73.また笑顔でお会いしましょう(1)
その晩は盛大な宴が催された。
第一城砦でもっとも大きな広間が開放され、騎士も兵士も使用人も、誰もが自由に飲み食いできる場が設けられた。
急に宴を開くと言われても厨房が困るのではないかとアリーセは心配したが、それは杞憂だった。
エトガルが言うにはイグナーツが生還したと知らされたとたん、料理長たちは自発的に準備に取りかかっていたという。逆に宴は延期と通達されていたら、不満の声があがっていたでしょう、とのことだった。
広間中が、いや城砦中が歓喜と祝福で満たされて、上座に席を用意されたアリーセは彼ら彼女らの笑顔を眺めているだけでお腹がいっぱいになりそうだった。
「なんだか、まだ夢を見ているみたいです」
「私も同じ気持ちですわ」
隣の席で酒杯を傾けるイグナーツに、アリーセも苦笑顔で同意する。
水竜を倒したことで本当に神の呪いが解けたのかどうかはわからない。
もしかしたら百年後にはまた王家に聖剣や王笏を宿した王子が産まれるかもしれない。
しかし、そんなことはアリーセだけでなく、第一城砦に暮らす誰もがどうでもいいと考えていた。
人柱となったはずのイグナーツが無事に生還した。それだけで、心から喜ぶ理由など事足りる。
そのイグナーツが酒杯を卓上へ降ろし、手のひらを上へ向けた右手を神妙そうに見下ろした。
「ずっとこの手の中にあった、聖剣の感覚も消えてしまいました。目を覚ましてからというもの、次から次へと信じられないことが起こるせいで些末なことになってしまいましたが」
くすりと穏やかな笑みを浮かべて、こちらへ優しげな眼差しを向けてくる。
彼には既に、レンの姿が見えるようになったいきさつを説明してある。
お腹に彼の子を宿したと知った瞬間、彼は驚きに両目を見開いた後、秀麗な顔をくしゃりと歪めた。
そして目に涙を溜めてアリーセを抱きしめ、何度もありがとうとつぶやいた。
『大切な子に宿っちゃって、ごめんよ』
レンが申し訳なさそうに謝ってきたのは、抱擁が解かれた後だった。
『何を謝る必要があるんだ。そのおかげで俺は助かったし、我が子の未来も守られた。おまえには感謝しかないよ』
イグナーツがわずかなためらいもなく、からりと言ってのけた。
彼がこういう人でよかった。
お腹の中でレンが泣きそうな気持ちをぐっとこらえているのが伝わってきて、アリーセも目元を潤ませて微笑んだ。
「ところで、さっきからレンがおとなしいですね。どうしたんだか」
「そういえば……」
アリーセは卓の下でこっそりとお腹を撫でてみる。
すると、んっ、といま気づいたような声が聞こえてきた。アリーセとイグナーツにしか聞こえない、幼児の声。
「……ごめん、ちょっと眠くなっちゃって」
「珍しいな。おまえはいつも……」
そこまで言いかけて、イグナーツは何かに気づいたように顔をしかめる。
「いや、いまは肉体があるのだから眠くもなるだろう。アリーセも大活躍だったようだし……」
「私はたいしたことはしておりませんわ」
「オルダナから泳いで《奈落》に沈む俺を引っ張り上げておいて、ですか?」
「実際にその距離を泳いだわけではありませんわ。水竜に呑み込まれて、ほとんど流されていただけで……」
「あなたは自分を過小評価しすぎている。呪いを解いたのはほぼあなただというのに」
イグナーツがしょうがない人だと言わんばかりに苦笑し、アリーセの背に腕を回してきた。
「今日はおつかれでしょう。部屋まで送ります」
アリーセは少し迷った。
思わず広間を見回すと、中央の卓上に靴のまま乗り上げたゲルトが、意外な美声を響かせて他の兵士たちから歓声を浴びていた。
もう少しここにいたい気持ちはあったが、胎内に宿ったレンが疲れているのなら、その母胎としてはしっかり休んで睡眠をとった方がいいのかもしれない。
「ええ、お願いしますわ」
アリーセたちが席を立つと、ミアが先回りをして扉を開けてくれた。
廊下で酔い潰れて寝こけている兵士を起こさないように歩き、寝室の扉の前で足を止める。
「ここまでで結構ですわ。殿下はどうぞお戻りください」
「……そうですね」
イグナーツが低い声で応じた。
素振りこそアリーセを気遣ってくれているが、こちらの声はあまり届いていないようだ。広間へ戻ろうという素振りすら見えずに立ち尽くしている。
