62.大事なことほど遅れるものです(1)
「鎮竜の儀に竜が?」
バルトル公爵邸の中庭に仮設されたテラスで、アリーセはアイスミルクティーの注がれたグラスをテーブルに置きながら聞き返した。
イグナーツとともに王都を脱出してから早四日。
往路と同じくマヌエラ・バルトル公爵夫人の暮らす屋敷に立ち寄り、身重の親友にティータイムに誘われたときのことだ。
「やっぱり知らなかったわね」
アイスティーを飲みながら、マヌエラが優雅に笑う。
妊婦なので、彼女のミルクティーはアリーセのそれよりもミルクが多めに作られている。侍医から紅茶は一日二杯までと言われているらしい。
「薄めに淹れれば四杯までは飲めてよ!」などと冗談めかして語っていたが、おかわりを断っていたところを見ると紅茶一杯以内に収まるように飲んでいるようだ。
よくよく思い出して見れば、往路で立ち寄ったときに飲んでいたアイスレモンティーも彼女の飲んでいたものはアリーセよりも色が薄めだった気がする。
「聖堂広場に集まった民衆の目の前で、竜が現れて大騒ぎになったのですって。王太子殿下は驚いて腰を打ってしまったとかで寝込んでいるそうよ。いい気味だわ」
「もう、口が過ぎるわよ」
アリーセは立場上たしなめるが、本心としては彼女と同意見だ。
あの第一王子はやりたい放題だった。たまには手痛い目に遭った方がいい。
「その話だが、どうやら噂と異なるようだ」
そう言いながら現れたのはバルトル公爵だ。
従者の差し出したタオルで汗を拭いながら近づいてくる。
さきほどまでイグナーツと剣の稽古をしていた彼は喉が渇いていたらしく、マヌエラのグラスをかっさらって一気にあおった。
「……甘いな」
「わたくしのお茶を奪っておいて、文句をおっしゃるなんて」
マヌエラがぷうっと頬を膨らませる。
バルトル公爵は苦笑すると、愛する妻の肩を抱き寄せて目元に口づける。
「新しいのを淹れてもらってくれ」
「それでは飲み過ぎになってしまいますわ」
「なら、私が半分いただこう」
そう言って給仕のメイドにおかわりの指示を出したとき、イグナーツが遅れてやってきた。
彼の方もそれなりに汗をかいたようだが、肌を紅潮させているバルトル公爵と違って涼しい顔をしている。それだけで剣の稽古がどのようなものであったか想像できるというものだ。
「俺にも用意してもらえると助かる」
「承知いたしました」
そんな会話をしてメイドが今度こそ去っていき、イグナーツはアリーセの隣の席に勝手に座った。
ほんのりと汗のにおいがしたが、彼の匂いは嫌いではない。
「お先に一口いかがですか?」
「いただきます」
イグナーツは嬉しそうにグラスをあおった。
彼の「一口」は人より多いので一気に水量が半分以下になったが、食いしん坊なところも彼の可愛いところだとアリーセは本気で思っている。
「それで、噂と違うというのは?」
グラスを置いてから、話の流れを引き戻す。
バルトル公爵の声は低くてよく響くので、イグナーツにも聞こえていたようだ。
ボイコットしたとはいえ、もともとは参加予定だった立太子式、および鎮竜の儀がどうなったのか気になるのだろう。
バルトル公爵は口ひげに付着した白いものをハンカチで拭ってから口を開いた。
「オスヴァルト殿下は竜に呑み込まれて行方不明だそうだ」
「なんてこと……」
アリーセは思わず口元を押さえた。
隣を見ればイグナーツは目を見開き、マヌエラに至っては淑女らしからぬ表情であんぐりと口を開いている。
「確かな情報なのか?」
「ええ。殿下の安否については情報が入りしだい伝書鷹で知らせるよう頼んであるのだが……」
バルトル公爵はそこで言葉を濁した。
少しは手痛い目に遭えばいいとは思ったが、死んでほしいわけではない。
アリーセはばつの悪さをおぼえてグラスに口をつける。砂糖をたっぷり入れたミルクティーが急に渋味を増したように感じられた。
「鎮竜の儀は無事に行われたのですよね? 王笏は竜を鎮めることに成功したのですか?」
「ガリウ大河の各流域で発生していた水害は嘘のように収まったそうです」
ということは、かりそめの王笏でも竜を鎮めることはできたようだ。
オスヴァルトについては思うところはあるものの、フロレンツィアの遺体が失われ、多くの怪我人も出したのだ。効果があってくれなければ困る。
「王位は誰が継ぎますの?」
マヌエラがミルクティーで喉を潤しながら率直すぎる質問を口にした。
わずかな沈黙ののち、全員の視線が自然とイグナーツに向けられる。
彼はぎょっとした様子で全員を見回した後、なぜかアリーセを見てかぶりを振った。
「俺は無理ですよ。《奈落》の相手だけで手一杯です」
バルトル夫妻の手前、余命があと一年もないことには触れずに否定する。
「ですが、殿下がもっとも王位にふさわしい御方であるのは事実ですわ」
「アリーセ……」
「実際、イグナーツ殿下が王位を継承なさるよう動きはじめた者たちもいるようです」
