私を愛さないで~クールだったはずの元婚約者が執着してくる~
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「私がやるしかないでしょう」
参加者は少数だが重苦しい会議の場で私の声は異様に響いた。
父である国王が弟に譲位する前に、病を得てあっという間に亡くなってしまったのだ。
弟が王位に就けるようになる成人まであと五年もある。十三歳で王位に就くのはあまりに早く、教育だってまだ半分ほどしか済んでいない。これでは、良いように利用されるだけだ。
ちょうど良く、私は成人を迎えるタイミングだった。
しかし、この国で女王は認められていない。
王女しか生き残っていなかったこの国で女性でも即位できるようにしようと法改正がなされる前に、私の母である王妃は意地なのか待望の弟を生んだ。
だから、法改正は見送られたままだった。
「法改正の必要はありません。私はあくまで中継ぎです。国王代理になるのかしらね。弟が成人するまでの五年間なら、現状維持はしてみせましょう」
「クリスタベル王女殿下は政をご存じないせいか、自信だけはおありですな」
貴族の嫌味など可愛いものだ。あの王妃に比べたら。
「あら、ではいまだに他国でフラフラしている王弟殿下に頼むのかしら? はく奪した継承権を今度は戻すの? それとも、次に王位継承権のある母の実家とか? どちらもふさわしくないからその次にいく?」
私がそう問えば、貴族たちは黙った。
父の弟である王弟は他国に留学してからあれこれ理由をつけて戻ってこないので、王位継承権をはく奪したのだ。
末っ子で大層甘やかされたのがいけなかった。そんな王弟が戻ってきたところでできることなんて私よりもたかが知れている。他国で平民女性と結婚したそうなので、帰ってこられてもこちらだって困る。
王弟を除外して、弟の次に王位継承権を持つのは王妃の兄であるブラックウェル公爵、そしてその息子。
しかし、ブラックウェル公爵家は他家からの評判が悪い。私の母である王妃も含めて。
王妃はなかなか子供に恵まれず、側室が先に妊娠するので精神を病んだのだ。それでも意地なのか、私を生んだ五年後に待望の弟を生んだ。
側室が生んだ王子たちは病弱で亡くなり、生き残ったのは王女たちのみ。誰が何をしたかなんて簡単に察することができる。
異母姉たちは他国へと嫁いでいったので、国内に残っているのは私ともう一人くらいだ。
最初の子供である私が生まれ、王位継承権のない性別であると分かった瞬間に王妃は絶望したようだ。妊娠中は持ち直していたが、私を出産して再び病んだ。私は王妃から慈しまれた記憶が一切ない。
「誰か五年間だけ王位を引き受けてくれる者がいるのでしょうか。私が最もちょうどいいでしょう。それに、私を国王代理にすれば王妃を幽閉し、ブラックウェル公爵家を遠ざけましょう。母に虐待され、その実家からも見放された私の言うことは信じられませんか?」
この会議に王妃とブラックウェル公爵家を呼んでいない時点で、貴族たちは察していただろう。その事実を敢えて口にする。
私の額にはうっすらと一本の長い傷がある。
王妃は弟が生まれるまで、現実を受け入れたくなかったのか私を男であるように育てた。男の格好を強要し、家庭教師による教育も王太子教育の内容だったらしい。
王妃の理想よりも私の出来がわずかでも劣った時、私に容赦なく手を上げていた。そしてこの傷がついた日は特に運が悪かった。叩かれた私はその日、体調が悪く熱があった。叩かれた衝撃でよろけてテーブルの上の花瓶と一緒に倒れ、破片で額に傷が残ったのだ。
前髪で隠している額の傷を撫でると、何人かは当時を思い出したのか痛ましげに目を逸らす。
亡くなった父はヒステリー気味の王妃の相手を自分がしないでいるために、私の扱いに見て見ぬ振りをしたのだ。
でも弟ができたということは、王妃が父に再び迫ったか何かしたのだろう。薬でも使ったか。弟ができると、王妃の関心は根こそぎ彼に移った。
放置されてどうすればいいか分からない五歳の私に手を差し伸べてくれたのは、意外にも王妃の敵である側室たちだった。
私にとって母親とは、二人の側室たちを示す言葉だ。王妃の敵は私の味方であった。
実母である王妃を私はこれから何のためらいもなく排除しよう。五歳から育ててくれた側室たちは悪いようにはしない。
貴族たちは私が側室たちを排除しないという可能性にすぐさま思い至って、保身の計算をしているのだ。ブラックウェル公爵家だけを排除するなら自分たちにも利があると。反対や嫌味は面白いほど小さくなっていく。
「さて、五年も公爵家の嫡男を待たせるわけにはいきません。私はあくまで国王代理。結婚して子供でもできては要らぬ争いを生むでしょう。ということで、私とシルヴァン・バークレイとの婚約は解消します。私は国王代理を務める五年間、誰とも結婚しません。バークレイ公爵、この決定でいいですね?」
三年間婚約していた相手の父親を探す。
婚約者とその父親は外見がとてもよく似ている。輝く珍しい銀髪はすぐに見つかった。
長く見事な銀髪を後ろに撫でつけたバークレイ公爵は話を通しておいたおかげで「王女殿下のお心のままに」と頭を下げてくれた。
「私と三年間婚約してくれたことに感謝します。私は大して可愛げのない王女だったでしょうが、これからはもっと可愛げのない国王代理になることでしょう」
クリスタベルという可愛らしい名前から連想されるほど、私は可愛らしくはない。
