57.関係を変えるときが来たようです(1)
「――以上が、あのとき起きたことのすべてです」
語りおえると、イグナーツは長い息を吐き出した。
腹の中に五年ぶん溜まっていた何かをしぼり出すかのような吐息だった。
アリーセはなんと言ったらいいのかわからず、どこかすっきりした様子の夫を黙って見つめることしかできなかった。
どうしてこの人ばかり、大変なものを背負わされるのだろう。
ただでさえ聖剣という過酷な運命を押しつけられているのに、あんまりではないか。
(抱きしめて差し上げたい)
そんな感情が胸の内に広がる。
かつてアリーセがイグナーツに抱きしめられて安堵できたように、彼の気持ちをやわらげてあげられたらどれだけいいだろう。
だが同じことをしたところで、自分に対して愛情のない彼にも同じ効果があるとは思えない。最悪、アリーセの自己満足で終わる。
憎んでいないと言われた後でも、前向きな気持ちにはなれなかった。
「幻滅しましたか?」
「……いいえ」
アリーセは首を横に振る。幻滅などするわけがない。
「むしろ、あなたの抱えていた苦しみに気づかなかった自分自身に腹が立ちますわ」
イグナーツは無言で笑った。
なんとなく、あなたらしいと言われた気がした。
「あのとき俺が国を守るために自死を選んでいたら、母や祖父を守れなくなるところでした。重圧に押しつぶされて浅慮になっていたんです。それを、あなたが救ってくれた……だから、あなたを憎む感情なんて生まれるわけがないんですよ。わかりましたか?」
アリーセはこくんとうなずく。
憎まれていないことにはほっとした。だが一方で、話を聞いた後でも変わらないこともある。
「事情は承知いたしましたわ。承知の上で……もう一度お願いいたします。どうか新しい妃を娶ってください」
「なぜです? さきほども話したでしょう。どのみちこの国は滅びます。俺が子を残そうと関係なく。幼くして亡くなるとわかっていながら、子を作る気はありません」
「そういう意味ではありませんわ」
アリーセは語気を強めた。
「王家の跡継ぎがどうとかは関係ないのです……お話をうかがって、なおさら殿下には幸せになっていただきたいと思いました。以前は私が幸せにするのだと申しましたが……いまはもう、そんな自信はありません」
以前の自分は、たとえ愛されなくても努力をすれば夫を幸せにできるはずだと前向きに考えていた。いや、考えようと虚勢を張っていたのだ。
しかし、イグナーツに憎まれているから愛されないのだと思い込んだとき、アリーセは心の中に築き上げた城が崩れおちるのを感じた。
虚勢の城だ。
そう気づいた時点で、自分を欺くことはできなくなってしまった。
「ですが、私には不可能でも、他の人なら可能かもしれません。殿下を幸せにできる女性が他にいらっしゃるのなら、その方に託したいと思うのです。身を引きたいわけではなく、私なりの愛情表現として。ですからどうか、心から愛せる人を妃に――」
発言の途中で手が伸びてきて髪に触れられる。
無自覚にうつむいていたことに気づいて顔を上げたときには、イグナーツの端正な顔が間近まで迫っていた。
吐息が触れ、唇が塞がれる。
急な口づけにアリーセは混乱し、翻弄される。
互いのやわらかさを楽しむような触れ合いは短く、すぐに吐息を奪うような密着に変わった。唇よりもさらにやわらかいものが、アリーセのやわらかいものを絡め取る。かと思えば唇は気まぐれに離れ、また塞がれる。
泳ぎなら得意なのに、まるで息継ぎのタイミングがわからない。
息苦しさに耐えられずたくましい胸を押してみるが、体から力が抜けているせいでびくともしない。弱々しくシャツの胸に爪を立てるのがせいぜいだ。
「んぅっ、でん……」
「まだ」
短い言葉で却下される。
情熱的というよりどちらかというと執拗な口づけはしばし続き、ようやく解放されたときにはアリーセは酸欠のせいか頭がくらくらして思考が回らなかった。
鼓動も速まりすぎて、耳の奥までどくどくする。
(どうしていま、キスを?)