バルトル公爵の言葉に、イグナーツが心底困った顔になる。
「……厄介な」
「それってうちの父ではありませんか?」
「よくわかりましたな。そのとおりです。ルットマン伯爵も賛同しているようですが」
「伯爵まで……」
アリーセは頭痛に似た重みをおぼえて額を押さえた。
クラーラがオスヴァルトに池へ突き落とされたことを知ったときから、父が何か嫌な行動をとるのではないかと危惧していた。こんなに早く現実になってしまうとは。
(殿下が一瞬でも王位につければ、実の娘である私は王妃になるわけだものね……)
アリーセがイグナーツの子を宿せれば、孫が次の王だ。
野心家の彼が動かないわけがない。
(問題は、殿下に私を懐妊させる気がないことかしら)
アリーセは既に数度イグナーツと愛し合っているが、彼は毎度必ず避妊している。
もちろん避妊は完璧ではない。ただ、妊娠の可能性はだいぶ低いだろう。
「……困りましたね」
「父が申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありませんよ。兄上がそうなった以上、第二王子の義父が動かないわけがありませんから」
イグナーツがため息をついたとき、人数ぶんの新しいミルクティーが運ばれてきた。
夏場にこれだけ自由に冷たい牛乳をふんだんに使った紅茶を飲めるのは、バルトル公爵家の財力あってのものだろう。
「あなたはどうなさるの?」
全員がグラスに口をつけた後にマヌエラが夫へ率直な目を向ける。
「イグナーツ殿下は王位継承に乗り気ではないようですわ。こう言ってはなんですけれども、あなたにも継承権はあるでしょう?」
王家の血を引く公爵家の男性には王位継承権がある。
ヒルヴィスに現存する公爵家は十二家。そのすべてが王家の血を引くせいで男児が生まれにくい。
公爵家直系の男子という意味ではバルトル公爵はその数少ない男子の一人だ。
アリーセの父もヴェルマー公爵家の直系男子だが、彼は老齢のため娘の夫を王位につける方を選んだようだ。
バルトル公爵は思慮深げにミルクティーをもう一口飲むと、グラスを置いた。
「……私も、イグナーツ殿下を推したいという返事を書くつもりです」
アリーセはぎょっとした。
「返事って……もしかして父と手紙のやりとりをなさっていたのですか?」
「以前からではありません。鎮竜の儀の件で提案を持ちかけられていました」
父の根回しの早さにはあきれる。
「なるほど。それでさきほどは剣筋に迷いがあったわけか」
「いいえ殿下、そこは単純な実力差によるものですわ」
即座に妻に否定され、公爵が渋面になる。
「マヌエラ、あまり夫をいじめないでくれ……」
マヌエラがカラカラと笑うものだから、アリーセもつられて笑ってしまった。
笑いながら様子をうかがうと、夫も困ったように笑っている。
(マヌエラのおかげで助かったわ)
イグナーツとバルトル公爵との間に亀裂が生じかねない流れだった。
場を和ませてくれた親友に感謝だ。
「アリーセはどうなの? 殿下に王位を継いでほしいのではなくて?」
笑いが落ち着いた頃、マヌエラがいたずらっぽい笑みを向けてくる。
アリーセの答えは決まっている。
「……それについては先に言っておきたいのだけれど、オスヴァルト殿下が亡くなったと決まったわけではないわ」
「もう、お堅いわね。そういう話ではなくてよ」
マヌエラが不満顔になる。
ゴシップ好きな彼女としては、数百年ぶりの王位継承争いに花を咲かせたいのだろうが、アリーセは当事者に近すぎてとても楽しめない。
「確かに、最も王位にふさわしいのはイグナーツ殿下よ。でも私は、殿下の意志を尊重したいの。王位を継ぎたくないのでしたら、継がなくていいと思うわ」
隣のイグナーツの呼吸を意識しながら答える。
彼が王位を継いだところで幸せになれるとは思えない。
アリーセとしては彼が残された時間を悔いなく、穏やかに暮らしてくれればそれが最良だと思っている。
むう、とマヌエラが口をとがらせる。
「つまらない返事」
「殿下の幸せが一番だもの。《奈落》との往復生活を送るには、王都はちょっと遠すぎるわ」
「確かに。そうなったら愛する妻といちゃいちゃする時間が全然取れなくなってしまうものね!」
ちょうどグラスに口をつけていたイグナーツがごふっとむせた。
立太子式および鎮竜の儀に参加しなかったため、アリーセたちは復路では公爵邸に数日宿泊する予定だ。
既に二泊しているので、夫婦仲が改善したことはばれている。
幸いにして公爵家の使用人たちは素知らぬ顔で対応してくれるが、侍女のミアなどは毎朝満面の笑みで世話してくれるので、いたたまれないといったらない。
(殿下が悪いんですからね!)
アリーセは内心で毒づきながら、ハンカチを取り出してイグナーツの口元に押し当てた。頬が熱く感じられるのは、きっと暑さのせいだ。




