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47.王子様は覚悟を決めました(1)

(遅いな……)


《蒼の宮》の部屋から窓の外を眺めながら、イグナーツは嫌な予感をおぼえていた。

 既に太陽は赤みを増して、西の空へ沈もうとしている。

 だというのに、午前中に出かけたはずのアリーセが帰ってこない。侍女もだ。


(ルットマンと話が盛り上がっているのか?)


 若き伯爵の話し上手ぶりは宮廷でも有名だ。

 アリーセも彼の社交上手ぶりを嬉しそうに語っていた。

 彼女にとっては自慢の友人の一人のようだが、二人が楽しげに踊る様子を網膜に焼き付けられた身としてはまったく喜ばしくはない。むしろいまいましいくらいだ。


(……いや、落ち着け。レンがついているんだ。おかしな遊びをはじめそうならば飛んで帰ってきて知らせてくれるはず……)


 そこまで考えて、自分の無力さを思い知らされる。

 アリーセが異性の友人宅へ出かけているというのに、自分は謹慎処分を食らって宮殿から出られない。

 おまけに妻の身の安全を知る手段は、自称精霊に頼るしかないときたものだ。

 情けない。

 扉がノックされたのは、窓の前を無意味に行ったり来たりしているときだった。

 アリーセたちが帰ってきたのかと期待してみれば、扉越しに響いたのは執事の声だった。


「殿下、お手紙をお預かりしてまいりました」


 イグナーツは落胆のため息をつきつつ扉を開け、執事から手紙を渡される。

 受け取って宛名を確認した後、裏返して首を傾げる。

 差出人の名前がない。封蝋にも家を示す紋章の刻印がなかった。

 円筒に入れた痕や受領の印などはないから、伝書鷹や大商会が流通網を使って行っている郵便事業によって届けられたものではなさそうだ。


「差出人の名がないが、誰から受け取った?」

「衛兵がメイドから手渡されたそうです」

「メイドの名は?」

「わかりません。衛兵が言うには、《蒼の宮》や正殿の使用人ではなさそうでして」


 王宮にはメイドだけでも千人以上がつとめている。

 名前どころか、全員の顔をおぼえるのだって難しいだろう。

 執事が帰った後、イグナーツは封蝋を剥がして封筒を開いた。

 便箋を取り出したとき、隙間から糸くずのようなものがはらりとこぼれ落ちた。

 絨毯の上へ落ちたそれを屈んでつまみ上げ、はっとする。

 それは赤い髪だった。

 中途で切り落とされた深紅の髪が数十本、束にまとめられている。


(これはアリーセの……!?)


 彼女の髪を見間違えるはずがない。

 たとえゴルヴァーナ城砦で再会することがなかったとしても、五年前の記憶だけで彼女のものとそうでないものを見分ける自信があった。

 慌てて便箋の文面に目を落とす。


『妃を預かっている。無事に返してほしくば、フロレンツィアの右腕を持って指定の場所へ一人で来い』


 思わず手に力がこもり、便箋にぐしゃりと皺が寄る。

(アリーセがさらわれた? どういうことだ!)


 ルットマン伯爵邸に行く前にさらわれたのなら、伯爵から連絡が届くだろう。ということは伯爵と合流後か、あるいは王宮へ帰る途中で襲われたのか。


(いや、襲われた状況などいまはどうでもいい。彼女は無事なのか? くそ、俺が同行できていればこんなことには……)


 苛立ちを抑えられず髪を掻き回す。

 そこへ、壁を通り抜けて翼を生やした幼児が飛び込んできた。


「イグナーツ!」

「遅い! アリーセに何があった!」


 レンはイグナーツが既に事態の一部を知っていたことに面食らった様子だったが、申し訳なさそうにおずおずと切り出してきた。


「ごめんよ。できるだけ状況を把握してから帰った方がいいと思って」

「いいから話せ。全部だ」


 うん、と消沈した様子でうなずき、レンが語り出す。

 彼によると、アリーセはオスヴァルトが怪しげな魔女のもとへ通っているという噂を聞き、真相を確かめるためにその魔女の元へ出かけたという。

 この時点では、アリーセは後継者問題を気に掛けている様子だったそうだ。

 しかし、そこでオスヴァルトがイグナーツを引き合いに出して、直系ではない人間が聖剣や王笏を継承する方法について魔女に相談していたことが判明する。

 具体的な方法についても魔女は知っているようだった。

 だが、それを話す前に魔女の家は襲撃を受けてしまった。

 先にルットマン伯爵と御者がやられた後、家に押し入ってきた者たちによってアリーセと魔女は捕らえられた。そういうことらしい。

 イグナーツは頭を抱えたくなった。


「どうして魔女のところになんか行ったんだ……」

「そりゃあ、君のせいだろ」

 さきほどまで殊勝にしていたレンが、息を吹き返したようににらんでくる。


「君が子を残すことを拒んでいたからに決まってる。アリーセでもオスヴァルトの妃でも誰でもいいから、とにかく君が誰かと子作りしていればよかったんだ。そうしたら、彼女だってこんなことに首を突っ込まなかったはずだよ」


 いつもだったら、イグナーツは反論していただろう。

 自分の子を孕めば、未来の王の母となり王宮の権力争いに巻き込まれる。

 王太子となるオスヴァルトの妃たちからも睨まれるだろう。最悪の場合、子は養子として取り上げられ、苦しむことになるかもしれない。

 だがそれは、あくまで仮定の話であり未来の話だ。

 いまアリーセの身に差し迫っている危機には比べようもない。


「……そうだ。全部俺が悪い」


 だからイグナーツはそう答えるしかなかった。

 彼女の命や身の安全に代えられるものなどこの世界に何もない。たとえこの国が滅びに瀕しており、国民全員がそう長くは生きられなかったとしても。


(俺が甘かった。とにかくいまは、彼女を救うことが最優先だ)

 手の中でぐしゃぐしゃになった便箋を折りたたんで懐にしまう。


「状況を把握してきたと言っていたな? 敵は何人だ? 配置は?」

「ちゃんと説明するよ。でも連中の要求はなんだったの?」


 レンはイグナーツが懐にしまった便箋を気にしたふうに訊ねてくる。

 この自称精霊はアリーセに張り付いていたはずだが、連中の目的については聞けなかったようだ。


「フロレンツィアの右腕をもってこい、だそうだ」

「は……?」

 レンが虚空で固まる。


「な、ん……なんで、そんなもの……」

「俺にもわからない。だから、これから知っていそうな人に会いに行く」

「……誰が知っているっていうんだよ、そんなの」

「母上に決まっているだろう。いいかげん、あのクサい演技もやめさせたいと思っていたところだしな」


 イグナーツはすがめた目を窓の外に向けた。

 沈みゆく夕日を背景に、《白の宮》の鋭角的な輪郭が暗い影を落として見えた。

ここ数日体調が悪くてこちらの更新を忘れていました。やらかしました……

明日は2話アップいたしますので、お読みいただければ幸いです。

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