3─XI
洗面所の水の音が途切れるのと同時に、エアハンドタオルの噴射音が静かに響き渡る。
そして、その音すらも途切れて数秒後、少々やつれた様子のガイアが、男子トイレの入り口から姿を現した。
「スッキリした……ようには見えないわね。大丈夫?」
廊下でガイアが出てくるのを待っていたアスナが、その顔色をうかがいながら声を掛ける。
「まあ、一応……。大分楽にはなったよ」
「そう……。それで、何が原因だったの?」
「……笑わないでくれよ? 後、他言しないって約束してくれるよな?」
「ええ、勿論」
アスナのその言葉を聞いて、ガイアは壁にもたれかかりながら口を開いた。
「今日の修道院のお昼ご飯、子供達皆が楽しみにしてるよな?」
ガイアのその切り出し方に、アスナは先程まで居た中庭に漂っていた香りを思い出す。
中庭の壁に面する部屋の内の一つに厨房が存在しており、その調理場の排気管は、中庭側に出ているのだ。
故に、御飯前の時間になると、中庭にはその料理の匂いが真っ先に漂いだす。
そして、今日の献立は──
「あんた、カレーが嫌いなの?」
アスナのその言葉に、ガイアは黙ったまま頷いた。
「匂いだけでも、長時間嗅いでると吐きそうになるんだよ……。本格的な辛い奴だと、余計に……」
珍しいよな、こんな事言う奴って。
ガイアがそう続けようとした、その時。
「まあ、よくある話ね」
それを遮ったアスナの言葉に、ガイアは理解が追い付かなかった。
そして、数秒の間を置いて、驚いたようにガイアは言った。
「え……、よくあるの?」
「ええ。特に、ビーストの人は鼻が利く分、嫌いって人は多いわよ。ミラ先輩もその一人ね」
「そっか……、よくあるんだ……」
そう零したガイアの頬を、静かに涙が伝った。
ガイアはポケットからハンカチを取り出してそれを拭うと、アスナの左隣に移動して、静かな声でこう言った。
「俺の居た世界には、ホムスしか居ないって、言った事あったよな?
そんな世界で、カレーが嫌いっていう奴は、必然的にこの世界よりも少なくなる訳で……」
「虐められたの?」
「…………」
ガイアは、黙ったまま何も答えない。
だが、否定もしようとはしない。
「そう……。ホムスしか居ない、魔物の脅威も無い世界であっても、やっぱり虐めは起こるのね……」
「そういうのがきっかけになる虐め、やっぱりあるのか?」
「ええ……。
種族が原因だとすれば、鼻炎のビースト、高所恐怖症のクーリアに、カナヅチのマーマン……。
そして、魔物が原因だとすれば……、それはこう言う事よ」
「……え?」
ガイアは、アスナの突然の行動に戸惑い──そして、驚愕した。
アスナは、右側で纏めているサイドテールをその手でどかし、今まで見せていなかった右耳を、ガイアに見せていた。
しかし、その右耳の形は、とても綺麗とは言い難い。
何故なら、アスナの右耳は、獣の爪によって引き裂かれたような、歪な形をしていたのだから。
「それって……」
ガイアのその言葉と共に、アスナはサイドテールから手を放す。
歪な右耳を、サイドテールはすっぽりと覆い隠す。
そして、アスナはこう言葉を切り出した。
「私が六歳の時、魔物に両親が殺されて、この町の冒険者ギルドに保護されたのは知ってるわよね?」
「……ああ」
「この耳は、その魔物に襲われてこうなったの」
「それで、虐めを……?」
「ええ。
でも結局、私を虐めていたその人達は、冒険者になったばかりの頃に、グランドシャークの餌になったわ……。
葬式でその死体の有様を見た時に、こんな程度の傷はこの仕事をやっていれば大したことない物だったんだって思い知らされたけど……、心の傷って言うのは、そう簡単には癒えなくて……。
だから、時々髪型が子供っぽいって言われることもあるけど、中々辞められないのよね……」
アスナの悲しげな視線は、地面を向き続けている。
サイドテールも重力に従ったことで、また歪な右耳が現れる。
しかし、ガイアはそれを眺めるようなことはせず、同じように俯き、アスナの右耳が見えなくなるように努める。
幸い、今は昼食の時間。
主に使われるトイレは食堂に隣接された方であるため、食堂から離れたこの場所に来る子供はまずいないだろうが、それでも用心に越したことは無い。
「……ありがと」
アスナがその事に気付いたのか、静かな声でそう言った。
「どういたしまして。
……それと、子供っぽいなんてことない。
その髪形、アスナにとても似合ってるよ」
「お上手ね。お世辞だとしても嬉しいわ」
ガイアの静かな返答に、アスナは僅かに明るくなった声色でそう返した。
しかし、ここでガイアに浮かんだ疑問が、一つ。
「そう言えば、何でその事を俺に?」
「うん……。あんたに、そろそろ言おうと思ってた事があるの。でも、私があんたの秘密を一方的に持ち続けてるだけって言う状態も、なんか嫌だったから……」
そこまで言うと、アスナはもたれていた壁を離れ、ガイアの方に向き直る。
ガイアもそれに倣い、壁から離れてアスナに向き合った。
こういう切り口で話し掛けてくるということは、アスナが言わんとしていることは限られてくる。
「それに、あんたは平和な世界から来たのに、頑張ってこの仕事に慣れようとしてる。
まだちょっと手は掛かるけど、この一ヶ月間、ひたむきでなし崩し的にでも続けているあんたを見てて、私が出した結論よ」
その言葉が示す意味。それは、冒険者や傭兵という仕事をする者にとっては、ほぼ通過儀礼のようなものであった。
「でも、そんな頓珍漢なあんたの出自は信じた訳じゃないわ。
それに、あんたがまだ私達を騙していないとも限らないから、監視の目が要るって言うのが、マスターの判断よ」
「まあ、普通はそうなるよな」
「そう。だから、監視役が必要でしょ?
私はあんたを監視する。あんたは私から色んな事を教えてもらう。
お互いに利があると思わない?」
そんなアスナの言葉に、二人の間に笑みがこぼれる。
ガイアは姿勢を正し、自身の頭半分程背が低いアスナと、真っすぐに向かい合う。
そして──
「私と、正式に組んでくれない?」
アスナはそう言って、右手を身体の前に差し出す。
そして、その申し出を断る理由など、どこにも無い。
「ああ、勿論」
ガイアもまた、そう言って右手を差し出す。
二つの手がお互いに握り合い、握手となる。
そして、最後に──
「ぐうぅぅぅぅぅぅ……」
「きゅうぅぅぅぅぅぅ……」
二人の腹の虫が、修道院の廊下に盛大に鳴り響いた。
「……とりあえず、何か食べよう?」
「……そうね」
二人は真っ赤な顔でそう言うと、弾けたように笑いあったという──。
ひたむき:物事に真面目に取り組む様。
なし崩し:物事を少しずつ変えていく事。コツコツ進める事。
「うやむやにする」という使い方は誤用である。