表情は大して変わらないし、異母姉たちと違って笑うこともあまりない。容姿は国王に似て黒髪で王族の証である紫の目を持つが、キツめの顔立ちだと陰で言われている。
「クリスタベル王女殿下、政を可愛げだけで乗り切れるなどと考えている愚かな貴族はここにはおりません。そんなことを王女殿下に投げかけるのならば、それは政を舐めている貴族ということになりますからな」
額に傷の残る、王妃から虐待されていた王女だった私との婚約を受け入れてくれたバークレイ公爵の器は大きかった。
婚約を解消することになってもなお、私を庇う発言をしてくれるのだから。
国王が亡くなった後ショックに打ちひしがれることもなく、側室たちを通して宰相やバークレイ公爵を抱き込んでおいたおかげで、会議は小さな反対があったもののスムーズに終わった。
中継ぎの王なんて誰もやりたくないだろう。
五年なら賢王と評価もされず、前王の尻拭いと後始末で終わり、側室だって持てはしない。五年後、すべては弟のレオンハルトのものになる。
私は五年頑張ればいいだけ。たった五年間。
皮肉にも、ちょうど私が王妃から虐待を受けていた年数と同じだ。
王妃の幽閉はとても呆気なかった。
幼い頃は王妃の機嫌を損ねることが恐ろしくて恐ろしくて、顔色ばかりうかがって生きていたのに。
私はこんなにみっともない人を神のように恐れていたのか。
「お前たち、一体何をしているの! レオンハルトが国王になるのよ! 私は国母よ!」
喚く王妃の口から私の名前は一度たりとも零れることはなかった。
病んでいるわりに、状況は把握しているようだ。
「側室の娘のお前がでしゃばるなんて! 陛下が亡くなったからって何様のつもりなの!」
騎士に拘束された王妃からそのように罵られ、鼻で笑ってしまった。
「あなたは陛下の急死により心を病んだと幽閉されるのですよ、王妃殿下。以前からずっと病んでいらっしゃいましたからまことに今更ですけれども」
王妃の中で私は側室の娘という認識になっているらしい。
あぁ、おぞましい。
こんな女が私の本当の母親だなんて。
この事実をどうにか消してしまいたい。あの日、額を怪我して血を流し続ける私を心配することなく王妃は私の不出来さを罵り続けた。
こんな女から生まれ、少しの間でも育てられた私が、立派な愛のある母親になれるわけがない。素晴らしい妻にも絶対になれない。
だから、国王代理になることを理由に婚約解消できて私が一番ほっとしている。元婚約者との結婚式までのカウントダウンが始まっていて、私には恐怖しかなかった。
王妃を殺さないのは、後々問題が起きた時の保険だ。民衆の不満が大きくなった時に処刑という娯楽を提供するために、高貴なだけの不要な人物は残しておかねばならない。
王妃は騎士たちに連行され、使用人たちも全員外に出すと王妃だった女の部屋はやっと静かになった。
私は額の傷ができた時に王妃が座っていた豪奢なイスに腰掛けてみた。肘掛に繊細な彫りのあるイスは王妃の癇癪を何度耐えてきたのか。布を張り替えて修理したのか、肘掛の色はあの日と異なっていた。
キーンという静寂が耳に痛い。
「ひとまず、一つ。終わったわよ。あれほど苦しかったのにこれほどあっけなくね」
静寂は心地いいはずだが、意外とうるさい。特にこの部屋では。
早々に耐えきれなくなって独り言を零すと、私は豪奢なイスから立ち上がった。
目の前にあの日、額を怪我してうずくまって謝る自分がまだいるかのようだった。
国王代理となって慌ただしく過ごし、気づけばあっという間に三カ月が経った。
「なぜ、あなたがここにいるの。シルヴァ……いえ、バークレイ公爵令息」
執務室までやってきた宰相の斜め後ろにいたのは、父親と同じく長い銀髪を無造作に流し冷たいほど青い目をした元婚約者のシルヴァン・バークレイだった。
私が国王代理を務めると決まった後、彼とも話し合いの場を設けて円満に婚約解消したはずなのになぜ彼がここにいるのか。彼の祖父は宰相だったが、彼も父親も城勤めはしていない。
何となく嫌な予感がした。
私に婚約解消のことで用事があるなら、謁見の申請をすればいい。いくら忙しかったとはいえ、彼からの申請があれば無視していないはずだ。
「彼は二カ月前から宰相室で補佐官として働いています」
宰相の言葉で顎を外さなかった私を誰か褒めてほしい。
どうして、新しい婚約者を決めて結婚式の準備をしているはずの二十歳の彼が宰相室で働いているの? バークレイ公爵夫人となる女性の教育は早ければ早いほどいいのに。まさか、結婚適齢期の彼と婚約解消した私に今更文句を? 令嬢がいないわけでもないのに?
用件を言われる前から頭の中で嫌な考えが勢い良く回る。こういう時はダメだ。私の周囲だけ空気が重苦しくなる。
決めた、後で癒しのレオンハルトのところに行こう。
王妃に虐待された私と、王妃に溺愛された弟は意外にも仲が良い。どちらも王妃が大嫌いという共通点があったから。
「補佐官を増やすと以前宰相は言っていたわね。それほど忙しいの?」
宰相は答えず、自身の後ろに視線をさっと流す。
元婚約者は普段通りクールな表情のまま信じられないことを言った。
「陛下と婚約を解消してから、食事の味がしないのです」
国王代理が長ったらしいせいか、私は一応「陛下」と呼ばれている。
彼の言葉を反芻しても何が言いたいのか分からない。いい医者を紹介してほしいということだろうか。それとも、重い病気にかかったのに宰相室で働いているということ?
