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70.神の呪いは終わらせましょう(1)

 王都への旅支度を調えようとしたところで、マリアンが待ったをかけてきた。


「鎮竜の儀を行える場所はこの近くにもございます」

「そういえば、旧王都はこの近くでしたね」


 エトガルがすっかり忘れていたとばかりにつぶやく。

 現在の王都シュナイツェンは《奈落》が刻まれた後に遷都して築かれたものだ。

 それ以前の王都はゴルヴァーナにあり、マリアンによれば最初の鎮竜の儀は近隣を流れるガリウ大河の支流で行われたと記録されているという。

 その場所も知っているというので、マリアンの案内で現地へ向かうことになった。

 ゲルトがマリアンを捕まえてきてくれていなければ、何日もかけて王都まで移動していただろう。おかげでだいぶ時間を短縮できた。


 アリーセとミアにレン、ヘンドリックとマリアンという組み合わせで馬車に乗り込み、最小限の護衛の騎馬を引き連れて南へ移動する。

 今回もミアはお供しますと言ってきかなかった。


「いまの奥様はちょっと目を離すと何をなさるかわかりませんので!」


 と可愛い顔を膨らませて言われたら、苦笑して了承するしかなかった。

 二刻ほどでその場所、オルダナ教会跡の尖塔が見えてきた。

 もとはオルダナ村のあったところだが、現在は荒れ果てていて誰も住んでいないらしい。朽ちて崩れかけた家屋がいくつも放置されていて、曇り空も相まってなんとも寂しい空気が漂っている。