口づけが好きな人だとは知ってはいたが、なぜこのタイミングなのか。
そもそもアリーセがキス魔でしょうと指摘したその日から、イグナーツとは口づけを交わしていない。
そのイグナーツは濡れた唇をそのままに、アリーセを見つめていた。
「愛せる人なら、もう妃にしています。これ以上は必要ありません」
「――はっ、え?」
呼吸と鼓動を整えるのに必死で、聞き間違いでもしたかと思った。
イグナーツは眉根を寄せ、きまずそうな表情を作って微笑み、アリーセの手をそっと大切なものを扱うように持ち上げる。
「あなたを愛しています、アリーセ。心から」
そう言って手の甲に口づけつつ、蒼の眼差しで射貫いてくる。
頭が働かないのは酸欠のせいなのか、彼の言葉があまりにも突拍子がないからなのか。それすら判断がつかない。理解が追いつかない。
「……嘘」
「嘘ではありません」
「嘘です! だって、あなたを愛することはないって……」
「あっちが嘘です」
「っ……!」
絶句する。
「と言いますか、俺自身に嘘をついていたというか」
そんなアリーセを見下ろして、イグナーツは銀髪をがしがしと掻いた。
「当時の俺は少々潔癖で、婚約者のいる人に恋するのはいけないことだと思っていたので。あなたに恋心を抱かないように、そんな気持ちを抱く前に封殺していたんです。そのことに最近、気づかされました。あなたへの気持ちを抑えられなくて、ずいぶん苦労しました」
イグナーツは気まずそうな表情で言い訳をする。それでも眼差しだけはまっすぐにアリーセを見つめていた。
「もう一度言います。あなたを愛しているんだ」
アリーセは言葉にならず、ただすっと息を吸い込んだ。
腹の底から思わず踊り出したくなるような喜びを感じる。それとともに、わなわなと怒りに似た衝動がこみ上げてくるのも。
手を振り払い、今度こそ胸板を激しく叩いてやると、イグナーツがうっとうめいた。
「信じられない!」
「本当です。信じてください」
「そういう意味ではありませんわ!」
信じられない、ともう一度つぶやいてから、アリーセは立ち上がった。
「初夜の翌朝に告白をした新妻に対して、そんな嘘をつくなんて! 人としてありえませんわ! もう失礼させていただきます――」
憤然と退室するつもりだったが、不意に後から腕を掴まれた。そのまま強く引かれてバランスを崩し、ぺたんと長椅子に戻されてしまう。
しかも、尻をついた先は長椅子の座面ではなく、よりにもよってイグナーツの膝の上だった。羞恥で顔を赤らめている場合ではない。
「し、失礼しま……」
急いで立ち上がろうとしたが、腰を抱き寄せられて阻止された。
「は、離してください!」
「ダメです」
イグナーツはそう言って、アリーセを抱き上げながら立ち上がる。
ぐらりと体の均衡が乱れ、たまらずイグナーツの首にしがみついた。
あくまで不可抗力、落ちたくないからそうしただけなのだが、合意とみなされたかもしれない。そのうちにどこかへ運ばれ、丁重に横たえさせられる。
そこが天蓋付きの寝台だと気づいたときには、イグナーツが覆い被さっていた。
蒼の眼差しがどこか意地悪な輝きをはらんでいる。
「何を、なさるんですか……」
強く非難したかったのに、予感めいたもののせいで弱気な声になった。
アリーセが察していることに気づいたイグナーツがにっこりと微笑んだ。無邪気なように見えて邪悪な微笑みだ。
「信じていただけないようですので、自力で証明してみせようかと」
「何を……」
「幸い、朝まで時間はたっぷりありますし」
「ですから、何を!」
イグナーツは薄く笑うだけで答えない。
あなたもわかっているでしょう? と視線が愉快げに語っている。
