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39.嘘つきたちが迷走しています(3)

「二、」


 剣の腹がわずかに動き、オスヴァルトの首の皮だけを傷つけた。

 つう、と首筋を血が伝う。

 オスヴァルトの顔が憎悪で歪み、アリーセの胸元から右手が撤退していった。だが左手は依然として腰を掴んだまま離してくれない。


(なんてしつこいの。そんなに自尊心が大事?)


 三日後には正式に王太子と認められる。王笏(おうしゃく)も継承している。

 彼の人生は順風満帆だ――少なくとも余命一年を切ったイグナーツと違って。

 なのに、異母弟への強い対抗意識が感じられるのはなぜだろう。

 どこからかみしみしと(きし)むような音が聞こえてきたとき、


「三――」


 とイグナーツが最後の数字を告げた。

 その瞬間、オスヴァルトはようやく飛び退き、右手を一閃させた。

 ギィン! と金属同士が激しくぶつかる音を響かせ、青い火花が散る。

 アリーセは反射的に飛び退いて背中を壁にぶつけつつも、目撃していた。

 オスヴァルトの右手に、青白く輝く短い笏杖が出現していた。

 肘から指の先くらいまでの長さのもので、先端に大ぶりの宝珠を頂いている。


(これが、本物の王笏……?)


 イグナーツの構える聖剣と同じ輝き、同じ材質にしか見えないからそうなのだろう。

 宝珠もそれを包む装飾も繊細で美しいが、オスヴァルトがその持ち主としてふさわしいとはどうしても思えない。


「いかれているぞ、イグナーツ……」

「弟の妻に手を出す方がよほどおかしいと思いますが」

「は、俺はそこまで落ちぶれてない。誰がこんな女――」


 次の瞬間、警告なしに放たれた一撃が、オスヴァルトの頬を切り裂いた。

 罵声(ばせい)があがり、オスヴァルトが頬を押さえてよろめき、膝をついた。

 きっ、と顔を上げて異母弟をにらみつける。頬を押さえた手の隙間からは赤黒い血がしたたり落ちていた。


「正気か! 立太子式前だぞ!」

「それはあなたの都合だろう。俺の妻を愚弄することは許さない。だいたい、そんなふうにしか女性を扱えないから、妃たちがあのような態度を取るのでは?」

「どういう意味だ?」

「妙な噂が流れていることくらい知っているだろう。礼儀としてダンスの相手はしたが、兄上の代わりまで求められては困る」

「…………っ!」


 オスヴァルトの両眼に羞恥(しゅうち)の色が交じる。

 彼もイグナーツも、王太子妃になるはずの妃二人が未来の王を産むために相手を乗り換えようとしているという噂は耳にしていたようだ。

 おまけにいまの言い草では、イグナーツは既に異母兄の妃からアプローチを受けており、かつ断っているようだ。アリーセは少しだけほっとした。

 不妊の話を出されるのが一番こたえるらしい。オスヴァルトはもう一度異母弟をにらみつけると、身を翻して去っていった。


「アリーセ」

 イグナーツが右手に握った剣を降ろし、左腕でいたわるように抱きしめてきた。


「大丈夫ですか? 痛いところはありませんか?」

「ありませんわ。殿下のおかげです」

「俺がもっと早く探しにきていれば……怖い思いをさせてしまいましたね」

「殿下のせいではありませんわ」


 アリーセも両腕を夫の背中に回してぎゅっと抱きしめた。

 胸元に頬を押しつければ、安心感に胸の奥が満たされる。彼の匂いや体温がなぜだかとてもなつかしいものに思えてきた。


「本当に、兄がすみませんでした。昔はあんな人ではなかったのですが、しばらく見ない間に変わられてしまったようだ。せっかく王笏を継承したというのに……」


 あんな男が王になるのか、というやるせなさがにじみ出ている。

 アリーセは抱きしめられたまま、イグナーツの聖剣へ目を向けた。

 当然だが、舞踏会は帯剣が許されていない。今日は剣帯も鞘も身につけていないから、仕舞う場所がないのでむき身のままだ。


「それ、よく持ち込めましたわね」

「ああ、これですか。持ち込んだというか、出したというか……」

「出した?」


 アリーセが聞き返すと、イグナーツはいったん身を離した。

 口で説明するより早いと思ったのだろう、手にした聖剣をよく見えるように持ち上げる。夜間のせいもあって、青白い輝きはまぶしいくらいだ。


「こうするんです」


 イグナーツは左手で剣の柄を掴み、その柄尻に手のひらを当ててみせた。

 それでいったい何が起こるのかと見守っていると、柄尻の飾りの部分が溶けるようになくなっていた。いや、イグナーツの手の中に吸い込まれたのだ。

 水面に物が沈んでいくように、聖剣がイグナーツの手のひらに収まっていく。

 やがて剣の先まで完全にイグナーツの手に消えると、彼は手品の前振りのように腕を振って聖剣が消えたことを証明してみせた。その顔には苦い笑み。


「タネも仕掛けもありません。さきほどの兄上の王笏も右腕から出していましたから、両者は同じ性質のようですね……気味が悪いでしょう」


 アリーセは首を横に振った。


「いえ。ですが、どうやって入ったのかはとても気になりますわ。手を拝見しても?」

「え、ええ。どうぞ」


 この反応は意外だったらしく、イグナーツが戸惑いながら右手を差し出してくる。

 その手を両手でしっかり支えて、アリーセはしげしげと手のひらを見つめた。聖剣がめり込んでいった形跡は何も見当たらない。


「皮膚に傷はありませんわね。痛くはないのですか?」

「痛みは特に。まあ、出すときと引っ込めるときに多少骨が軋む感覚はありますが」

「まあ。では、聖剣は骨に収納されているのですね。でもそのわりには、重さに変化はなさそうですわ」


 アリーセはイグナーツの右手を掴んで、ぶんぶんと上下に振ってみた。とても、大人の男の腕よりも長大な剣が収まっているような重量とは思えない。

 イグナーツは一瞬きょとんとした後、あはははと声をあげて笑った。


「あなたは本当によく俺を笑わせてくれますね」

「特に笑わせようとしているわけではないのですけど、光栄ですわ。幸福とは笑顔が呼ぶものだといいますもの」


 ふふふ、とアリーセもつられて笑う。

 怒っているときのイグナーツも凜々しくて素敵だと思うが、やはり彼には笑顔でいてほしい。あどけなさの残る彼の表情が大好きなのだ。


「しかし、まさかあなたに手を出そうとするとは……」

「そのことでしたら、誤解ですわ」


 いやらしいことをされたといつまでも思われたくはないので、そこだけはきちんと訂正しておく。

 ついでに、オスヴァルトはアリーセがイグナーツから何かを受け取ったと考えていて、それを必死で探していた様子だったことも添えておいた。


「俺が兄上の欲する何かをあなたに渡していたと?」

「どういうわけか、そうお思いになられたようですわ」


 オスヴァルトがなぜそう考えて愚行に走ったのか。

 それをアリーセたちが知ったのは、舞踏会が終わって《蒼の宮》へ戻り、部屋の荒れ果てた惨状を目にしたときだった。

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