2、元オルレシアン家の密偵
この防壁の異常を感知できるのは術者であるレティシアのみ。
ひそかに眉を寄せた彼女にジルベールは「どうかしたのかい?」と首をかしげる。
「いや、なに、随分と忘れっぽい鳥が壁に衝突したらしい」
「鳥? ……待ってくれ。あり得ない。最悪のタイミングじゃないか」
ジルベールは両手をクロスさせて顔の前に持ってくると「はあぁぁぁ……」と長い溜息を吐いた。
今の揺れ方は人が直接ぶつかった時のものだ。防壁と言っても外に張り巡らせているわけではなく、一番目立たない壁の中を通している。この状態で直接ぶつかれるのはレティシアが知る限り一人しかいない。
彼女はすまないとジルベールの頬を撫でてから、自らの耳に手を置いて念話を繋げた。
念話とは魔術を使える者限定の無線通話魔法である。事前に魔力交換をし通信を繋げた者同士であれば、脳に直接響くような形で会話ができる。
「レティシアだ。いつも言っているだろう。寝室には防壁を張っていると。いい加減学習してくれ、フォコン」
『痛ったたたぁ……。姫様ぁ、そろそろ寝室にこんな強固な防壁張るのやめません? もう一段階下げてくれたら、俺普通に通り抜けられるんですけど。機密文書保管庫より厳重ですよここ』
「何を言っている。お前のために張っているんだぞ」
『何で俺!? ちゃんと味方ですよ!?』
彼――フォコンは抗議の声を上げた。
フォコンは元々オルレシアン家に仕えており、レティシアがジルベールへ輿入れした後しばらくしてから父アドルフにより送り込まれてきた密偵である。
彼の使用する魔法はかなり特殊で、壁や柱、木々への侵入はもちろんのこと気配遮断能力にも優れており、至るところが彼の目となり耳となり得る。
ゆえにフォコンの手にかかれば機密情報ですら赤子の手を捻るかのように手に入れることが可能なのだ。
様々な情報源を抱えるオルレシアン家でも、その能力の高さから特に重宝されていたフォコンをどうしてレティシアに付けたのか。皇帝一族を探らせる意図でもあるのか。不思議に思ったレティシアだったが、アドルフからの返事はなんとも明瞭だった。
「ジルベール皇子の役に立つと思ってね!」
その言葉に彼女は「私の旦那様を酷使しようとしないでくれ」と呆れた声を漏らしたものだ。どうやらオルレシアン家失脚騒動の折、裏で動いていたジルベールの活躍を知ったアドルフは彼と彼の頭脳をいたく気に入ってしまったらしい。
もっと早くジルベールへ情報が渡っていれば、失脚騒動すら起こさずに事件は沈静化したはず。ならば表だって情報を得にくい彼のためにオルレシアン家が誇る最高峰の密偵をお傍に――と。
つまりレティシアのためではなく、ジルベールの手足となるべくフォコンを送り込んできたのである。
これにはさすがのレティシアもため息をつかざるを得なかった。当人が「凄く助かるよ!」と乗り気だったので「ならば良し!」となったが。
「レティ? フォコンだろう? わざわざ俺たちの時間を邪魔しにくるような奴ではないから頼んでいた件だと思う。どうして姿を現さないんだ? 何かあったのかい?」
「いや、彼は元気だよ。いつも通りだ。声の調子から急務という訳ではないが、そこそこ急ぎなのは間違いないだろう。すぐに防壁を解除するが、その前に」
ジルベールの腕を引いてベッドに座らせ身だしなみを整える。癖のついた髪は軽く手で梳かし、レティシアを動揺させるためにと乱されたシャツは首元までしっかりとボタンを留めた。
寝起きで潤んだ瞳と甘えモードから抜けきっていない表情は――さて、どうすべきか。レティシアが目を細めた瞬間、ジルベールは自らの頬をパチンと叩いた。
「大丈夫だ。もう覚めた。いくらフォコンが相手とはいえ仕事とプライベートは分けないとな。……ごめん。考えが足りなくて」
「どうしてあなたが謝るんだ。これは私の我が儘だぞ」
「レティの?」
「ああ、そうだ。では急ぎ防壁を解除しよう。待たせたな、フォコン」
レティシアの魔法が解かれるやいなや、近くの壁からフォコンが転がり込んできた。
耳の上までしかないアッシュグレーのツーブロックに、猛禽類のようなどこか愛らしくも力強い金の瞳が印象的な好青年だ。上下共に身体にピッタリとフィットした黒い服を着用しており、その上からハーネスを身に付けている。
形式上跪いてこそいるが、彼の瞳には不服の色が見てとれた。
「ちょっと姫様ぁ? どういうことですか。何で俺のための防壁」
「なぜって決まっているだろう。ジルベール様の愛らしい姿を見てよいのは私だけだ。常日頃から許可取りをする謙虚な部下であったならば私もここまではせんのだが、お前は後先考えずに突っ走るからなぁ?」
ベル・プペーよろしくたおやかな笑みであるというのに、その瞳には一切の戯れはなかった。フォコンの口から「ヒッ」と短い悲鳴が漏れる。
「……きゅ、急にお邪魔して、すみませんでした。防壁、張っといていただいて結構です……はい。うっかり突入したら死ぬ」
「ああ、きっちり学習してもらえると助かる。淡泊な方だと自負していたのだが、どうやら私も人の子だったらしい。ジルベール様への独占欲は人並み以上だ」
「脳味噌に刻んでおきます! 絶対、まかり間違ってもそんな愚行おかしません!」
防壁にぶつかる痛みよりもうっかり夫婦のイチャコラ現場に突入する方が恐ろしいと判断したらしい。実に賢明だ。レティシアにとっては帝国の機密文書なぞよりジルベールの寝顔やあんな顔、そんな顔の方が重要機密である。
彼女はフォコンの肩に手を置き耳元に唇を近づけた。そしてトーンを落とした声色で「お前が良い子で助かるよ」と囁く。瞬間、もの凄い速さで壁まで後ずさると両手でバツ印を作りながら首を横に振りはじめるフォコン。その耳は赤く染まっていた。
ジルベールほどではないにせよ彼もまた素直で可愛い男だ。だからこそからかい甲斐があるというものだが――ほどほどにしておかなければ旦那様が拗ねてしまうかもしれない。後ろで「レティが、俺に、独占欲……」と顔を真っ赤にして嬉しそうにはにかむ彼を見て、レティシアは愛おしそうに微笑んだ。
「勘弁してくださいよ姫様。竜帝様状態じゃなくても破壊力ヤバいんですよ、マジで」
「ははは! ただの戯れだ。本気にするな」
「分かってますよ! もちろん!」
彼はパンパンと服の埃を払って立ち上がった。
「あの姫様にそんな感情があったとは驚きですけどね。ほどほどにしておいた方がいいですよ。あんまり重いと嫌がられますって。ねぇ、ジルベール様」
「え? あれくらいで重いのか? 軽いの間違いではなく? 俺としてはもっともっと束縛して雁字搦めにして私以外目に入れるなと言ってほしいくらいなんだが」
「え?」
「え?」
信じられないと言わんばかりにフォコンを見つめるジルベール。そんなジルベールを奇々怪々とばかりに凝視するフォコン。
二人、未知との邂逅を果たした瞬間であった。
感想、評価、ブクマ、誤字脱字報告などなどありがとうございます! そこそこ長い番外編なので、しばらくお付き合いいただけたら幸いです。





