第76話 魔界編11
丸半日、何も胃袋に入れなかった刹那の食欲は凄まじいもので、ものの10分とかからず2つの大皿は空になってしまった。刹那自身も、こんなに食べられるとは思っていなかった。残さず食べるようにしたいとは思ったものの、量が結構あったため、ほんの少し残してしまうかもしれない、といった覚悟はあった。
思ったよりも腹に入ったのは、刹那の異常な食欲でもあったが、最大の理由は料理の味にあった。生きてきた中で一番うまい、とまではいかないものの、優しくて、ほっとするようなその味は、刹那の食欲を増進させ、そしてすべてを平らげるまでに至るものだった。
いわゆる、お袋の味、というやつだった。
「ふぅ~・・・ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。それにしても、よく食べましたね。てっきり残すかもしれない、って思ったんですけど?」
いたずらっぽく笑い、マリアはそう言った。
男にしては細いほうに入る刹那の体型の、一体どこにあれだけの量が収まるのか。マリアにしてみればそれは不思議でもあり、また全部残さず食べてくれた嬉しさでもあった。
「あ、いえ、あまりにおいしかったものですから」
「あら、そうですか。それならよかったです」
柔らかな笑顔を浮かべるマリア。もしお伽噺によく出てくる天使が実在するとしたのなら、その天使の笑顔は間違いなくマリアの笑顔と同じものだと思う。
じっと、マリアが刹那の顔を見つめてくる。笑顔のまま、しかし何も言わず、無言のまま。
「えっと・・・顔に何かついてますか?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、刹那はマリアに訊いた。
「えぇ、パンのかけらがついてますわ」
「え? ど、どこにですか?」
あたふためいて、刹那は顔に手をやる。頬にやり、顎にやり、だけどパンクズらしき物体の感触は伝わってこない。
「ここ、ですよ」
一言だけそう言って、マリアが刹那の口元に手をやる。
小さなパンの欠片。マリアは手の中にあるそのパンクズを、
「!?」
何の躊躇もなく口へと運んだ。
「ん、今日のパンも、よく焼きあがってますね」
さも何でもないかのように、マリアは笑った。
突然のこの行為に、刹那は思わず顔を赤くしてしまう。ならないわけがなかった。それがマリアのような美人にされたのならなおさらだ。
これではまるで恋人同士ではないか、と思わずにはいられない。マンガやテレビでよく見るお馴染みのシーンが、たった今目の前のマリアにされたのだ。
顔に血液が集まってくるのが、嫌でもわかってしまう。恥ずかしくて、マリアの顔をまともに見ることができない。
「あ、あの、どうして・・・」
「? 何がですか」
何のことやらさっぱり、と言った具合に、マリアは切り返してくる。声にはからかいの色など微塵もなく、どうして刹那がそこまで恥ずかしがっているのかわからないというニュアンスさえある。
「だから、その・・・」
「? ・・・あぁ、今のですか?」
ようやく気がついたのか、マリアがそう刹那に訊く。
「えっと、はい」
「別に恥ずかしがることなんてないじゃないですか。だって、私たちは―――」
―――母子なんですから。
その一言。
そのたった一言で、刹那はようやく自分の勘違いに気がついた。
マリアは、親子水入らずのこの時間を、ただ純粋に過ごしたかっただけだったのだ。
料理を作ったのも、愛する息子に腕を振るいたいと思ったから。
刹那の食事の様を終始見ていたのも、じっくりと成長した息子を見たかったから。
刹那の口元のパンクズを食べたのも、愛しい息子の世話を少しでも焼きたかったから。
団欒を目的とするマリアの行為を、刹那は恋人がするような行為だと勝手に勘違いし、マリアのしたかったことを履き違えていた。
「長い間、私はずっと思い続けてきました」
「俺のこと、ですか?」
「はい。男の子か、女の子か。明るいのか、暗いのか。元気なのか、病弱なのか。それを想像するたびに、私は泣きました」
マリアの血の繋がっていた子は、死んだ。いくら血縁の概念が薄くとも、我が子が死んで哀しくないわけがない。
それを紛らわすたびに、マリアは夜な夜な窓辺に立り、異世界で生きているであろう我が子を想い続け、そして哀しみに明け暮れた。
どんな人物でもいい。極悪人だろうが、大犯罪者だろうが、そんなの知ったことではない。愛する我が子だ。健康で、そして『生きて』くれていれば、それだけでよかった。
「16年です。まさか、こんな形で息子と再開できるとは・・・正直思ってもみませんでした」
「そう、ですか」
マリアの長年抱き続けてきた想いに、どうにか応えてやりたかった。何でもいい。この人のために、何かをしてやりたい。
「俺にできること、ありませんか?」
「できること、と言いますと?」
「何でもいい。できることなら、本当に何でも」
血は繋がっていなくとも、母である。その母の願いならば、可能な限り叶えてやりたかった。
「それならば1つ」
マリアが、笑顔を崩さず、刹那をまっすぐ見つめて、遠慮がちに言う。
「お母さん、と呼んでいただけませんか?」
ずっと望んで止まなかったマリアの素朴なたった1つの願い。
息子に、そう呼んでもらいたい。
1度だけでいい。多くは望まない。それだけでいい。
それが、マリアの長年望み続けてきた、唯一の願望だった。
「・・・母さん」
躊躇いがちに、刹那はそう呼んだ。
「はい」
マリアも、笑顔でそれに応える。
「母さん」
2度目。今度は躊躇いなどない。
「はい・・・はい・・・」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、マリアは刹那の呼びかけに応えた。
心が温かいもので満たされていき、マリアは笑顔のまま、泣いていた。
・・・温かい。
母と呼ばれることが、こんなにも温かいものだとは、知らなかった。
「お母さんは・・・ここにいますよ・・・」
面を下げて、マリアは満たされた心を表すかのように、涙を流し続けた。
高まった気持ちが落ち着くまで、ずっと。




