8、猫を脱ぎ捨てる
時が止まってしまったかのようにしんと静まり返る店内。
この場にいるすべての人間が息をのみ、自らの耳を疑った。今の、心の臓までも凍えさせる声を発したのは一体誰だ――と。
いや、本当は気付いている。方角からして一人しかあり得ない。だが理解がそれを拒んでいた。
神が創りし至高の芸術品。賛美にも皮肉にも眉一つ動かさないオルレシアンの人形姫。麗しのベル・プペー。そんな少女が発したとは到底思えぬ、貫禄と怒りに満ちた声。
誰も彼も混乱のせいで指先一本動かせない。まるで氷漬けの標本だ。
しかしその均衡を破ったのは他でもない、レティシア本人であった。
「手を離せと言っているのが聞こえんのか。誰の許可を得て触れている。私の旦那様だぞ。これだけ言っても聞こえんのなら、その耳勿体ない。切り落として豚の餌にでもしてやろうか」
ゆるりと腕を組み、男たちを見据えるその瞳。凍えたサファイアブルーの奥には言い知れぬ怒りの炎が灯っていた。
この場には高ランク帯の傭兵騎士たちも揃っているはず。しかし皆、だんまりを決め込んでいた。ジルベールの立場と国の思惑を見抜き、躍り出るのは得策ではないと判断したのだろう。さすがは高ランク帯。頭も切れる。正しい選択だ。間違ってはいない。
けれど、それならば、誰があのいじらしい男を守ってやれるというのだ。
(ベル・プペー? 人形姫? くだらん。何だそれは。他人の目も、自らの評判も、なにもかも些事でしかない)
男たちはレティシアの放つ圧に気圧され、ジルベールから手を離した。そして、じり、じり、と後退していく。年端もいかない少女に怯える姿は失笑ものだが、笑う人間はこの場に一人としていなかった。
被っていた猫を放り投げるなどと可愛らしいものではなく、もはや外皮を食い破って虎が出てきたようなもの。仕方あるまい。
「なんだ聞こえているではないか。ならばさっさと返事をしろ愚図め」
「――ッ、な、に」
「ああ、ついでなので教えておいてやろう。赤目の皇族は武より知能面で秀でている場合が多い。貴様たちのような筋肉達磨には少々力不足だ。私が相手をしてやろう。なぁに、案ずるな。十二分に楽しませてやるさ」
これ幸いとジルベールを自らの後ろへ避難させ、離れていく男たちを嘲笑めいた声色で挑発する。それでも男たちは顔を顰めただけで、レティシアに襲いかかろうとはしなかった。
赤目の皇族が危険視される理由は、なにも彼らの悉くが国を傾けてきたからだけではない。国を傾けるに足る頭脳があったからだ。
何もかも諦め、気力を失っているジルベールだが、もしかすると彼も絶望に身を染めたらそうなる未来が待ち受けているのかもしれない。
(だから何だと言う話だが)
絶望する暇など与えず、蕩けるほどに愛してやればいいだけのこと。
レティシアは自らの足元から氷の竜を一体生成すると、一撫でしてから攻撃態勢を取らせた。
「レ、レティ、シア……?」
「おや、ようやく私の名を呼んでくれたな旦那様。よいよい、後ろに控えていろ。すぐに終わらせてやる。話はそれからだ」
「い、いや、待ってくれ、さすがに何が何やらで……」
頭に手を置き、へたりこむジルベール。レティシアの身長でも彼の顔に触れることができる高さになったので、頬に手を置いて慈しむように撫でる。
「そうだな。私も貴方を存分に愛でてやりたいのはやまやまなのだが――」
「愛でっ!?」
「さすがにここを片付けねば、アリーシャ嬢やラウラ嬢たちに危険が及ぶ。それは本意ではないだろう? 問題はない。疾く疾く終わらせる。だから良い子で待っていてくれ」
「し、かし」
「待っていてくれ」
「……ん」
レティシアに撫でられるのがよほど心地よいのか、緊張に強張っていた目元がゆるりと蕩けだし、甘えるようにすり、と頬擦りする。その様が愛らしくて微笑めば、我に返ったジルベールは耳まで赤くして俯いてしまった。
なんだこの可愛い生き物は。
思わず真顔になるレティシア。一分一秒でも早くその恥ずかしがっている顔を暴いてどこもかしこも余すところなく愛でてやりたい。そんな欲望に反応した氷竜は、忍び足で近づいてきた男の首に噛みついて壁に叩きつけた。
「ぐあ!」
ぱりん、と氷の爆ぜる音とともに磔の形で氷に覆われる男。仲間の男たちのみならず、店の利用客すら「ひっ!」と短い悲鳴を上げた。アリーシャやラウラといった店のスタッフは、もはや声を出す事すらできないでいる。
「ふふ、その程度の奇襲で私の裏をかけるとでも思ったか。まぁ、反撃しようという気概は認めるがね。私の竜は自動反撃に自動追尾付きだ。良い子たちだろう?」
まるで雲の上を歩くような軽やかさで磔にされた男に近づいていく。彼女が一歩踏み出すたびに足元から氷の竜が生えた。一匹、二匹、三匹、四匹……――男たちの人数分生み出すと、見張るべき相手を指示していく。
一人たりとも逃がさない。
レティシアの瞳がそう告げていた。
「さて、貴様らの処遇だが――ふむ? よく見たら見覚えのある顔じゃないか。暴力騒ぎを起こしてCランクに降格となった間抜けだ。無駄な仕事を増やして、まったくもって迷惑極まりなかったぞ」
「な、に者だ、お前、は! それに、その氷竜。まるで、あいつの――」
「ふ、はははははは!」
男の言葉に、レティシアは淑女の顔も忘れて盛大に笑った。
「あー、面白い。ここまで手の内を明かしているのにまだ分からんか! まぁいい。その程度の男だからこそこんな下策の駒にされるのだ」
「なに!?」
「色々情報を吐かせてやろうと思ったが、ここまで頭が足りていないのではどうせ依頼者の顔すら知らぬのだろう。大方、前金と称した金と指示書を宿の店主から受け取った。手紙には王家の判が押してあり、依頼が成功すれば残りの金を払うとでも書いてあったか?」
「な、ぜ、それを……お前は本当に何者なんだ!」
呆れたようにため息をついたレティシアは、興味を失った目で男を見ると右手にはめた『反転の魔導具』を指でなぞった。
「説明があっただろう。私はオルレシアン公爵家のレティシア。ベル・プペーや人形姫とも呼ばれているがな。まぁ、貴様たちにはこちらの姿の方が馴染深いか」





