29.大事な話があるそうです
一週間ぶりに第二城砦へ帰還したイグナーツが馬を降りると、新妻がまっさきに出迎えてくれた。
再会の喜びを隠そうともせず小走りに駆け寄ってくる様に愛おしさがこみ上げてくる。が、アリーセの勢いはこちらにたどり着く寸前に衰え、きちんと立ち止まる。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
と返しながらも、イグナーツはアリーセの笑顔がいつもと違うことに気づいた。
彼女は高位貴族らしく、内心を隠して気丈に笑うのが上手い。
しかし今日の彼女はどこか眼差しにせつない内情を感じられ、すがりたいのを我慢しているように見えた。
(仲睦まじいふりをする約束をしているし、このくらいは……)
イグナーツは自分に言い訳して、アリーセを抱き寄せた。
ザクロ色の髪を編んだ頭が腕の中でびくりと反応し、おずおずと額を押しつけてくる。遠慮がちに甘えてくるしぐさがたまらなくて、イグナーツは口づけたくなるのをぐっとこらえる。
自分はなぜか彼女にキスをすると止まらなくなる性質なのだ。彼女にはキス魔だと勘違いされているとはいえ、人前はまずい。
「何かありましたか?」
「……いいえ。こちらはいつもどおり平和そのものでしたわ。殿下が戦ってくださっているおかげで」
声が硬い。本心ではあるようだが、本心のすべてではなさそうだ。
イグナーツはすぐに体を離した。
昨夜も身を清めてはいたが、今朝もハグレの捜索を指揮し、発見した魔物を一匹屠って返り血を浴びている。さらに馬で荒野を縦断してきたので砂埃までかぶっていた。
「湯を浴びてきます。話はその後に」
「ええ」
アリーセが弱々しく微笑む。やはりおかしい。
いつもならばイグナーツが入浴の話をすると「お背中をお流ししましょうか?」などとからかってくるのだが。その度にイグナーツは全力で辞退し、アリーセにくすくす笑われる、というのが最近の日常だった。
「アリーセ嬢、元気がないね。何かあったのかな?」
虚空からレンが言ってくる。彼も気づいたようだ。
腑に落ちないものを感じながら、イグナーツはひとまず湯殿で体をいたわった。長湯を楽しんでからガウンを羽織り、部屋へ戻ったところで机の上に手紙が置かれているのが目に止まった。王家の紋章の封蝋。父王からだろう。
普段着に着替えてから、封蝋をやぶる。ざっと目を通して、顔をしかめる。
(そろそろだとは思っていたが……アリーセにも話さなければ)
そんなことをしているうちに夕食の時間になったので、食堂広間へ向かった。
アリーセは既に席についていた。イグナーツが向かいの席に座るとすぐさま食事が運ばれてくる。
「変わりはありませんか?」
「殿下は心配性でいらっしゃいますのね。それとも、私が太ったとおっしゃりたいのでしょうか?」
「そ、そんなことはありません。仮に多少太られたとしても、あなたの美しさが損なわれることはないでしょう」
アリーセがお上手ですわねと笑う。だが視線がときおりさまよっている。何かを気にしてそわそわしているように見えた。
(今日の彼女はどうしたんだ? この肉のことか?)