アリーセは反射的に跳ね起きようとしたが、大きな手が手首を押さえてつけられて阻止された。
彼は本気だ。アリーセの喉からかすれた息が漏れる。
「じゅ、準備がまだですわ!」
「寝る支度を整えてからいらっしゃったようですが」
寝るというのはそちらの意味ではない。
「女性にはいろいろあるんです! お、お手入れとか!」
「必要ありません」
こめかみのあたりに唇が寄せられる。
すうっと息を吸い込む音と気配に、悪い意味ではなくぞくぞくした。
「いい匂いだ。これで手入れをしていないと?」
「さ、最低限ですっ」
「なんだ、してるじゃないですか」
くすっと漏れた吐息が外耳に触れる。こそばゆさに少し肩が震えてしまった。
怖がっていると思われたのか、イグナーツの動きが止まる。
「……少々、悪ふざけがすぎましたか」
しおらしい声だが、これまでの行いを見るとどこまで信じていいのかわからない。
おそるおそる顔をうかがうと、憂いを帯びた眼差しに射貫かれた。
「後悔、していますか?」
何を、と言おうとしてアリーセは言葉を呑み込む。
さきほどから「何を」ばかり言っていることに気づいたからだ。
「俺を救ったこと、後悔していませんか。俺を死なせなかったせいでこの国が滅ぶと知って、傷つきましたか?」
「いいえ」
相変わらず即答できる自分自身に苦笑する。
これだけのことをされてもまだ、自分は彼が好きらしい。
正直、腹が立った。嘘をつかれていたことも、さきほどからの悪ふざけにも。
しかし真実を知ったところで、百年の恋も冷めるというようなことはなかった。
(意地悪なところがある方だとは知っていましたもの。それが彼の一部分だと思い込んでいたのが、本性だったというだけで)
そしてそれは彼の優しさをまったく否定していない。
意地悪をしながらもこんなにアリーセを気遣ってくれている。
アリーセはそっとイグナーツの顔に手を伸ばした。
頬に触れると、ぴくりと震えが伝わってきた。戸惑うような、不安そうな眼差しをしっかりと両目で受け止める。
「あのとき、あなたを見つけられて……本当によかったと思いますわ」
もしかしたらあと一、二年でヒルヴィス王国は滅びるかもしれない。
それは自分とこの人のせいかもしれない。
でもそれがなんだというのだろう。恋した人に愛していると言われ、いまこうして見つめ合っている瞬間の方が世界中の何よりも価値がある。
(私はわがままな人間ですもの)
アリーセは引き締まった頬のわずかな肉を摘まんで、にこりと笑いかける。
頬を摘ままれているせいで変な顔になったイグナーツが、それでも安堵したように目元を緩めた。
「……俺も。あなたに出会えてよかった」
もう一度唇が落ちてくるのを察し、アリーセは目を閉じて受け入れた。
いたわるような、気遣いを感じる口づけは次第に熱を帯び、執拗になっていく。もはや鼓動は速まりすぎて爆発しそうだ。それでもこの時間が永遠に終わらないでほしいとアリーセは願った。
口づけの間、アリーセの頭や肩を慈しむように撫でていた手がゆっくりと腰から太股へと降りていく。そしてふとした瞬間、するりと着衣の中に潜り込んできた。
思わずぴくりと反応すると、動きが止まる。
「嫌ならやめます」
彼が唇を離してささやく。うかがうような眼差しだが、さきほどまでのような不安の色は見当たらない。
なんて優しくて残酷な人だろう。こちらは鼓動が早まりすぎて苦しいほどだというのに。
「……本当に、意地悪な人」
ぽつりと、恨みがましくつぶやいてやった。
するとイグナーツはそれを了承と受け取ったらしい。くすりと吐息を漏らした唇はアリーセの首元へと降りていき、硬い手の感触は下着の中へとすべっていった。




