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36.舞踏会では注目の的です(2)

 しかし楽しい時間はあっという間だった。

 楽団による演奏が最後の一音を奏でると、アリーセはイグナーツと微笑みあって会釈した。名残惜しいが、同じ相手と二曲つづけて踊るのはヒルヴィスの宮廷作法に反するのでしかたがない。

 王族によるダンスが終わり、貴族たちも思い思いの相手と手を取り合いだした。王族が踊っている間かその前に相手を決めていたのだろう。大広間の中央付近へ移動してきて、パートナーと向かい合って次の曲を待つ。


(私はどうしようかしら)


 だいぶ緊張したせいか、喉も渇いている。

 ややあって曲がはじまったが、アリーセは一曲ぶん休んでシャンパンで喉を潤すことにした。

 が、グラスを乗せた銀盆を持って動き回る給仕の方へ向かおうとしたところ、複数の紳士に行く手をさえぎられてしまった。


「アリーセ妃殿下!」

「次は僕と一曲お願いできますか?」

「いやいや、ぜひ私めと!」


 あらまあ、とアリーセは目をぱちくりした。

 いままではクラーラの美貌の影にかすんで壁の花になりかけることもあったのに、周囲の反応が以前とえらい違いだ。

 第二王子の妃という立場は女性を魅力的に見せてくれるらしい。


(あとは、私が未来の王を産む可能性があると踏んでのことかしらね)


 仲睦まじい夫婦のふりをしている弊害だ。

 オスヴァルトの不妊は周知の事実であるため、みな王家の血筋がイグナーツの子に引き継がれる可能性が高いと考えている。


(これだから宮廷は嫌なのよ)


 急にゴルヴァーナ城砦で暮らす人々がなつかしく思えてきた。

 ハイネもゲルトも表裏がなくて接しやすく、司祭兼守備隊長のヘンドリックも豪快で気持ちの良い人物だった。副官のエトガルは正直よくわからないところがあったが、減らず口を叩きつつもイグナーツを本気で支えているのが伝わってきたので、悪い印象はなかった。


(どうしよう、もう帰りたくなってきたわ)


 そう考えて、ふと気づく。

《奈落》は既にアリーセにとって、帰るべき場所になっているのだと。


「――そのように行く手をさえぎるのは、同じ紳士としてどうかと思いますな。妃殿下がお困りになっておられる」


 演説のように明朗な声音に振り向けば、見知った顔の貴公子がシャンパングラスを片手にニヤリと含み笑いを浮かべていた。

 癖の強いダークブロンドが特徴的な、二十代後半の男だ。

 そばかすは多いが鼻は高く、紅顔の美男子と呼んでもいいだろう。しかし角度の強い眉に爛々と輝く碧眼のせいで、どこか人を食ったような印象があるのは否めない。

 アリーセが今夜の舞踏会で会いたかった人物の一人だ。

 旧友の変わらぬ姿にほっとする。


「おひさしぶりね、ルットマン伯爵」

「ごぶさたしております。しばらく見ぬ間にますます美しさに磨きがかかったようで。生ける宝石のごとき淑女たちの中にあってもひときわ輝いておられますな。さながら満天の星にも負けぬ月のように」


 アリーセは苦笑した。

 あからさまな美辞麗句を顔色一つ変えずに吐き出してくるところは相変わらずだ。これでイヤミにならないぎりぎりの線を保てるのは彼くらいのものだろう。

 紳士たちが退散するように去っていく中、ルットマン伯爵がシャンパンの注がれたグラスを差し出してきた。

 アリーセが飲もうとしていたのを察して、給仕から受け取ってきてくれていたようだ。

 ありがとう、と素直に感謝を述べて受け取る。


「お召し上がりになった後で構いませんので、一曲おつきあい願いますかな?」

「ええ、喜んで」


 楽団の演奏が終わる。

 どこかの高位貴族の夫人と踊っていたらしいイグナーツが心配そうに視線を送ってきたので、アリーセはもう大丈夫ですわと小さくうなずいてみせた。

 彼の方も淑女たちに囲まれているようだが、助けは入っていないようだ。


(もう一曲終わったら次は助け船を出して差し上げますわ)


