第10話 白薔薇の夜会 ――褒められても、胸の奥が冷たい。
王立寄宿学校の冬の季節。
学期の終わりを告げる鐘が鳴り響くころ、生徒たちにひとつの知らせが届いた。
――「白薔薇の夜会」への招待状。
それは、若き貴族たちが初めて社交界に姿を現す“デビュタント”のような式典。
学業・礼法・教養において優秀な者のみが招かれる、名誉ある舞台だった。
白薔薇は「純潔」と「気品」の象徴。
その花の下で微笑む少女こそが、次代の貴族社会を飾る“理想の令嬢”とされるのだ。
講堂で名前が読み上げられたとき、誰もが「やはり」と頷いた。
リリアンヌ・アーデルハイト。
完璧な礼法、乱れぬ姿勢、無駄のない所作。
教師たちの誇り、同級生たちの憧れ。
「あなたの立ち居振る舞いは、まるで王宮の花のようです」
称賛の言葉が降り注ぐ中、リリアンヌは静かに頭を下げた。
その瞬間――
胸の奥を、かすかな違和がかすめた。
(花……? でも、“花”には根がないのでは?)
白薔薇。
それは土から切り離された存在。
人の手に飾られ、称えられ、やがて枯れていくもの。
自分も、そうなのだろうか。
その夜、寄宿舎に届いた荷物を開けると、
そこには純白のドレスが入っていた。
母・クラリスからの贈り物である。
銀糸で縁取られた布は月光のように滑らかで、
胸元にはアーデルハイト家の紋章が小さく刺繍されている。
添えられた手紙には、いつもの整った筆跡があった。
――「あなたの努力を、誰より誇りに思います。
この衣をまとい、恥じぬよう振る舞いなさい。
アーデルハイトの名を、輝かせて。」
リリアンヌはそっとドレスを取り出し、鏡の前で袖を通した。
柔らかい生地が肌を包み、身体の線にぴたりと沿う。
完璧な仕立て。
どこにも乱れがない。
……なのに、胸の奥に小さな痛みが走った。
息を吸うたび、布が彼女の呼吸を制限する。
まるで、形を崩さぬようにと――
“人間”ではなく、“作品”として仕立てられたかのように。
(このドレスは……私を飾るためのものじゃない。
私を、形づくるためのものだわ)
ランプの光に照らされた白が、
まるで氷のように冷たく見えた。
リリアンヌは目を閉じ、静かに微笑んだ。
それは母が望む完璧な微笑み。
けれどその笑みの奥で、
わずかに震える息が、彼女の“人間らしさ”の最後の証のように感じられた。
夜会の鐘は、まだ鳴っていない。
けれど、彼女の心にはもう――
凍てついた白薔薇の影が、静かに咲き始めていた。
王都の大広間。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の光を白薔薇に落としていた。
楽団の音色はやわらかく、客人たちの笑声は波のように広がる。
――白薔薇の夜会。
それは純白の舞台であり、少女たちが“完璧”を証明する夜。
リリアンヌ・アーデルハイトは、中央の花のように立っていた。
銀糸のドレスが光を受けて淡く輝き、
一歩進むたびにその裾が静かに波打つ。
周囲の視線が集まり、貴族の若者たちが彼女を囲む。
「アーデルハイト嬢、なんて見事な所作だ」
「本当に……完璧だ」
ひとつ、またひとつ。
賞賛の言葉が、白い雪のように降り積もる。
リリアンヌは微笑みでそれを受け止める。
首を傾げ、優雅に会釈する。
その仕草すらも、まるで作曲された旋律の一部のように淀みがない。
けれど――
どの言葉も、心には触れなかった。
拍手の音も、楽団の旋律も、
遠くから聴こえてくるようにぼやけていく。
目の前の顔は笑っているのに、
彼女にはその誰の表情も、もう“人の顔”として見えなかった。
(これは祝福……? それとも、確認なのかしら)
“完璧”であることを求められ、
“完璧”であると証明し続けることが、
いつのまにか彼女の存在理由になっていた。
遠くで、ささやく声が聞こえた。
「そういえば――昔、この学校に貧しい子爵家の娘がいたわね」
「家庭の事情で退学したとか。……ほら、あの、名前は――」
その一言で、心臓が小さく跳ねた。
ミリア。
もう二度と会えない友の名。
小さな嘘を守るために、ひとりを泣かせた日の夜が、
一瞬で脳裏に蘇る。
指先がわずかに震えた。
けれど、すぐに隣の令嬢が笑いかけてくる。
「アーデルハイト様、この音楽、素敵ですわね」
リリアンヌは微笑みを整え、
流れるように相槌を打つ。
「ええ、とても優美ですわ」
まるで心のざわめきを押し隠すように。
(感情を……出してはいけない。
母に叱られるから。)
楽団の音が再び満ちる。
拍手と笑声が渦のように広がる中、
リリアンヌの笑顔だけが静止画のように取り残されていた。
まるで、檻の中で咲く“白薔薇”そのもののように。
楽団が新たな曲を奏で始めた。
優雅なワルツが会場全体を包み、
無数のシャンデリアが白金の光を降らせる。
司会役の侯爵が高らかに宣言した。
「本年度――“白薔薇の淑女”の称号は、
セレスティア家、リリアンヌ・アーデルハイト嬢に贈られます!」
一瞬、空気が震えた。
拍手が、波のように押し寄せる。
白薔薇の花びらが天井から降り注ぎ、
光と香りが混ざり合う。
リリアンヌは、ゆっくりと歩み出た。
裾が床を滑るたびに、
ドレスの刺繍が星屑のようにきらめく。
深く礼をする。
笑顔を浮かべる。
完璧に――。
「おめでとうございます、アーデルハイト嬢!」
「真に気品の象徴だ!」
賞賛の声が次々と飛び交い、
周囲の視線が彼女を包み込む。
だが、胸の内には――何もない。
(どうして……こんなにも静かなの?)