アリーセのおかげで仕入れ先の変わった肉類は熟成管理が徹底されていて、肉質がやわらかく風味もいい。以前食していた肉類は何皿も食べると顎が疲れたものだが、最近はそういうこともなくなった。
「あなたのおかげで毎度の食事が豊かになりました。感謝しています」
「おそれいりますわ」
反応は薄い。肉の件ではなさそうだ。
ならいったい何があったのか。わからなくても、魔物との戦闘で疲弊した体は食欲旺盛で、イグナーツは運ばれてきた食事を次々と腹に収めていった。
空になった皿が回収されていき、最後にデザートの皿が運ばれてくる。その上に載ったものを見てイグナーツは眉をひそめた。
カイザー・シュマーレン。もともと好物ではあったが、一部の偏見にさらされて不快な思いをしてから二度と出さないように厳命していた。
「待て。これは……」
呼び止められた給仕が困った顔をして口を開こうとしたとき、
「私が作りましたの」
とアリーセが切り出してきた。
「あなたが? 手ずから作ったのですか?」
「はい。お口に合わないかもしれませんが……」
新妻は恥ずかしそうに両手の指先を絡ませる。
なるほど、さきほどからそわそわしていたのはこのためか。
(誰だ、話したやつは。って、ハイネしかいないか……)
アリーセが医務官のハイネと懇意にしていることはみなが知っている。
余計なことを吹き込まれていないか心配していたが、やはりイグナーツに関する情報はすべて彼女から伝わっていると思っておいた方がよさそうだ。
「へえ、君の好物を作って待っていたなんて、健気だねえ。可愛い奥さんだよねえ。僕だったら絶対好きになっちゃうけど? っていうか君もとっくの昔に」
騒がしい自称精霊を一睨みして黙らせる。
そんなイグナーツを見てアリーセが不思議そうな顔をする。当たり前だが、彼女にはレンの姿は見えないのだ。
イグナーツはコホンと咳をしてごまかした。
「お、美味しそうです。いただきますね」
ぎこちなく宣言して、ナイフとフォークで生地を小さく切った。
ベリー系の鮮やかなソースをたっぷりと絡めて口へ運ぶ。
ふわりとした生地を食むと、粗めの舌触りの後に強い甘味が押し寄せてくる。それでいてベリーとレモンのほどよい酸味のおかげもあって後味がさわやかだ。
あまりの美味しさに思わず頬の奥がぎゅっとなる。と同時に、胸の奥がきゅっと甘やかな痛みに包まれた。
(俺のために手料理まで……)
こんなにも健気な妻を幸せできないおのれの使命が恨めしい。
そう思いながら、イグナーツは内心見せず穏やかな笑みを取り繕う。
「ものすごく美味しいです」
「よかったですわ。お留守番しながら練習した甲斐がありました」
アリーセが安堵交じりの笑みをほころばせた。
手料理がイグナーツの口に合うかが気がかりだったようだ。
一週間ほど魔物を相手にして荒んでいた心が、ひさしぶりに会った妻の優しさに癒やされる。
もう一口と言わず何口も食べて甘味を堪能してから、イグナーツは父からの手紙を思い出した。食後に話そうと思っていたのに、好物につられて忘れるところだった。
「あなたに話しておかなければならないことがあります。大事な話です」
え、とアリーセが小さな声をこぼした。みるみる顔が強張っていく。
「……どのようなお話でしょうか」
おや、とイグナーツは目を留めた。馬を降りたときに出迎えてくれたときの、あのせつなげな眼差しが戻っている。何か知っているとも思えないのだが。
「実は近々、兄上の……立太子式が行われます」
「えっ?」
アリーセが目を丸くする。思っていたのと違う、という反応だった。
「何か意外でしたか?」
「いえ、その。まだ立太子されていなかったのですね」
「早くに妃を二人娶られていましたが、子宝に恵まれませんでしたからね。父上も、兄上に後継者ができてからの立太子を望まれていたようです」
「では、ついに御子が……?」
「いえ、そういうわけではなく。ガリウ大河はご存じですよね? あの河の水域で氾濫などの水害が頻発しているそうなんです」
ガリウ大河は王都の南を流れる大きな川だ。
竜の住まう神聖な水域とも、または川を流れる水自体が竜そのものだとも言い伝えられている。
「大司教の話によると、大河に住まう竜の力が不安定になっているそうです。それで取り急ぎ立太子式と、鎮竜の儀を執り行うことになりまして。竜を鎮められるのは正当な王笏の継承者だけですから」
イグナーツはできるかぎり私情を排除して説明する。
「立太子式と鎮竜の儀。その両方に、俺も王子として出席しなければなりません。王都には一週間ほど滞在することになるでしょう。それで、あなたのことはどうしようかと……」
「わ、私もまいりますわ!」
アリーセが焦ったように身を乗り出してきた。思いのほか勢いのある反応にイグナーツは面食らう。
「真夏の長旅は体力を消耗しますよ。無理なさらずここに残っていただいても……」
「いいえ参加させてください! 殿下のおそばを離れたくありません!」
胸元に手を当てて言い放ってくる。
何かを決意したかのような真剣な眼差しに圧倒されそうになる。
(俺に会えなかったのがそんなにさびしかったのか……可愛すぎるな)
一週間会えなかっただけでそんな思いを抱かせてしまったとは。イグナーツは申し訳ないと思う反面、湧き上がってくる高揚感で思わず頬が緩みそうになる。
「そ、そうですか。そういうことでしたら、一緒にまいりましょう」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑むアリーセは、いつもの気丈さが戻ってきていた。それどころか、翡翠の双眸からはこれから戦いに挑むかのような闘志が感じられる。
とても、会えなくてさびしかっただけとは思えない。
(本当に、何があったんだ?)
イグナーツは内心首を傾げながら、カイザー・シュマーレンをまた一切れ口へ運んだ。