「それは……いけないわね。医者にはかかったのかしら」
「はい、父が無理矢理。病気でもなんでもないようです。ただ、精神的な問題だと」
「……それなら療養に行ってはどうかしら? バークレイ公爵家のあの領地なんていいんじゃない? ほら、一度連れて行ってくれたわね。湖のある領地なら療養にぴったりではなくて?」
元婚約者の口角が上がったので、名案だと思ってくれたのかもしれない。
「覚えていてくださったのですね」
「え、えぇ」
彼からの返答が思っていたのと違う。これではまるで、私が記憶していたことを喜んでいるようではないの。
「すでにそこでは一週間過ごしてきました。父に連行されたので」
「そう……治らないのであれば働くのではなく別の場所で療養したら? 公爵領は風光明媚な場所も多いから」
「いえ、こうして久しぶりに陛下にお会いできたのでもう療養は必要ありません」
「そ、そう? それならもう大丈夫ね」
普段からクールだったはずの元婚約者がこんなに嬉しそうにしている意味が分からず、宰相を見遣る。
宰相は面白そうに目を細めて私たちのやり取りを眺めているだけで何も言わなかった。
「いえ、大丈夫ではありません。療養が必要ではないというだけで、また味覚障害を起こすかもしれません」
私と同様に元婚約者は感情を出すタイプではなかった。彼の冷たいはずの青い目に喜色が浮かんでいるように見えるのは、気のせいに違いない。
「ですから、私は宰相の元でしばらく働かせていただきます」
「公爵家はどうするの。あなたは唯一の跡取りでしょう」
「父はまだまだ若く健在です。跡取りの教育も終わっておりますので陛下はご安心ください」
元婚約者は私の頭から机で見えないはずのつま先までゆっくり眺めてから、宰相とともに出て行った。
何なの、あれは。全く安心できない。バークレイ公爵家には彼しか子供がいないのに。
嫌な予感がする。私の嫌な予感は大体当たる。
あの宰相が連れて来たということは、納得の上で働かせているのだ。シルヴァン・バークレイを辞めさせるように頼んではみるが、宰相のことだからきっと辞めさせないだろう。
宰相は私の貴重な後ろ盾の一人。無理を何度も言うわけにもいかない。
嫌な予感がヒシヒシとしていても、目の前の仕事はたくさんある。
王妃はすぐ排除できたが、ブラックウェル公爵家を罰するための証拠がなかなか揃わない。側室の子供たちを害するのに公爵家も多大な支援をしたはずなのだ。あとは、王妃の実家だということで通行料を不当に上げていた等の小さなことはゴロゴロとあるが、決定的な証拠がない。
公爵家を潰すか降格させるほどの何かが。
王妃は幽閉中だが、外向けには療養ということになっている。
そろそろ、ブラックウェル公爵家が王妃に会えないと騒ぎ始める頃だ。
彼らはこれまで無視していた私にすり寄ってきているが、謁見も手紙も私は無視している。こうすることで動きがいずれ出てくるはずだ。
会議の後や、廊下を歩く際に強い視線を感じるようになった。
ブラックウェル公爵家の手の者かとも思ったが、視線を追うと必ず出どころにシルヴァン・バークレイがいる。
私はすぐに視線を逸らし、無視してそのまま歩き去る。
何度もそんなことが続き、視線に反応しないようにしていたが、どこかで誰かが見ているもので噂というのは出回るものだ。
私は内密にバークレイ公爵を呼びつけた。
「公爵、あなたの息子が宰相室で補佐として働き続けているのはどういうことなの。しかも、変な行動ばかりするからおかしな噂まで回り始めたわ。今すぐ家に連れて帰って」
「陛下、息子が私の言うことを聞くとお思いですか? あれの祖父と宰相まで抱き込んでいるのに? あぁ、レオンハルト殿下も抱き込んでいますね」
弟まで抱き込んでいる? そんなことは知らない。
元婚約者は私の心を逆なでする天才だったようだ。すべての行動が私に対する嫌がらせに思えてくる。
「レオンハルト殿下は絵画がお好きでしょう。そちらの方面ですでに懐柔、いえ、抱き込んでいるはずです」
どうりでレオンハルトに会いに行くと元婚約者のことが話題に上ると思っていた。まさか、弟まで抱き込んでいるなんて。
ブラックウェル公爵家を排除したい関係で私が弟とそこまで仲が良くない演技をしているため、見抜くのが遅れた。
公爵家は私がダメならレオンハルトに接触するはずで、弟には適当に味方するように伝えてある。
長らく王妃の実家として横暴に振舞ってきたのだ。私も弟も引き入れられず、金を巻き上げる算段ができないならブラックウェル公爵家はより大きな動きを見せるというわけだ。
頭が痛い。
ブラックウェル公爵家の排除と国王代理としての仕事のことだけ考えていたいのに。
どうして今更、元婚約者に振り回されなければいけないの。
「息子は陛下と婚約解消した直後はいつも通りでした。落ち込む様子もなく……しかし、陛下との話し合いから三日経ってから『食事の味がしない。まるで砂を食べているかのようだ』と突然言い始めたのです。あの、いつも通りの表情で」
私がこめかみに手を当てていると、バークレイ公爵は滔々と話し始めた。
「無論、医者に診せましたとも。何の病でもありませんでした。食欲はあるが、味だけがしない。何かを食べると砂のように感じ、飲めば泥水のように感じると。医者に何かショックな出来事があったのだろうと言われた息子は、何のことだか分かっていませんでした。そこで私が口を挟んだのです。『陛下と婚約解消したじゃないか』と。それを聞いた息子は驚愕というのがぴったりな表情をしておりました。見ものでしたよ」
なんて、余計なことを。
「何が言いたいのか分からないわ、公爵。聞く限り、彼は私との婚約解消でショックなど受けていないではないの。何かおかしなものでも食べたのでは?」
「息子はしばらく雷にでも打たれたかのように唖然としておりましたが、やがて動き始めました。私の妻を抱き込み、あれの祖父と宰相に話を通して、いつの間にか宰相の元で働き始めていたのです。私の制止など無意味でしたね」
頭痛が酷くなった。
シルヴァン・バークレイと私は三年間婚約関係にあったが、私は彼のことがよく分からない。どんな人かと問われれば「いつも冷静で特に何にも興味のなさそうな令息」と答える。
私たちの婚約はお互いがどんなに嫌がろうとも、政略結婚になるはずだった。恋愛結婚のれの字さえない。
あぁ、私は彼との婚約を嫌がっていたわけではない。彼の内心は分からないが、表面上は婚約者として、そして王女として敬って扱ってくれたので婚約中には何も問題はなかった。
あまり表情の変わらないクールな彼と過ごすのは気が楽だったのだ。気を遣って笑うことをしなくて良かったから。
私たちの関係には熱さも、燃え上がるものもなかった。ただ義務がお互いの間に転がっていただけ。
それなのになぜ彼は今更あんな行動を?
