、

その金属の冷たさを確かめるように胸に押し当てた。

硬質な感触。

それは誇りでも、守りでもなく、

ただ「承認」という名の鎖だった。


そして、静かに言う。


「――これは、愛ではないのですね。」


父の瞳が、わずかに揺れた。

それでも彼は何も言わない。


リリアンヌは微笑んだ。

悲しみの微笑みではなかった。

ようやく自分の意思で選べた人間の、静かな笑み。


「お父さま。

 私は、あなたの“名”ではなく、

 私自身として、生きてみたいのです。」


そう言って、彼女は勲章を机の上にそっと置いた。

金属が木に触れる音が、

まるで断ち切られる鎖の音のように響く。


外では、風が白薔薇の花を散らしていく。

リリアンヌはその音を背に、

馬車へと歩き出した。


胸元には、もう何も光っていない。

だが、足取りは驚くほど軽かった。


扉が閉まり、馬車が動き出す。

振り返った先で、父の姿が小さくなっていく。

その胸の勲章だけが、朝日にかすかに光っていた。


――けれど、もうそれは、彼女の道を照らす光ではない。


蹄の音が、静かな朝の石畳を刻んでいく。

馬車がゆっくりと屋敷を離れ、

鉄の門が背後で閉じる音が響いた。


――それは、まるで長い舞台の幕が下りる音のようだった。


リリアンヌは座席にもたれ、

両手を膝の上で重ねる。

胸元にはもう、あの勲章はない。

けれど、不思議だった。


呼吸が、軽い。

胸の奥が、風を吸い込むように広がっていく。


窓の外では、朝の光が庭を照らし始めていた。

白薔薇の花々が風に揺れ、

その香りがわずかに馬車の中へ流れ込む。


リリアンヌは、目を閉じて小さく微笑んだ。


「勲章は置いてきた。

でも――重みの中に隠れていた“愛されたい”という願いだけは、

まだ私の中にある。」


それは、手放すことのできない痛み。

けれど同時に、生きている証のようでもあった。


馬車が丘を越えるころ、

柔らかな朝風が窓から吹き込み、

胸元をそっと撫でていく。


リリアンヌはその温もりを感じながら、

そっと呟いた。


「……少し、軽くなった気がしますね。」


彼女の声は、風に混じってどこまでも遠くへ流れていった。

背後の屋敷は、もう見えない。

だが、心のどこかで確かに扉が開いていた。


――名のためではなく、自分として生きるための、

ほんの小さな、最初の一歩として。





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