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05 退屈だなんて思いません

 小サロンから、明るい話し声が聞こえてきて、レナートは足を止めた。サハロフ邸に、あのような朗らかな声が響くのは珍しいことだった。


(……彼女か)


 初夏の風が通り抜けるように開け放たれたままの扉に、レナートはそっと近づく。室内からは気づかれてはいない。レナートはあえて声はかけなかった。


 丸テーブルを囲んで座っているのは母とセラフィーナ。傍には数人の侍女たちと、製菓長も同席していた。テーブルの上にはたくさんの菓子類が広げられている。


「このお菓子は朝のお茶の時間にぴったりですね。しっとりしていて、とても食べやすいです」

「そうね、でも砂糖の量はもう少し控えめにしたほうが良いかしら」

「実はわたくし、甘いものは大好きなんです。公爵夫人はお好きではありませんか?」

「我が家ではあまり甘いものを好む人がいなかったから、控えめにしていたのよ。でもそうね……本当はこれくらいでもちょうど良いわ」


 母が小さく笑ったので、セラフィーナは嬉しそうに続けた。


「ではこの甘さのものと、もう少し控えめな甘さのものを作って、そちらにはレモンの風味を加えるのはいかがですか?」

「爽やかになって良さそうね。製菓長、お願いできるかしら?」


 母の言葉に、製菓長は嬉しそうにうなずいている。


(随分と馴染んでいる)


 レナートは驚いていた。セラフィーナは皆と自然に言葉を交わし、教わるだけでなく、自分の意見もきちんと伝えている。


 母がセラフィーナに柔らかなほほえみを向けているのを見届けて、レナートはそっと踵を返した。

 執務室へと向かいながら、先ほどの光景が脳裏をよぎる。


(……政略のために迎えた婚約者のはずだ)


 そう思うたび、自分の胸の奥が静かに揺れているのを感じずにはいられなかった。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝は、空が低く曇り、しとしとと雨が降り続いていた。既に身支度を整えていたレナートは、扉をノックする音に気がついた。


「入っていい」


 声をかけると、少しして扉が開き、セラフィーナが顔をのぞかせた。レナートが起きていると思っていなかったのだろうか、彼女は少し驚いた顔をしている。


「おはようございます。今朝は、お目覚めが早いのですね」

「雨音で目が覚めた。それに、きみが来ると思ったから」


 思わず口をついた言葉に、セラフィーナはにこりと花が咲くように笑った。


「ありがとうございます。けれど外へは出られそうにないので……。今日は、室内でお付き合いいただけますか?」

「構わない」


 しっとりとした雨の匂いが空気を満たしていた。朝食を済ませた後、二人で図書室へと向かう。


 窓辺には肘掛け椅子が二つ、向かい合うように置かれ、そのあいだには小さな丸テーブルがある。庭園が良く見渡せる場所だ。

 セラフィーナは椅子に腰を下ろし、こちらを見上げてほほえんだ。


「レナート様、今朝は少し肌寒いですね」

「ああ」


 レナートも向かいに腰を下ろす。

 雨音だけが静かに響いている。窓の外、庭園ではバラの花弁が濡れ、深い赤がいっそう際立って見えた。


「雨の日は、お好きですか?」

「……嫌いではない。静かで、余計な音も消えて、考え事には向いている」

「そうですね。こんな風にしとしとした雨は、良いですよね。世界が柔らかくなる気がします」


 窓の外を見つめるセラフィーナの横顔は穏やかだった。


「きみは、外に出られないと退屈だろう」

「いいえ、こうして静かに過ごす時間も好きですよ」


 少し意外で視線を向けると、セラフィーナはゆっくりほほえんだ。


「レナート様と過ごす時間を、退屈だなんて思いません」


 レナートの心の奥底で、何かがわずかに揺れた。それが何かは分からない。


 それから、少し探したい本があると言って、セラフィーナは書架へ向かった。高い棚を見上げ、小さな脚立に上がって腕を伸ばして本を手に取ろうとしている。

 気をつけるように声をかけようとした、その瞬間――。

 しとしと降り続けていた雨音を裂くように、カッと白い光が差し込んだ。次の瞬間、轟くような雷鳴が図書室を揺らした。


「きゃっ……!」


 セラフィーナの肩がびくりと跳ね、体のバランスを崩す。


「あっ――」

「危ない!」


 レナートは反射的に駆け寄り、彼女の腰を抱きとめる。セラフィーナはそのままレナートの胸に収まった。セラフィーナが手をかけていた場所から、数冊の本がまとめてばさりとすべり落ちた。

 セラフィーナの表情には、怯えと安堵が入り混じっている。息遣いが近い。彼女の香りと体温が、レナートの鼓動を速くした。


「……大丈夫か?」

「は、はい。ごめんなさい、びっくりしてしまって」


 その時、再び遠くで雷鳴が鳴り響いた。セラフィーナは小さく肩を震わせてレナートの服をぎゅっとつかむ。レナートの胸の奥が、再び強く脈打った。


 やがてセラフィーナは小さく息を整え、顔を上げた。


「レナート様、ありがとうございます。助けていただいて」

「……いや、無事ならそれでいい」


 レナートは、そっと手を離した。床に散らばった本を見て、セラフィーナは恥ずかしそうにほほえんだ。


「片づけますね」

「……手伝おう」


 二人で本を拾い集めながらも、先ほどの体温の余韻が心に残っていた。


「こんな穏やかな雨なのに、突然でしたね。雷は、少し苦手で……」


 恥ずかしそうに言ったセラフィーナの声に、レナートは思わず目を向けた。

 視線が合うと、セラフィーナは過去の記憶を話してくれた。


 家族で領地で過ごしていた際、嵐に見舞われた。その夜、河川が決壊しそうになっていると報告を受け、父親が現地へ向かったこと。窓の外で光る稲妻と響く雷鳴に、幼い彼女は震えていたこと。母親がずっと抱きしめてくれていたが、父親が帰ってこないのではないかと、眠れずに夜を過ごしたこと。


 淡々と話しながらも、セラフィーナの声には微かな怯えがあった。

 レナートは、気づけば言葉を口にしていた。


「もしもまた嵐が来ても、この家にいれば、安心だ。ラトゥリ侯爵が領地と家族を守ったように、私も必ず家族を守る」


 セラフィーナは驚いたように目を見開き、それからゆっくりとはにかむように笑った。


「はい。ありがとうございます」


 本を拾い終えると、セラフィーナは書架を見上げた。本をもとの位置に戻すため、脚立を確かめようとするセラフィーナを見て、レナートはそっと彼女の手から本を取った。

 無言でそれを書架に戻していくと、セラフィーナは脚立には上がらず、レナートの横で本を手渡してくれる。

 本を戻し、レナートはもともとセラフィーナが取り出そうとしていた本を手に取る。革装丁の古い歴史書だった。


「これか?」

「はい」


 セラフィーナは胸の前でその本を抱え、嬉しそうにほほえんだ。

 その笑顔はあまりに自然であたたかく、レナートは思わず視線を逸らす。


「ありがとうございます」

「……きみが怪我をしたら困る」

「はい、気をつけますね」


 それから窓際に戻り、読書のための沈黙が流れた。不思議と心の奥まで沁みるような、そんな時間だった。


 部屋の外では相変わらず雨が降り続いている。けれど雷鳴が残した熱が、レナートの胸に言葉にならない想いを落としていた。

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