「息子は婚約解消してから陛下への思いに気づいたのでしょう。婚約解消をして食べ物の味が分からなくなるほどショックを受けている自分に気づかなかったことにショックを受けているのではないでしょうか。あれは常々、頭はいいものの感情には疎い息子でした」
「早く次期公爵夫人たりえる令嬢を婚約者に迎えなさい。教育にも時間がかかるでしょう。何の幻想を抱いているのか知らないけれど、私ばかり追いかけるなんて不毛よ」
「見合いの場は設けたのですが、見事に息子に逃げられましてね。妻まで抱き込まれますと私も弱い。妻は私を責めるのですから」
ダメだ、解決しそうにない。大きな大きなため息をつきたくなる。
シルヴァン・バークレイは婚約解消しておかしくなっただの、私に懸想して五年間忠犬よろしく待つだの、おかしな噂が出回っているから火消しが必要なのに。
放置していれば私が舐められる。
「ほとぼりが冷めるのを待つか……あるいは、陛下。あれをきっちり利用なさいませ。あのくらいの男を手のひらで転がしてこそ、国王代理というもの」
「自分の息子のことなのに一体何を言い出すの? 不毛なことばかりして、優れた婚約者候補のご令嬢がいなくなってしまうわ」
「陛下が他国に行かれる際はエスコート役としてお使いなさいませ。他国の継承権の低い王子が陛下とそういう仲になろうと強引に迫ってくることもあるでしょうから、盾にでも囮にでも何でも」
「私はただの国王代理よ。王配は迎えないわ」
「子供ができたらチャンスがあると考える輩はどこにでもおりましょう。それに、あれは感情が欠落しておりますが、頭はその分いいので使えるはずです。無駄に感情に流されませんし」
「今、彼の行動は十分感情に流されたものだと思うけど」
「あれもどうやら人間だったということですな」
バークレイ公爵を内密に呼びつけているものの、長々と話していてはまた噂が出回ってしまう。
「とにかく、私はあなたの息子を無視するわ。このままだとブラックウェル公爵家にも目をつけられるわよ。危ない目に遭っても知らないわ。忠告はしたから」
「それこそ、息子を利用すればいいのです。それと、あまりあれを邪険にされませんよう。新しい扉を開きかねません」
「……どういうこと?」
「陛下に虐げられて喜ぶような男になるかもしれません」
「……たとえそうなっても私の責任ではないわ」
公爵は息子を制御できない風に言っていたが、対策は講じてくれたらしい。
あれ以降、元婚約者から無駄に見つめられることはなくなったので私は仕事だけを集中してこなしていた。
国王代理になって一年が経つ頃。
夜会でやっとブラックウェル公爵家が釣れた。
私にすり寄っても無視していたら、資金繰りが苦しくなってきたと聞いている。勝手に上げていた通行料も元に戻させたし、役人を派遣して税の誤魔化しもできないようにしたからジワジワと効いてきたのだろう。
最近では、弟レオンハルトの王位継承を急がせようと貴族たちに声をかけ始めていた。
ブラックウェル公爵は兄としての立場を利用して王妃によく会いに来ていたから、私の扱いを知っていた。
でも、彼は何もしなかった。
私もあの時は幼くて愚かだったから助けを求めた時もあるが、無視された。無視されると誰も助けてくれないのだと大抵のことを諦めるものだ。
あの頃の王妃は早く王子を妊娠しようと恐ろしいほどに必死で、あの国のこれを食べるといいと聞けばブラックウェル公爵家を通じてすぐ手に入れていた。
何をしてくるのかと思ったが、ブラックウェル公爵は私付きの侍女を一人買収して毒を盛ることにしていた。
侍女にはわざと裏切ったフリをしてもらっているので、情報は筒抜けである。
夜会でその侍女から飲み物を受け取り、口をつけずにブラックウェル公爵たちの捕縛を命じた。
騎士たちに拘束された公爵たちを見て、王妃を思い出す。みっともなく喚くところまでそっくりだ。
「公爵が私の飲み物に毒を入れたという情報が入りました」
「そんなことはしていない!」
私は笑いながら、グラスの中の酒を半分他のグラスに注いだ。侍女がやろうとしたがさせなかった。
「まぁまぁ、そんなに喚かずに。簡単なことです。ほら、公爵。潔白を証明するにはこれを飲んでください。私に毒を盛っていないなら飲めるでしょう? まぁ、なんて簡単でしょう」
半分は証拠として取っておき、もう半分の中身が入ったグラスを拘束されている公爵の前でそっと揺らす。
「何もしていないならこれを飲めるはず。ね?」
公爵は中々口を開けてくれないので、仕方なく彼の息子か妻に飲ませようと騎士たちに拘束させて口を開けるように指示する。気絶させては飲み込まないかもしれないからだ。
「や、やめてくれ!」
「あら、誰に向かって口を利いているのかしら」
ふと思い出す。
そういえば、無視されたのではなくブラックウェル公爵にこう言われたんだったか。「出来損ないの王女が誰に向かって口を利いているのか」と。私は同じことを無意識にやり返していたらしい。
「陛下! おやめください!」
「公爵が飲んでくれないのだから仕方がないわ。あぁ、毒なら体内に入ればいいのよね。公爵夫人も令息も暴れて口を開けてくれないから、気絶させて目からこれを流し込みましょう。毒かどうか、それで分かるはずだわ」
騎士の一人が指示に従って令息を気絶させる。
公爵の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
「あら、夫人の方がいいかしら? 夫婦仲が良くないの? 大丈夫よ、間違っていたら何ともないんだから。その時はちゃんと私、謝ってよ? 謝るのは母にやっていたから得意だもの。膝をついて額を床にこすりつけて謝ってあげてよ? これに毒が入っていなかったなら」
クスクス笑って周囲を見回す。
貴族たちは明らかに私の様子に引いていた。
あぁ、やりすぎた。
でも、レオンハルトにスムーズに王位を渡すならブラックウェル公爵家は排除しておかないといけないし、私の評判が高すぎても低すぎてもいけない。舐められてもいけない。
王妃はレオンハルトにべったりで、側室たちの手引きがなければ私はレオンハルトと接触もできなかった。でも、なんとか会うと開口一番彼は言ったのだ。「あの王妃はおかしい。あなたが姉さま? あれから逃げましょう」と。そこから私たちの共通の敵は王妃になった。レオンハルトはあの王妃の元でも何とか普通に育ってくれていた。私は彼のために中継ぎをしているのだ。