「殿下?」
ややあって、イグナーツはきゅっと唇を引き結んでから、慎重そうに切り出してきた。
「……レン」
うかがうような呼びかけだ。視線がアリーセの腹のあたりに向けられる。
「あ、バレてた?」
とたんに、悪びれたような声が聞こえてきた。
「当たり前だ。つきあいこそ短いが、兄なんだぞ」
「あれぇ、前は『同じ日に生まれたのに兄とか弟とかあるか?』とか言ってたくせに」
「……なんの話ですの?」
アリーセにはイグナーツたちが何を話そうとしているのかがわからない。
ただ、夫がとても不機嫌そうで、レンがおどけてごまかそうとしていることだけはなんとなく伝わってきた。
「ごめんごめん。アリーセにはわかんないよね」
レンは軽い謝罪の後、続けた。
「そろそろ僕の魂が完全に新しい命と同化するみたいなんだ」
「それって……もう、お話できなくなるということですか?」
「そうだね。お別れの時間だ」
「黙って逝こうとするなんて……」
「兄弟そっくりでしょ」
「…………」
イグナーツが押し黙る。
彼がアリーセに黙って旅立とうとしたのは記憶に新しい。
「そういうところは似ないでいただきたかったですわ」
アリーセはむっとした顔を作った。
ようやく夫の不機嫌の理由がわかった。イグナーツはレンのわずかな言動から、彼が黙って消えようとしていることに気づいていたのだ。
アリーセを部屋に送り届けたがったのも最後の挨拶をしたかったからなのだろう。
「いい父親になってよ」
「もちろんだ」
「本当になってよ? アリーセは心配ないけど、君は本当にいろいろと心配なんだ」
「……なんでそんなに信用がないんだ」
渋面になるイグナーツを見て、アリーセは思わず笑ってしまった。
レンとのつき合いは一日と少し程度だ。それなのに、ずっと一緒にいたかのような錯覚がある。いや事実、姿が見えないだけでずっと見守ってくれていたのだ。
「さみしくなりますわ」
「大丈夫、またすぐに会えるよ」
レンは我が子として生まれ変わる。
彼の話によると、その頃には前世の記憶はなくなっているというが、はたしてそれは再会のうちに含まれるのだろうか。
「いい母親になりますわ」
「さっきも言ったけど、そっちの心配はしてないよ。君には、一つだけ」
まるで息を吸うかのような間をあけて、レンは言った。
「イグナーツを愛してくれてありがとう」
「……っ」
アリーセはこみ上げてくる感情を必死にこらえた。短いつき合いの自分がここで泣くのは場違いだ。
「……レン」
イグナーツがおそるおそるといった様子で、アリーセの腹に手を伸ばしてきた。
まだまったく膨らんでいないそこへ、刺激を与えないように慎重に触れる。
「いつも俺を助けてくれてありがとう。おまえが大切だった」
「……うん、僕も」
レンの声は嬉しそうであり、そして眠そうだった。
本当に終わりが近づいてきているのだろう。
アリーセは腹に添えられたイグナーツの手に自分のそれを重ねた。兄弟の別れに割って入りたくはないが、このくらいならば許されるだろう。
「二人とも愛しているよ。さようなら!」
レンは最後にひときわ強く声を張った。
そしてそれを最後に、彼が二度と語りかけてくることはなかった。
「……いい父親になります」
しばらくして、イグナーツが蒼い双眸を潤ませながら語った。
「ええ、期待しておりますわ」
「それと、いい王にも」
アリーセは思わず息を呑んだ。
王太子のオスヴァルトは死んだ。
父の手紙によると、宮廷では誰が王位を継ぐか揉めに揉めており、各公爵家の直系男子の他、王太子妃二人がオスヴァルトの子を妊娠していると主張し、これから生まれてくる我が子こそ王太子にふさわしいとのたまっているという。
もちろん妊娠は嘘か、不義の産物だろう。
だが、イグナーツが生還したとなれば、それらの状況は一気にひっくり返る。
国を救った英雄であり、なんといっても生粋の王子様だ。
彼が次のヒルヴィス国王となることに、意を唱えられる者はいないだろう。
「ふつつか者ですが、せいいっぱいお支えいたしますわ」
アリーセはイグナーツを見上げて微笑むと、彼のあたたかい手をぎゅっと握りしめた。