 そう思いながら、酒度の低い甘めのシャンパンを飲み干す。

 すかさず近づいてきた給仕に空のグラスを渡すと、アリーセはルットマン伯爵の手を取った。

 ちょうど次の曲がはじまったので早足で移動し、ステップを踏む。

 彼と踊るのはひさしぶりだ。

 以前はアリーセが壁の花になりかけるたびに、彼と踊りたがる貴婦人を差し置いて声をかけてくれた。それもひとえに、アリーセが彼の愛娘が湖に落ちたのを救出したことがあるからに他ならない。


「あなたはいつも私を助けてくださるわね」

「《ボーグの藻屑(もくず)の会》会員として、当然のことです」


 ルットマン伯爵はおどけたように眉を上下させてみせる。

《ボーグの藻屑の会》というのはその名の通り、ボーグ湖で溺れて藻屑――つまり湖の生態系の栄養分になりかけた者の会、らしい。

 会長はもちろんマヌエラ・バルトル公爵夫人だ。

 ルットマン伯爵の場合は実際に溺れたのは娘のはずだが、なぜか自身が会員だと主張している。


「《奈落》での暮らしはいかがですかな?」

「かなり楽しんでいますわ」

「さすがはボーグの人魚令嬢。湖の深淵をのぞいてこられただけあって、死地に輿入れする程度では恐るるに足りませんか」


 ルットマン伯爵がおおげさに碧眼を見開いてまた眉を跳ね上げる。


「何かお困りのことがありましたらぜひご相談を。なんてことは、バルトル公爵夫人が先に申し出ていることでしょうが」


 アリーセは笑って肯定する。


「お気遣い感謝しますわ。でも、夫が聖剣の王子であること以外に困っていることはありませんの」

「確かに。いや、失敬」


 ルットマンは失言を撤回するようにかぶりを振った。

 それから何かを思いついたらしく、声をひそめて切り出してくる。


「もしよろしければ、王都滞在中に一度我が屋敷へいらっしゃいませんか? 愛娘も会いたがっております」


 ルットマン伯爵の愛娘コリンナはまだ幼く、王宮に出入りできる年齢にない。

 が、彼がこの言い回しをするときには必ず別の意味があることをアリーセは経験上知っていた。


(いまの話の流れに何か関係があることね)

 そう察して、にっこりと応える。


「ええ。ぜひうかがわせていただきますわ」

「それはよかった。娘も喜びます」


 ルットマン伯爵はアリーセの腰を抱いてターンしながら、ドレスの隠しポケットにさりげなく何かを忍ばせてきた。

 かさりと乾いた音がしたから封書だろう。


「お預かりしていたものです」

「ごめんなさい、あなたを伝書鷹(でんしょだか)代わりにしてしまって」

「構いません。王宮に届けられたくないものなのでしょう」

「……ええ」


 バルトル公爵邸を出立する前にゴルヴァーナ城砦へ送った手紙の返事だ。

 王宮に届いた手紙には検閲が入るので、送り主――ファビアンにはルットマン伯爵邸へ送るよう指示しておいたのだ。


(返事が来たということは、何かわかったということかしら)


 早く《蒼の宮》の部屋に戻って手紙を開封したい。

 そわそわする気持ちが態度に出ていたらしく、ルットマン伯爵が苦笑する。


「私とのダンスよりも手紙の方がよほど魅力的のようだ。送り主がうらやましいですな」

「もうっ、そういう冗談はよろしくありませんわよ。でも、気が散りかけていたのは謝りますわ」


 そう言ってルットマン伯爵の背に回した手にぐっと力を込めると、アリーセは彼とのダンスに集中した。

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