ふと、会場から熱い視線を感じた。
恐怖の視線と私を案ずるような視線は多く感じるが、この熱は異質だ。視線を滑らせて銀髪が見えたので私はそちらを意図的に見ないようにした。
私が気絶したブラックウェル公爵令息の目を無理矢理開けさせてグラスの中身を本気で垂らそうとしたところで、公爵はやっと自白した。
公爵たちを連行させ、私は何食わぬ顔で夜会を決まっていた時間まで続けた。
吐き気がする。
毒は口に含んでいないが、先ほど公爵をいたぶる私の様子は記憶の中の王妃のようだった。
それに気づいて、胃の中のものを全部吐きたくなった。
私室に戻って着替え、侍女たちを下がらせてから洗面器の中に吐こうとするが、夜会で大して食べていないので吐くものがない。
ベッドに腰掛けてぼんやりしていると、洗面器に添えた手が震えていた。
私は着実に王妃に近づいている。あの狂った王妃に。
紛れもなくあの血は私に流れていて、ふとした瞬間に湧き上がるのだ。
怖い。
夜会では平気だったのに、急に意志を持ったかのように体が震え始める。
その震えは手だけでなく、瞬く間に膝や歯まで侵食した。
頭は冷静なのに、体が言うことを聞かない。
寒い、怖い。
たった五年。たったの五年我慢すれば、あの愛された弟に重い王冠を渡せる。
平気だ、平気なはずなのに。
今日みたいなことはしばらく起きないだろう。貴族たちも私がブラックウェル公爵を断罪する姿を見て怯えていたから。
今日の私は一歩間違えばただの暴君だった。それは病んだ王妃のことだ。
震えながら水差しの水を飲もうと手を伸ばし、震えでうまくいかず水差しが床に落ちた。
「あ……」
か細い声を出したところで、繊細な陶器の水差しは床で無残に砕ける。
「陛下!」
割れた音を聞きつけた女性騎士が異常でも起きたのかと部屋に慌てて入って来た。
「水差しを落としただけ。驚かせてしまったわね」
「左様でしたか……あ、その、では代わりの飲み物でも……」
「もらうわ。侍女を呼ばないとね」
「ちょうど来ております……その、バークレイ様が」
「は、い?」
「陛下はきっと今、ホットミルクをお飲みになりたいだろうからと……元婚約者だから分かると……その、強くおっしゃってですね……」
「エイモス卿、あなたは何を言っているの」
私の女性の護衛騎士を眺めても意味が分からなかったが、扉を見てやっと分かった。
エイモス卿に対して虚勢で我慢していた吐き気と震えはどこかへ行って、ため息をつきたくなる。
「入って。そんな姿で何をしてるの」
「仕事ですが」
「どこの宰相室勤務がこんな夜に侍女の服を着て私の部屋まで来るの。そもそも夜会に出ていたのだから仕事はしていなかったでしょう」
無表情のまま入ってきたのは、なぜか侍女服を着たシルヴァン・バークレイだった。恥ずかしそうにするわけでもなく、やたらと堂々としている。あまりに堂々としているので、こちらの目がおかしいのかと疑うくらいだ。
「今、女装してるのよ、あなた。正気なの?」
「陛下の部屋に夜に男が入るのは問題になります。だから、侍女の服を借りました」
「あなたね……!」
「ちゃんと洗濯してお返しします。一番大柄な方のを借りましたから」
残念ながら身長が高く細身の元婚約者に侍女服は似合っていた。
エイモス卿は念のため窓の周辺を確認している。少なくとも今、部屋に元婚約者と二人きりではない。
「陛下が今日怖い思いをされたのではないかと思いまして。これがお好きだったでしょう。バークレイ公爵領で採れたはちみつも持ってきました。入れて召し上がってください」
「していないわ。私はね、早く休みたいの。あなたに使う時間はないわ」
なぜ元婚約者は私がホットミルクを好きだなんて知っているのか。彼の前で飲んだことはあるが、好きだとは一言も話していないはず。
「私にもそのくらいの知性はあります」
「あなたの知性を疑ったことはないから。それを置いて早く出て行って」
「破片を片付けます」
「そんなことしなくていいから!」
「動かないでください。怪我をしますから」
眠る支度をして侍女たちを下げたので、私は裸足の状態だった。
彼が屈んで破片を手際良く片付けるのを、私は唇を噛んで眺めた。
ホットミルクは確かに飲みたい。でも、彼にそれを言うのは癪だった。
「もういいから出て行って頂戴」
「陛下、一つお願いがあります」
私は呆れ果てて、侍女服を纏ってやけに堂々としている元婚約者を見上げた。
「おかしなことをしていないで。あなたは早く新しい婚約者を見つけなさい」
あれから時間は経ったものの、彼のほとぼりが冷める気配はない。先ほどの夜会でも場違いなほどの熱い視線を私に向けていたくらいだ。しかも女装して私の部屋まで飲み物を持ってくる始末。
彼は侍女服のポケットから飴を取り出すと、私に二つ寄越してきた。
はちみつ味の飴だ。バークレイ公爵家でよく出てきたものである。
「これを私に食べさせてくださいませんか」
「……あなたね……ふざけないで!」
「陛下と婚約解消してから食事の味がしないと言ったではありませんか」
「まだしないと言うの? あなたは以前大丈夫だと言ったじゃない」
「しません。すべての食事が無味です」
飴を差し出したままの元婚約者を私はいっそ叩こうと思った。
しかし、それでは王妃と同じになるし、新しい扉を開かれても困るので大人しく受け取る。さらに、ブラックウェル公爵家の処罰が待っているのにバークレイ公爵家の彼のことまで騒ぎにすれば面倒なことになる。
「これをあなたに食べさせたら出て行って頂戴」
「分かりました」
大人しく口を半開きにする元婚約者は滑稽だった。部屋の確認を終えたエイモス卿はバツが悪そうに隅に立っている。
包みを開いて、私は彼の唇に絶対に触れないよう口に飴を放り込む。
元婚約者は表情を変えずに飴を舐め始めた。
「出て行きなさい。騎士に抱えられて無理矢理出て行かされたくはないでしょう?」
「甘いです」
「当たり前でしょう、はちみつなんだから」
そこまで喋ってからハッとする。
まさか、味がしているの? 味覚障害が治っているということ?
