64.別れの時が近づいているようです(1)
ゴルヴァーナ城砦へ帰るなり、イグナーツは副官エトガルと司祭兼第一守備隊長のヘンドリックを呼び寄せ、状況確認と情報のすりあわせを行った。
アリーセの誘拐と取引について聞いても、エトガルは眉一つ動かさなかった。
実の姉が第二王妃ヘルガの侍女なので既に伝書鷹で伝えられていたのだろう。彼はオスヴァルトが王の子ではないことも知っている。
一方、知らなかったヘンドリックは露骨に頬を引きつらせた。
「……悪いが聞かなかったことにさせてくれ」
「安心しろ、いまさら口封じで消されることはない。不義の証拠はないし、肝心のオスヴァルトもおそらくこの世にいない」
「いやいや、まだマグダレーナ妃が残っているでしょう。不義が知られれば処刑は間違いないんですから、秘密を守るためならなんだってやりますよ。実際、既に刺客が一匹送り込まれてますし」
「なんだそれは」
初耳だ。
エトガルに目を向けると、彼は眼鏡の奥で目を細めた。
「数日前にファビアン・エルケンスが何者かに襲われました。彼は王笏や聖剣、神の呪いについて調べて、奥様に報告していたようです」
イグナーツは頭痛のようなものをおぼえて額を押さえる。
アリーセが受け取ったというファビアンの手紙は調査報告だったようだ。
その手紙を拾ったクラーラがオスヴァルトに殺されかけ、今度は送り主のファビアンも狙われたというわけか。
「無事なのか?」
「幸いヘンドリックが駆けつけたおかげで命に別状はありませんでしたが、危険なのでしばらく身を隠させることにしました。念のため、護衛にゲルトをつけています」
「いい判断だ。助かる」
「おや」
エトガルとヘンドリックが不思議そうに目を丸くする。
「意外ですね。あんなやつ死ねばいいんだ、くらいおっしゃるかと思いましたが」
「あんなに目の敵にしていたくせにねえ」
彼らはイグナーツの嫉妬心に気づき、アリーセのいないところでからかってくることがあった。
イグナーツにその自覚はなかったが、どうもファビアンへ向ける視線に嫌悪が現れすぎていたらしい。毒気のない返事に拍子抜けした様子だ。
「彼に個人的な恨みはないよ。もう」
「へええええ?」
ヘンドリックがにやりと嫌な笑みを浮かべる。
「それは、さぞかしいい新婚旅行だったんでしょうなあ?」
彼はイグナーツがファビアンに嫉妬心を抱かなくなるほど、アリーセとの仲が進展したと判断したらしい。
なぜか眼差しを下腹部に向けられて、イグナーツは思わず動揺してしまう。
「ば、馬鹿を言うな。俺たちはあくまで立太子式に参加するために……」
「そのわりにはバルトル公爵邸で長居をされていたようで」
エトガルまで参戦してきた。
こうなると分が悪い。うぐぐとイグナーツは閉口する。
公爵邸に数日滞在したのは決してアリーセとの関係を深めたかったからではない。実際に一線を越えたのは王宮での最後の夜だ。
ただ、本当の理由を打ち明けたくはなかった。
口に出してしまえば、弱い心を自覚してしまえば、きっと臆病風に撒かれてしまう。
「……そんなことより、冥水の水位が上がったそうだな。直接この目で確かめたい」
イグナーツは露骨に話題を逸らした。
ヘンドリックはまだにやにやと笑って話を長引かせたがっていたが、エトガルはイグナーツが白旗を揚げたと判断したらしく、イグナーツの言葉に応じた。
「それは明日以降にいたしましょう。既に観測班が記録済みですし、殿下みずから急いで確認なさるようなことではありません」
「しかし手紙では……」
「鷹でお知らせしたのは、何かあればすぐに報告せよと厳命されていたからです。帰城を急かしたかったわけではありません。長旅でお疲れでしょうし、ご無理はなさいませんように」
「そうそう。今日は奥方とゆっくり休んで、また明日からお願いしますよ。いつどうなるかわかったもんじゃないんですから」
ヘンドリックの余計な一言で、場の空気が重くなる。
エトガルがヘンドリックを睨んでその脇腹を肘で小突いたとき、ゴォーンと《奈落》からの冥響がもの悲しく轟き渡った。
***
帰還翌日からイグナーツは第一城砦へ行ったきり戻ってこなくなった。
そのまま魔湧き現象が起きたらしく、騎士団は討伐作戦行動に入ったらしい。
「やっぱり、近くで魔物が発生していると思うと落ち着きませんね」
ミアの言葉に、アリーセは「そうね……」と応じてティーカップの端に口をつけた。
城砦の女主人としての書き物仕事を終え、休憩代わりのティータイム中だ。
こんなときに部屋へ人を招くのも気が引けて、今日は侍女だけが相手をしてくれている。
「今日は『怖がりすぎよ』とかおっしゃらないんですね」
「ここのみんなとは顔なじみになってしまったし、仲良くなった人もたくさんいるから。いまも誰かが第一城砦で怪我をしているかもしれないと思ったら、怖くもなるわ」
「そうですね。ミアも完全に同感です」
肩をすぼめて侍女はちびちびと紅茶をすする。
(殿下は……大丈夫よね。お強い方だもの)
それに聖剣には主の怪我を癒やす力があると聞いている。
即死しない限りは死に至らないはず、と考えたところで、まだ夏だというのに思わず薄ら寒さをおぼえた。
そんなこと、想像するだけでおそろしい。
ふと、廊下がにわかに騒がしくなってきたように感じた。
「何かあったのかしら」
「確認してまいりますね」
すぐさま立ち上がろうとした侍女を手で制止する。
「待って。私も行くわ」
アリーセはミアを伴って廊下に出た。
エントランスに向かう途中、せわしなく歩いていたメイドに声を掛けて訊ねると、すぐに返事が返ってきた。
「ああ奥様。怪我人の移送に人手が取られているようでして……」
アリーセは眉をひそめた。
エルケンス辺境伯が人員を送ってくれたため人手不足は解消されたはずだ。なのにこういう問題が起きるということは。
(魔湧き現象の規模が大きくなったということ?)
