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66.別れの時が近づいているようです(3)

 空が白みはじめた頃、イグナーツは静かに身を起こした。

 寝台の隣で眠るアリーセを起こさないよう、慎重に床へ足を降ろす。


(一睡もできなかったな)


 魔物の群れと数日戦った後とは思えないほど、肉体は疲労感をおぼえていない。

 聖剣の力によるものだ。まだ眠ってはいけないと剣が訴えてきている。

 眠るべき場所はここではない、と。

 イグナーツはなるべく衣擦れの音を立てないようにして身支度を整えた。

 それから窓のカーテンを少しだけ開けて外をのぞき見る。

 ちょうど地平線に太陽が顔を持ち上げはじめたところだった。

 夜明けだ――時間になってしまった。

 猛烈な名残惜しさをおぼえて、再び寝台に近づいて妻を見下ろした。

 アリーセは深い眠りについている様子で、穏やかな寝顔から規則的な息づかいが聞こえている。

 シーツの上に広がる長いザクロ色の髪は、きっとこの世で一番美しい髪だと思う。

 彼女の髪が好きだ。翡翠色をした吊り目ぎみの瞳が好きだ。

 気丈そうな眉が、すっきりした鼻が、やわらかな唇が、歯が舌が肌が好きだ。

 彼女のすべてを心から愛している。


(もっと早く、素直になればよかった)


 そうしていれば、もっとたくさん愛し合えただろう。

 決して満足するほどではなくとも、幸せな時間をより多くともに過ごせただろう。

 一方で、素直になるべきではなかったという気持ちが残っているのも確かだ。

 愛し合わなければ、あまり苦しませずにすんだだろう。

 幼子にお菓子を与えて喜ばせた後、取り上げてみせるようなものだ。

 彼女が目を覚ましたとき、深い悲しみを与えてしまうことが心苦しくてならない。


(どちらかにするべきだった)


 最初から想いを伝えて愛し合うか、最後まで意志を貫いて想いをひた隠すか。

 中途半端な選択が一番タチが悪い。最後に交わした約束も含めて。

 一緒に行くことはできない、とはっきりと断るべきだった。

《奈落》を満たす冥水の中から核が現れてしまったから、最後のつとめを果たさなければならないから今日でお別れなのだと告げるべきだった。

 だが、口に出す勇気がどうしても絞り出せなかった。

 言えば、きっとアリーセは苦しむ。取り乱し、泣き出すかもしれない。

 もしそんな状態になったら、イグナーツは彼女を置いて出立することができなくなる。彼女が笑顔になるまでずっと抱きしめていたくなるに決まっている。

 だから言えなかった。守れない約束を口にして逃げた。


(すみません、アリーセ。俺も一緒に行きたかった)


 見たこともない村祭りの場にいる自分とアリーセの姿を想像しそうになって、かぶりを振って妄想を追い払う。余計にむなしくなるだけだ。

 音を立てないように扉を開けて廊下へ出る。


「イグナーツ……」


 薄闇の虚空にレンが沈痛な面持ちをして浮かんでいる。

 こちらに呼びかけはしたものの、なんと言っていいのかわからないらしく、しゅんと肩を落としている。まるで叱られるのを待つ子どもだ。


(おまえのせいじゃないだろうに)

 彼もまた自分と同じ、神の呪いによる犠牲者でしかない。


「大丈夫だ。覚悟はできていた」


 イグナーツは腕を伸ばしてレンの頭に軽くぽんと触れた。

 彼に触れられるのはイグナーツだけだ。だから今後、彼が誰かに触れられることはない。姿を見られることも、声を聴かれることも。

 誰にも認知されない世界に残される弟が気の毒でならなかった。

 弟が黙ってついてくるのを感じながら城砦の裏手に回ると、火を灯したランタンを手にした執事長が愛馬の手綱を掴んで待っていた。

 引き結ばれた唇がかすかに震えている。


「ありがとう。本当に、おまえはよく尽くしてくれた。感謝している」

「……滅相もございません」


 深々と頭を下げる執事長の肩を叩き、イグナーツは愛馬に跨がった。

 第一城砦から第二城砦まで走らせてから、まだ数刻しか経っていない。じゅうぶんな休息をとらせてやれたとは言いがたいが、もう少しだけ頑張ってもらう。

 夜の荒野を駆けて再び第一城砦へ戻ると、正面玄関前に明かりが灯っている。

 馬番と一緒にエトガルとヘンドリックの姿もあった。

 イグナーツは彼らの前で鞍上から降り、愛馬の鼻を撫でさすった。


「おまえも、いままでありがとうな」


 ぶるるるん、と愛馬が鼻を鳴らし、長い顔をすり寄せてきた。賢い馬だから、主の運命を薄々察しているのかもしれない。

 イグナーツは馬の鼻筋に額を押しつけて別れを惜しんでから、馬番に愛馬を託した。

 エトガルもヘンドリックも何も言ってこなかった。ただ目礼をして、追随してくる。

 イグナーツは彼らを従えて第一城砦内を突っ切り、奥の扉から外へ出た。

 そこからは《奈落》へ続く道と足場が組まれている。見慣れた光景に予定にないものが飛び込んできて、イグナーツはそこで目と足を止めた。

 道の左右に全騎士団員が整列して待ち構えていた。

 魔物の群れとの戦闘を終えたばかりだから、彼らにはしっかり休息を取るように命じたはずだ。

 まさかと思って振り返ったのと、エトガルが声を張りあげたのはほぼ同時だった。


「聖剣の殿下に敬礼!」


 一斉に、全騎士団員がヒルヴィス式の敬礼をとった。

 どうやらエトガルの指示で休息より見送りを選んだようだ。余計な真似を、とイグナーツは苦笑する。

「おまえたち、俺を泣かせようとしているのだとしたら、そうはいかないぞ」

 笑い声があがった。しかし本当に笑った者はおそらく一人もいなかっただろう。

 唇が震えている者もいれば、目元を潤ませている者までいる。


(まいったな)


 一人でこっそり旅立つつもりだったから、気の利いた言葉の一つも用意していない。もとより、格式張った挨拶は苦手なのだ。湿っぽいものならなおさらだ。

 しかたがないので、事実だけを伝えることにする。


「これより、最後のつとめを果たす。以後、全権は副官のエトガルに託す。解散式まで彼の指示に従うように。以上」

「……二十五点」


 ぼそりとエトガルがつぶやいた。

 最後の挨拶まで採点されるとは思わなかった。しかも相変わらず手厳しい。

 肩越しにじろりと睨むと、眼鏡の奥の眼差しが横へ逃げた。隣でヘンドリックが苦笑いを浮かべて肩をすくめてみせる。

 いつもどおりの二人の態度に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

 それはついてきていたレンも同じようで、彼は泣きそうな顔で笑っている。


(まったく。しかたがないな)

 イグナーツは少し悩んだ結果、にっと笑って一言付け足した。


「みんな、行ってくる。後は頼んだ」




 その日、イグナーツは《奈落》に身をゆだねた。

 それをアリーセが知ったのは、朝目覚めた後のことだった。

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