「陛下に食べさせてもらうと味がします」
恍惚という言葉がぴったりの表情を浮かべて、元婚約者はガリッと飴を口の中でかみ砕いた。
エイモス卿は隅で夜会の貴族たちよりも引いた表情をしている。私もエイモス卿のような表情をしているだろうか。
「やはり、私に欠けていたのは陛下でした。今、完璧に理解しました。陛下と婚約解消してから私は味も何も分からなくなっていたのですね」
冷静に考えなくても分かる、自分の目を疑う必要もない。この男はおかしい。
女装してまで一体何を確認しに来たのか。
うっすらと背筋が寒くなるのを感じる。
一歩下がりそうになって、かろうじてプライドで踏みとどまった。
「陛下にそのような顔を向けられるのもいいですね。表情が変わらないあなたのそういう感情を向けられるのも……癖になりそうです。陛下は私にだけ感情的になるのですね」
自分がどんな顔をしているのか分からない。
女装してまでこうして来られたら心はざわつく。
「変わらず宰相室で働くつもり?」
「はい。私に欠けていたのは陛下なので。陛下のお側にいませんと」
ダメだ、このおかしな男を追い出せる気がしない。
ここのところ変な視線を飛ばしてくることもなかったから油断していた。
「……では、ちゃんと私の役に立って頂戴。こういうことはもうやめて。噂になったらあなたも困るでしょう」
「私は困りません。どうぞ皆に伝えてください。バークレイ公爵の息子は女装してまで陛下の元に通って愛を乞う愚か者だと」
やっぱりダメだ。そんなことをすればもれなく私までおかしな国王代理になってしまう。
元婚約者は不敵に笑った。こんなに表情が変わる人だっただろうか。
「ブラックウェル公爵家は排除できましたが、私までは排除できないでしょう? 陛下の基盤が揺らぎますし、レオンハルト殿下はまだまだ教育途中。政権安定のためには陛下は私を罰することができない。レオンハルト殿下のためにもできない。違いますか?」
その通りだが、言われて頷くわけがない。
「あなた、顔も頭もいいと言われて調子に乗っているのではない?」
「死ぬ気なら何でもできるのですよ、夜会での陛下のように」
そんな熱い目で私を見ないでほしい。どうか放っておいてほしい。
そうでないと、私は王妃のようになってしまう。
私は自制できない。どうせあの女みたいになるのだ。
王妃は父を愛し、無駄に愛に縋り、子供ができず父が側室のところに行くと泣き喚いていた。娘をいたぶり、息子ができると娘のことはすっかり忘れて過剰なほど溺愛する。弟はそんな環境に溺れることなく、早々に母が異常だと気づいたから良かったけれども。
間違って愛でも注がれたら、私は王妃のようになる。
愛されているなんて勘違いして、王妃のようになりたくない。愛された記憶なんてほとんどないから縋りそうになってしまう、こんなおかしな男にでも。
どうか私を見ないでほしい。決して愛さないでほしい。
私を愛さないで。それが一番私にとって慣れ親しんだ場所だから。
愛されなければ、私はあのみっともない王妃のようにならないでいられるのだ。
ただの可愛げのない国王代理でいられる。仕事以外で私の心に波を立てないでほしい。
「……何でもできるわけね? では、私に迷惑をかけずに役に立って頂戴」
利用してやる、徹底的に。この男を飼い慣らすのだ。
彼は道具だ。道具を愛することはない。
この男の父親に言われたように手のひらで転がさなければ。
これ以上振り回されたら、私はおかしくなる。
クリスタベル、勝たなければ。心に巣食う王妃の影に、そしてこのおかしな男に。
「あなたが良い子にしていれば、たまに飴を食べさせてあげても良くてよ」
元婚約者はまた恍惚とした表情を浮かべた。一連の目撃者になってしまったエイモス卿は完全に引いている。
やっと落ち着いて飲んだミルクは酷く温かった。
シルヴァン・バークレイは意外にも従順だった。
女装事件以降は迷惑をかけることもなく、仕事で非常に役に立ってくれている。宰相が特に喜んでいた。
国王が亡くなって一年は諸外国を回ることもなかったが、一年経ってからは行かなければならない会議等も出てくる。同行した彼は私のミスをカバーまでしてくれた。
もちろん、文字通り飴は要求された。料理を食べさせるのではなく、彼は必ず飴を食べさせてくれと渡してきてねだってくるのだ。
「陛下、あんなことはなさらないでください」
「何のこと?」
「私に女をけしかけることです」
宰相の代わりに彼が書類を私の元に持って来ることも増えた。
執務室で飴を食べさせたら、手を掴まれて指を舐められる。思わず引っ込めそうになるが、かろうじて耐えた。
「無礼者」
「先に無礼なことをなさったのは陛下です。なぜあんな侯爵令嬢を私に近づけるのですか?」