花びらが頬をかすめても、
心はひとひらも動かない。
拍手の音が遠く、
祝辞の声が水の底から響いてくるようだった。
――そのとき。
ホールの鏡張りの壁に、
彼女自身の姿が映り込んだ。
純白のドレス。
完璧な姿勢。
母譲りの微笑み。
……だが、その瞳の奥には、
底知れぬ静寂が広がっていた。
冷たく、深く、どこまでも澄んだ――“湖のような”光。
リリアンヌはゆっくりと目を細めた。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬、
違う誰かのように見えた。
(誰のために、私はここに立っているの?)
周囲の拍手が、
まるで鳥籠を叩く音のように響く。
(褒められるたびに……私という輪郭が曖昧になる。
私を讃えているのは、誰?
……それとも、“何”なの?)
鏡の中の自分は、
微笑んだまま、何も答えなかった。
それでも――その微笑が、
ほんの少し、彼女よりも深く冷たいことだけは分かった。
そしてリリアンヌは悟る。
この夜会で踊っているのは令嬢たちではなく、
“仮面”なのだと。
誰もが完璧に微笑み、
誰もが完璧に偽っている。
その中心で、
ただ一輪の白薔薇が、静かに凍っていた。
白薔薇の花束が、司会者の手から差し出された。
純白の絹で包まれた茎。
ひとつひとつの花弁は完璧な曲線を描き、
香りは氷のように清らかだった。
リリアンヌは微笑を浮かべたまま、両手でそれを受け取る。
会場の視線が一斉に集まり、
拍手が光の雨のように降り注ぐ。
――その瞬間。
手の中で、花がかすかに震えた。
いや、震えていたのは彼女自身の指だった。
(どうして……? こんなにも、重い……)
掌の奥で、ひとひらの花弁が、
音もなく離れた。
白い羽のように、ゆっくりと落ちていく。
ドレスの裾に触れ、
床の上で、かすかな汚れを残した。
たった一枚の、欠け。
その瞬間、世界が止まったように感じた。
音楽が遠のき、
人々の声が霧の向こうへ消える。
視界の端で、
白薔薇の花弁が――赤く見えた。
まるで、血のように。
(あれ……今のは……?)
息を呑む。
けれど、次の瞬間には、すべてが元に戻る。
照明も、音楽も、笑顔も。
世界は、完璧に整列していた。
リリアンヌは、小さく息を整え、
唇に笑みを戻す。
「……ごめんなさい。手が滑ってしまったの」
完璧な声色。
完璧な仕草。
周囲の令嬢たちが笑い、
紳士たちが「おや、可愛らしい失敗だ」と囁く。
――何も、変わらない。
夜会は再び流れ出し、
音楽が舞踏を呼び戻す。
ただひとり、リリアンヌだけが知っていた。
今、床に落ちたその白い花弁は、
二度と戻らないことを。
胸の奥で、
氷のような冷たさが静かに広がっていく。
(褒められるほどに、私は遠ざかっていく。
“完璧”の外に、何があるのかも知らないまま――)
白薔薇の香りは甘く、
しかしどこか、鉄の味がした。
夜会の終わり。
リリアンヌを乗せた馬車が、静かな石畳を走っていた。
遠ざかる宮殿の灯りが、窓の外でゆらめき、
まるで夢の残滓のように揺れている。
膝の上には、純白の花束。
まだほのかに香りを放っていた。
けれど、その香りは、どこか冷たかった。
指先で花びらをそっと撫でる。
柔らかいはずの感触が、まるで氷の表面のように硬い。
ひとひら、ひとひら。
完璧に並んだ白が、彼女の指先で息を潜めている。
(みんな、褒めてくれた。
“完璧だ”って、“理想の淑女だ”って。
でも……どうして、こんなに冷たいの?)
夜風が、窓の隙間から流れ込む。
それはまるで、彼女の胸の奥の空洞をなぞるように吹き抜けていった。
(褒められても、愛されても――
胸の奥は、なぜかずっと冷たいまま。)
花束を抱き寄せても、温もりは戻らない。
その中心で、一輪の白薔薇がわずかに色を失っていた。
淡い白が、灰へと溶けていくように。
外の空には、夜明けの光。
群青が薄れ、東の空に金が滲む。
馬車の中で、リリアンヌは静かに瞼を閉じた。
白薔薇の香りが薄れていく。
それは、冷たい掌の中で溶ける“完璧”の香りだった。