魔湧き現象については過去数百年分の記録がある。
どの程度の規模で、どの程度の人員が必要か予測されているはずだ。
つまり、現在予測が外れるほどの事態が起きていると考えられる。
(なぜ急にそんなことに? って、決まっているわよね……)
オスヴァルトが鎮竜の儀で失敗したせいだ。
竜は代償として王太子の命を奪ったが、それだけでは足りなかったのかもしれない。
(ガリウ大河と《奈落》は繋がっているということ? まさかイグナーツ殿下や、城砦の人々まで奪うつもり?)
イグナーツがいずれ《奈落》に身を捧げることは確定している。
だが、それは十カ月は先になるはずだった。そう彼の口から直接聞かされている。
まさか、それが早まろうとしているのか。
おのれの想像に、ぞくりと二度目の悪寒が走る。
(そんなの嫌……!)
まだ一緒にいられると思ったのに。
やっと愛し合える仲になれたばかりだというのに。
「――奥様?」
不安げな声にはっとすると、メイドが困った顔をしている。
自分は城砦の女主人だ。使用人たちを不安にさせるわけにはいかない。
アリーセは必死に平静を装い、毅然と言い放った。
「私も手伝うわ。ミア、支度を」
「かしこまりました」
大急ぎでお仕着せに着替えて髪をまとめ、療養所へ向かう。
療養所はアリーセたちがはじめて訪れたときのように混雑していた。
鋭く指示を出す医務官の声、返事をして動き回る助手たちの足音、運び込まれた負傷兵のうめき声。
さらに医療器具やワゴンが立てる音などで騒然としており、ちょっと声を出したところで誰の耳にも届かないだろう。
いったい誰に声をかければよいのかわからず、少しでも余裕がありそうな医務官がいないか見回しているときだった。
療養所には場違いな、奇妙な人物の姿が目に入った。
金髪の男児だ。
見たところ三歳くらいだろうか。寝間着のような白っぽい格好をしているが、問題は服装ではない。
背中に白鳥のごとき白い翼を生やして宙に浮いているのだ。
(――え?)
アリーセは思わず目をしばたたいて、手の甲で目元をこすった。
しかしそれでも、金髪の男児の姿は消えなかった。
翼をはばたかせているわけでもないのにどうやって浮いているのだろう。いや、そもそもなぜ誰も彼に気を止めていないのだろうか。
その男児は、担架で運び込まれたばかりの負傷兵に何やら声をかけている。
「いい? イグナーツより先に死んじゃだめだからね! って、どうせ聞こえないだろうけど」
負傷兵には男児が見えていないのか、あるいは深手を負ってそれどころではないのか、うめくだけで返事らしい反応はない。
それでも男児は言うだけ言って満足したのか、「じゃ!」と踵を返すように空中でターンして廊下側の壁に向かっていった。
このままではぶつかると思ったが、その奇妙で小柄な体はすうっと溶けるように壁へ吸い込まれて見えなくなった。
「どうかなさいましたか、奥様?」
ミアが怪訝そうに訊ねてきた。彼女には見えなかったようだ。
「……ええと。なんでもないわ」
なんと言っていいのかわからず、アリーセは曖昧に濁した。
気のせいで見えるような幻覚ではなかった。声まではっきり聞こえていたのだ。
(例の、幻覚を見せる魔物かしら)
幻覚作用のある魔物の吐息を浴びた負傷兵がこの中にいて、彼の体にしみついたそれを少し吸ってしまったのかもしれない。
だとしたら早めに医務官の誰かに相談しなければ。
などと考えていると、その医務官の声が耳朶を打った。
「アリーセ! ミア! こっちこっち!」
見ると、行き交う人々の向こう側でハイネが背伸びをして手招きしている。
奇妙な幻覚に惑わされている場合ではない。
「いま行くわ!」
アリーセは大きな声で返事をすると、簡易寝台や医療器具を載せたワゴンなどを避けながらハイネの方へ向かっていった。