「あの子はあなたを紹介してくれとしつこかったのよ」
再び指を舐められるが、表情を保った。
ここで怯えてはいけない。相手は道具、あるいは犬だ。
「あなたは元婚約者なのに、私が渋っていては変に言われてしまうから」
「言って下されば良かったでしょう」
「あら、あなたなら令嬢くらい簡単にあしらえるでしょう? 何も言わなかったのはあなたを信用していたからよ」
あの侯爵令嬢が彼を気に入って結婚したかったのは本当だ。
彼はこうして大人しく飴を食べさせられるだけで、宰相室で働き続けていつまで経っても次の婚約者を決めないので、そろそろやめてくれないだろうかと私があの令嬢を利用したのだ。
だから、元婚約者を信用していたなんていうのは嘘。
あわよくば、あの令嬢が薬でも盛ってうまいことやって元婚約者と婚約してくれないだろうかと思ったのだ。
結果は失敗だった。
元婚約者は苛烈にあの令嬢にやり返したようで、侯爵令嬢は伯爵家の令息といつの間にか婚約していた。あまりに婚約までが早かったから、逆に薬を使われて同じベッドにでも入れられていたのだろう。噂が出回る前に侯爵家で対応したのだ。
「あなたのことだから信用しているけれど。ご令嬢には優しくしてあげてね」
「私にとって女性は陛下だけで、優しくするのも陛下にだけです」
元婚約者の青い目は私を射抜いて奇妙なほどギラギラしている。
令嬢をけしかけたのはマズかったようだ。また油断してしまっていた。
「そう? 嬉しいわ。そんな優しいあなたは私の手を離してくれるわね? さっきから痛いのだけれど」
「申し訳ありません」
どうにか誤魔化せた、危なかった。彼は従順な犬ではなく、現在は子猫化しているだけの虎だ。
尻尾を踏んだら瞬く間に虎になる。
私が国王代理になって三年が経過していた。
あと二年。この虎の尾を踏まないように、ほとぼりが冷めるまで飼い慣らせばいい。本心としていい加減冷めてほしいのだけれど。
「また外遊が入っているからよろしくね。私、隣国の言葉はまだまだ苦手なのよ」
「お任せください」
会話を無理矢理終えて、元婚約者の青い目から目を逸らす。
私はそんな目を向けられるような人間じゃない。
どうか、私を愛さないで。どうか、私を王妃のような女にしないで。
私のか細い祈りが天に届いているのかは分からなかった。
五年という月日は過ぎてみると短かった。
私が中継ぎという役目を終えた日は曇り。晴れていると暑いからむしろ曇っていて良かったのかもしれない。
弟レオンハルトの戴冠式に出席して、その後は即位記念パーティーだ。
成人して十八歳になったレオンハルトには他国の王女という素晴らしい婚約者がいる。
すでに王女は王宮に住んでいて、二人で貴族たちの挨拶を受けているのを私は目を細めて眺めた。気分はすでに引退寸前の老婆だ。
「姉さんは来週から旅行に行くんだったよね?」
挨拶が一通り終わってから、レオンハルトは私の元にやって来た。
「えぇ、ゆっくりしてきていいでしょう? 働きづめだったから」
即位記念パーティーに参加してくれている諸外国の王族・貴族たちが帰国してから、私は旅行へ行く予定だった。
「当たり前だよ。でも、帰ってきたら国政の相談には度々のってほしい。姉さんのようにうまくできるのに俺は十年かかりそうだから」
「そんなことないわよ。一年半前から実務も少しずつ任せていたじゃない」
十八歳のレオンハルトは立派になった。
子供の時に王妃の異常性に気づき私に「逃げよう」と提案してくれたあの時も頼もしかったけれど、今は本当に立派だ。
昨年から実務をだんだんと任せていたが、私などよりもよほど器用にこなしていた。
「それは姉さんがいてくれたからだよ。でも、姉さん、これから大変だよ。我が家に嫁いできてほしいって釣書が沢山届いてるよ」
「皆、お世辞が上手ね。そこまでして新国王であるレオンハルトのご機嫌を取りたいのよ」
「そうじゃないと思うけどなぁ。バークレイ公爵令息だって送ってきてたよ。五年姉さんのこと待ってたみたいだけど……」
レオンハルトと話していると視線を感じるが、一際強い視線の先に誰がいるかくらいはもう分かっている。
五年間、元婚約者は働くのを辞めなかった。宰相は優秀な後継者ができたと無邪気に喜んでいる。
一体どうするつもりなのか。
公爵家の跡継ぎが宰相を務めるのは別にいい。しかし、公爵夫人となる女性や秘書や家令たちにはその分の負担がのしかかるのだ。
元婚約者は相変わらず婚約者も決めず、独身を貫いている。婚約して早く公爵夫人としての教育を施せばいいのに。
なんて不毛。なんて浅はかなんだろう。
こんな私に執着するなんて。頭がいいのではなかったの?