 その廃村を、マリアンの先導で進んでいく。

 オルダナ教会跡は村の西端にあった。敷地の一部が深い谷に面しており、断崖の手前に小さな祭壇のようなものが残っている。

 試しに谷をのぞき込んでみれば、ひゅうと薄ら寒い風が吹いてアリーセのドレスの裾を翻させた。それだけで足をすくわれそうな感覚をおぼえてぞっとする。


「奥様、お気をつけください。落ちたらひとたまりもないですよぅ」

「わかっているわ」

 ミアに注意されるまま安全な場所まで後じさると、彼女の方が怯えているとばかりに腕に抱きつかれた。彼女も怖いのだろう。


「ヘンドリック卿は儀式の手順をご存じなの?」

「そりゃあ司祭ですから。と言いますか、儀式なんてもんは形式さえ頭に入っていればいくらでも応用が利くようにできているんですよ」


 司祭にあるまじき適当さで言ってのけて、簡単に説明してくれた。

 ヘンドリックが言うには、鎮竜の儀のほとんどは無意味なものなのだそうだ。

 大仰で無駄に長いだけで中身がない。さも偉大な儀式をやっていますと、見物に集まった王都民に見せつけて威厳を示すためのものでしかなかった。

 大事なのは王笏を掲げた後だとヘンドリックは言う。

 王笏を掲げてしばし待つと、竜の声が聞こえてくるらしい。


「『汝、求めるは国か《奈落》か』と問われたら、国と答えてください」

「この問答にはどういう意味があるのかしら?」

 ヘンドリックよりも詳しそうなマリアンに訊ねる。


「竜は守るべきものは何かを問うているといわれております。国を選べば国から災いが遠ざかり、以降百年間は目立った災害が起らないと」


 マリアンの落ちくぼんだ眼差しは、まだ何か言いたそうな色をはらんでいた。

 だがそれ以上は何も言ってこない。彼自身、いまは推論を口に出すべきではないと考えているのかもしれない。

 わかったわと答えつつ、アリーセは虚空を漂うレンを見た。

 彼も厳しい顔つきでこちらを見下ろしている。

 たぶん、同じことを考えている。確信があった。


「では……覚悟が決まりましたら、祭壇の前へ」

「ええ。レン様、そろそろ……」


 やんわりと手招きすると、レンがこくりとうなずいて無言で降りてきた。

 まるで潜水するような動きですいっと接近し、そのままアリーセの腹の中へと吸い込まれていった。

 肌や体内にぶつかったり潜られたりしたような衝撃はまったく感じなかった。


「……レン様?」

「ここにいるよ。大丈夫、成功したから」

 声は以前と変わらず聞こえてくる。ただ姿が見えないだけだ。


「そっちはどう? 気持ち悪くなってない?」


 アリーセは念のために下腹部を優しく撫でてみた。何か変化らしい変化は起きていないし、痛みも不快感もない。


「私はなんともありませんわ。レン様こそ、私のお腹の居心地はいかが?」

「悪くないよ。でも、そう長くも話していられなさそう。新しい命に魂が引っ張られるのを感じるよ」

「……では、急いだ方がよさそうですわね」


 アリーセは顔を上げて、ヘンドリックとマリアンにうなずいてみせる。

 ヘンドリックが懐から丸めた羊皮紙を取り出して広げ、儀式用の祭詞を朗々と読み上げる。

 正式なものは手に入らなかったので、マリアンがかつて集めた口伝などの記憶をたよりに仮作成したものだ。

 彼が最後まで読み終える前に「レン様」と声をかけると、ややあって目の前に青い輝きが生まれた。

 先端に大ぶりの宝珠を頂く短い笏杖、王笏だ。

 青白い燐光を放つ不思議な物体をアリーセは手を伸ばして掴む。レンのおかげでアリーセにも触れることはできるようだ。

 緊張をおぼえながらそれを頭より高い場所へ掲げ持つと、レンの声が響いてきた。


「一緒に唱えるよ、アリーセ。水竜よ――」

「王笏の主が命じる。怒りを鎮め、ヒルヴィスに百年の安寧をもたらしたまえ!」


 アリーセもあとから追いかけるように誓句を叫んだ。

 それからの待ち時間は、十倍に感じられるほど長く感じられた。

 そうして吹きすさぶ風の音にまぎれてごうごうと水の音が響いてきた直後、突然目の前に強大な水柱が噴き上がった。


「妃殿下!」


 とっさにヘンドリックが腕を伸ばし、アリーセをかばおうとする。それを、アリーセは首を横に振って拒否した。儀式を中断するわけにはいかない。

 水柱はみるみるうちにかたちを変え、巨大な水竜の姿となっていった。

 爬虫類のような赤い両眼がこちらを無感情に見下ろしている。


「ひぇえ……」

 後ろの方からミアの声と、ついで地面に尻をつく物音がした。

 アリーセも当事者でなければ腰を抜かしていただろう。


(負けないわ)

 顎を上げ、視線で斬りつけるくらいの気持ちで水竜の赤い両眼を睨みつける。


「汝、求めるは国か《奈落》か」


 竜の声とおぼしき低い声音が、頭の中に直接響いてきた。

 守るべきものは何か。答えは決まっていた。

 心の中でレンにまた一緒にと呼びかけながら、大きく息を吸って答える。


「「《奈落》!」」


 声がそろった。やはり、彼の答えも同じだったようだ。

 アリーセは思わず笑みを浮かべながら、頭上から滝のように押し寄せる水流に身を任せた。

 激しい流れにもみくちゃにされながら、必死にドレスの留め具に手を伸ばす。

 ヴェルマー公爵領にいた頃から愛用していたドレスは、ルットマン伯爵からの贈り物だ。彼いわく、「人魚専用ドレス」。

 留め具を外すと、水中にいるとは思えないほどするりとドレスが脱げ、アリーセは下に着込んできた特製水着だけの格好になる。

 こちらはマヌエラから、つい先日贈られたばかりのものだ。


(あなたたちこそ私の命の恩人になりそうよ、マヌエラ、伯爵!)


 心の中で友に呼びかけながら、鼻と口を手で押さえて周囲を見回す。

 状況から考えて、おそらくここは水竜の腹の中だろう。竜に呑み込まれたのだ。

 だが思っていたほど流れは速くない。それどころか、少しずつ収まってきているように感じられるし、周囲が明るくなってきているような気さえする。


「アリーセ、明るい方を目指すんだ!」

(わかりましたわ)


 うながされて周囲を見回すと、足元の方が明るくなっている。流されているうちに上下感覚を失っていたようだ。

 アリーセはくるりと体の向きを変え、両手両足で水を掻いて明るい方を目指した。

 そうして「ぷはっ!」と水面から顔を出し、周囲を見回して驚いた。

 知らない場所だった。

 あたり一面に広がる青の景色に、アリーセは浮かんでいた。

 巨大な水源は、湖にしては広すぎる。

 空もだ。からりと晴れた空が青すぎて、ゴルヴァーナではあり得ない。

 さらに気になるのは、アリーセから少し離れたところにある白い砂浜だ。穏やかな水が押し寄せては引いていた。この波は湖のものではなかった。


「ここは……海?」

 絵本の挿絵でしか見たことがないが、たぶんそうだろう。


「幻覚だよ。竜が作り出した偽の空間だ。本当の君はまだ水の中にいる」

「そうでしょうね」


 本物の海は穢れていて黒ずんだ色をしており、しょっぱくて不味いと聞いている。

 この海水は無色透明でなんの味もしない。偽物だ。


「でも……あれだけは、本物」


 どれ? と思った矢先に、アリーセはその姿を捕らえた。

 波打ち際に仰向けに倒れている男がいる。

 銀髪が日差しを受けてきらきらと輝いているのを見つけたとたん、アリーセは腹の底から湧き上がる衝動のままに叫んでいた。


「殿下っ!!」


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