最後の攻略対象
――――遠くで、誰かの声がした。
風にそよぐ青葉の香りと、小鳥たちの羽音。素足に触れる若草のやわらかな感触が私に現在地を思い出させる。
精霊樹の森で寝入ってしまったのだと自覚して、起きようとしたそのときだった。
「あなたという人は、懲りもせずこのようなところで油を売って……午後の授業は大事な集団実技です。いくらあなたといえど、抜けることは許されませんよ」
ふと、聞き慣れない声が頭上から降ってきて、目を開けるのを止めてしまった。
聞き慣れないとは言ったけど、聞いたことはある。ゲーム画面越しに、一方的に。
声の主は、私の記憶が確かならユベール先輩だ。冷静沈着でクールで知的。ただ、人の感情や情緒に疎いというか、気持ちの裏を読むのが苦手というか。例えば初対面の後輩に感謝祭――という名のバレンタインみたいなイベント――で花を贈られたとき「あなたに感謝される謂れはありませんが?」とか言っちゃうタイプだ。
攻略難易度は王子に次ぐハイレベルな堅物で、まずは彼に会いに行くより自分の能力を上げまくらないといけない。努力に努力を重ねていると、向こうから声をかけてくれる。ていうか、庶民が貴族相手に自分から声をかけるなんてのが普通はやっちゃいけないことなんだけどね。
そんなわけで、ユベール先輩も攻略が大変で、しかも私の好みとはちょっとズレていたこともあって、全ルート解放のための攻略こそしたものの周回はしていない。
「……学校、好きじゃない」
「獣人族が自然を好むことくらいは私も知っています。ですが、入学した以上、あなたも学園の一員です。そのような下賤の者に構ってなどいないで、戻ってください」
「ニーナは」
さすがにこれ以上の狸寝入りは無理だと思った私は、たったいま起きた風を装って体を起こした。
「すみません、先輩。どれくらい寝ていましたか……?」
「……十分、くらい」
感覚としては昼休み中寝過ごした気分だったけど、そうでもなかったらしい。深く短い良質なお昼寝が出来たみたいで、随分と頭がスッキリしている。
伸びをして顔を上げると、あからさまに不機嫌そうなユベール先輩と目が合った。
「あ……シャーディ先輩にご用事でしたか? すみません」
さっきの会話を聞いてしまったこともあり、若干の気まずさを感じながら頭を下げる。けれどユベール先輩は、それには答えず眉間の皺を渓谷並みに深くして溜息を吐いた。
「さすがは庶民といったところですか。地面に寝転がるなど、恥という概念がないように見受けられますね。どうやら此処が王侯貴族のための学園で、王家の慈悲により在籍しているという自覚もないようです」
ユベール先輩がつらつらと捲し立てる内容は、全く以てその通りで。エリシアちゃんがあまりにも天使だから失念していたけれど、彼の台詞や態度こそ悪役令嬢らしさがあると今更ながらに思う。
「……なにか?」
「いえ、返す言葉もありません……失礼します」
立ち上がり、ユベール先輩にぺこりと頭を下げてから、シャーディ先輩を振り返る。
シャーディ先輩は哀しそうに私を見上げていたけれど、これ以上彼の元にいてユベール先輩のお説教を長引かせるのも申し訳ないので、下手な笑顔をどうにか作って「今度は、フィーちゃんもつれてきますね」とだけ言って走り去った。
「ニーナ……!」
背後からシャーディ先輩の哀しそうな声が聞こえたけれど、振り返ることも立ち止まることも出来なくて、振り切るように走り続ける。森の出口に差し掛かったところで人影が見え、急ブレーキをかけた。
「! ニーナ……?」
「わ……! え、エリシアちゃんか……ごめん、びっくりしたよね」
人影はエリシアちゃんで、肩にはクーちゃん、足元にはフィーちゃんがいる。まん丸の目で見つめるエリシアちゃんの手には、小さなランチバスケットが。
「なにか、森であったのですか?」
「ううん、別に……」
そういえば、エリシアちゃんと精霊樹の森でお昼の約束をしていたことを思い出した。でも森にはユベール先輩もいて、たったいま逃げてきたばかりで戻りづらい。ていうか、お昼ごはんをシャーディ先輩の傍に置いてきてしまったことも気まずい。
どうしたものかと思っていたら、背後から足音が近付いてきた。
「ニーナ」
声に振り向けば、其処にはシャーディ先輩とユベール先輩がいた。シャーディ先輩は、ランチバスケットを手に提げている。私がうっかり置き忘れたものだ。
「お昼、約束」
「う……すみません、お手数お掛けしました」
何だかさっきから謝ってばかりだ。そしてさっきから、ユベール先輩の視線がザクザク突き刺さって痛い。
迷惑をかけてしまったのは事実だし、自分の振るまいがエリシアちゃんや先輩の評判に関わることだってあるのに、それを忘れていたのも事実だ。
恐縮して小さくなっていると、私の前にエリシアちゃんが進み出た。
「ユベール様。ニーナになにか仰りたいことがおありですの?」
「え……?」
しゅんと俯いていた顔を上げてみれば、エリシアちゃんが小さい体で真っ直ぐユベール先輩を見上げていた。ユベール先輩は暫く私を睨んでいたけれど、小声で「いえ」とだけ言うと、目を逸らして立ち去ってしまった。
なにがどうなったのかわからずぼうっとしていると、エリシアちゃんが振り向いて私の頬を両手で包んだ。
「ニーナ、ユベール様になにか言われたのですか?」
「え、い、いや……別に、当たり前の忠告をされただけで、悪いことはなかったよ?」
そうエリシアちゃんに答えたときだった。
「さすがは庶民といったところですか。地面に寝転がるなど、恥という概念がないように見受けられますね。どうやら此処が王侯貴族のための学園で、王家の慈悲により在籍しているという自覚もないようです」
ついさっき聞いたばかりの、ユベール先輩の言葉が聞こえて、目を瞠った。まるで録音した音声を再生したみたいに、声も抑揚も速度も同じで。
「そう、言ってた」
声の主……シャーディ先輩は、驚く私たちにいつもの拙い口調でそう呟いた。