「とりあえず、休ませて。それから今後のことを考えるわ。レオンハルトの邪魔にならないようにするから」
「姉さんを邪魔になんて思うわけないよ」
元国王代理がいつまでも居座るなんてよろしくない。弟の婚約者だって小姑がずっと側にいたらやりにくいだろう。
貴族たちは私のこれまでを見てきているから、釣書が届くなんて予想もしていなかったのだ。
私は現状維持に五年間奔走しただけの可愛げのない国王代理だ。特筆すべき点があるとすれば、実母とその実家の面々さえ臆せずに処刑したことだろうか。
私の五年間を振り返ると、必死だったがまぁ酷い。
そんな女を誰が娶りたいと本心から思うのか。レオンハルトへの媚びで釣書まで送らなくていいのに。
旅行は離宮にある程度滞在してから、母親代わりの側室たちが新たに嫁いだ先の領地に遊びに行かせてもらう予定だ。
旅行が終わるまでに身の振り方を決めなければ。適当な貴族の後妻にでもなればいいだろうか。
そんなことを考えつつ、王族の一員として他国からの貴賓の接待を続けた。
最後の貴賓をもてなして見送った翌日、私は旅行のために自ら鞄を持ってこっそり早朝に私室を出た。
護衛騎士であるエイモス卿たちとは馬車で落ち合う約束になっている。
弟と、同行してくれる関係者以外には旅行の日程をわざと一日遅く伝えたのだ。華やかに見送られたくないというのもあるが、何よりも──。
「クリスタベル殿下」
もう私は陛下と呼ばれない。それはいい、呼び方は正しいがこの声は──。
聞きなれた声が後ろから投げかけられて思わず固まった。
繰り返すが今は早朝だ。
こんな朝早くから彼が城にいるわけがない。彼に会いたくないからこの時間にしたのに。
後ろから彼が近づいてくる足音がする。
私が動けない間に彼はあっという間に真後ろまで来ると、私の手の中の鞄を奪った。
「どこへ行かれるのですか?」
「……旅行よ」
逃げなければ。馬車まで行けばすぐに出発できる。
「明日からのご予定では?」
「気が変わったの。あなたには関係ないことよ」
「私を置いてどこへ行かれるのですか? こんな早朝からコソコソと」
誰だろう、元婚約者に本当の日程を漏らしたのは。
レオンハルトにはきつく言ってあったのに。
鞄は床に置かれて、元婚約者は後ろから私をきつく抱きしめてきた。突然の弁えない行動にさらに体が硬直する。
「殿下は旅行から帰ってこない気がします」
「……死にに行くわけではないわよ」
私は死ぬ勇気などない。誰か殺してくれるなら別だが。
明日なんて要らないと思いながら、私は同じだけ期待して夢をみて生きている。明日はきっとこれまでよりもいい日になるのだと。明日こそきっと何かいいことがあると。
「いい加減離しなさい、無礼者」
「離しませんし、大声を上げたらこの現場を目撃されますよ。周囲にどう思われるとお考えですか?」
この男に声をかけられた瞬間に、私は走って逃げなければいけなかった。
でも、この男もわざわざ声を上げる必要はなかった。
「恋人の逢引きのように見えると思いませんか? あなたの旅行の前に別れを惜しんでいるような。ある意味、これは目撃されれば既成事実です」
逃がさないとばかりにかき抱かれて、耳元でそう囁かれた。
「いい加減、味覚は戻ったんじゃないの?」
「クリスタベル殿下が食べさせてくれないと味がしません。あなたがいないと私は味も何も分からない」
「その割には宰相室で補佐として優秀だったではないの」
「あれはすべて陛下だった殿下のためです」
密着したところから体温が伝わってくる。
まとめていない私の黒髪の横に見事な銀髪が滑り落ちてきた。
私は誰かにこれほど強く抱きしめられたことがない。
側室たちは母親代わりで、異母姉たちもいたが、実の娘でも妹でもないから薄い何枚もの遠慮があった。こんな風に誰も抱きしめてはくれなかった、このおかしい元婚約者以外には。
「殿下、私のことが嫌いなのですか?」
嫌いではない。でも、愛したくない。愛されたくもない。
どうせ、王妃のような女はみっともなくて嫌われる。
「殿下は何とも思っていない男に飴を食べさせるのですか? 何度も何度も。そして、指を舐められても平気なのですか?」
返事をしないでいると、元婚約者は畳みかけてくる。
なぜ、頭がいいはずの男はこんなことをしているのか。
「まさか、私以外の男にあんなことをされたのですか?」
「するわけ、ないでしょう」
あぁ、これが私の答えなのか。
嫌だ。愛したくも愛されたくもないのに。どうして、しつこいおかしい男を手のひらで転がそうなんて思ってしまったのか。
他の誰にもあんなことはしなかった。
そして、他の誰も私をこんな風に抱きしめてくれなかった。
「なら、いいです。私はあなたがいなければ、味も何も分からないのに。殿下はもう一度私を置いて行こうとするのですか。旅行中に別の男と婚約するのですか。絶対に嫌です。私は五年間、殿下のために頑張りました」
「どんな幻影を私に見ているのか知らないけれど、私は嫌な女になるわよ」
「どんな殿下でもいいです」
「いずれ王妃みたいになるわ。夫の愛に無様に縋って心を病み、なぜ私は愛されないのかと嘆き喚き、子供ができて望んだ性別ではなかったら虐待し、息子にはべったりと依存する。この額の傷よりもよほどみっともない女になるわよ。そんな嫌われる女になるくらいなら、可愛げのない女のまま死んだ方がいいわ」
「では、それまで私と一緒にいてください。そしてもしそうなってあなたが死にたいとおっしゃるのなら、私が殺してさしあげます」
私はもう少し夢を見ていてもいいかもしれない。
心の中にいる王妃の影を追い出して。
「……あなたは今日の選択を後悔するかもしれないわよ」
「しません。試してください、ひとまず五年はいかがですか」
私の腹と肩に回る彼の腕と銀髪が見える。
私はすでに嫌な女だった。
拒絶し続けても、母に愛されなかった分を誰かに愛してほしかった。
醜いみっともない自分も全部。
元婚約者はいずれ離れていくと思ったのに、私が何度拒絶して試してもここまで追ってきてくれた。
こんな人が私の人生には必要だった。私が何をしても強く抱きしめてくれる人が。
「……まずは、湖のある領地に行きたいわ」
耳元で彼が笑った気配がした。
使っていない筋肉を使って口の周りが痛いから、私もきっと口角が上がっている。
彼といれば、こんな自分でも愛せる気がした。愛されていいのだという気がした。
きっと彼のことを近い将来愛してしまうだろう。だから遠ざけようとしたのに。それまでに王妃の影を私の中から追い出せる、今ならそう信じられた。
王女クリスタベルは五年間国王代理を務めた後、バークレイ公爵家に降嫁した。
シルヴァン・バークレイ公爵は祖父と同じく、国王レオンハルトの元で宰相を務めた。
離婚したとか、悲劇的な事件がバークレイ公爵家に起きたという記録は残っていない。ただ、シルヴァン・バークレイ公爵は妻にはちみつ味の飴を食べさせてもらうのが好きだったと子孫は語っている。




