26 一緒に生きていこう
冬の冷たい空気が和らぎ、柔らかな春の光が庭園や邸宅の白壁に溶け込む季節が訪れていた。空気にはほのかな若草の香りが混じり、すべてが新たな始まりを祝福しているかのようだった。
セラフィーナがレナートの婚約者として、このサハロフ邸にやってきてから、まもなく季節が一巡しようとしていた。
始めて会ったあの日のことが、今ではもう遠い昔のことのように感じる。明日、二人は結婚式を迎える。レナートと永遠の誓いを交わすその日が、すぐそこに迫っている。まるで夢を見ているかのようで、現実感がなかった。
明日という特別な日を前に、サハロフ邸は厳かな空気に包まれていた。使用人たちは皆、いつにも増して規律正しく動き、邸内は隅々まで磨き上げられ、庭園も完璧に整えられていた。
夜更けになってもセラフィーナは寝衣のまま窓辺に立ち、静かに外を眺めていた。部屋に差し込む月明かりが頬を照らしている。胸の奥では期待と、ほんの少しの不安が交錯して、落ち着かなかった。
その時、控えめなノックの音が静寂を破った。セラフィーナはわずかに眉をひそめる。こんな時間に誰だろう。ミリアムたち侍女はすでに下がっている。まさか緊急のことがあったのだろうかと、不安が胸をよぎる。
セラフィーナはそっと扉に近づき、静かに声をかけた。
「どなたですか?」
扉の向こうから返ってきたのは、意外な声だった。
「私だ」
レナートだった。その声は少し柔らかく、しかしどこか緊張を帯びていた。セラフィーナは驚きに目を見開く。こんな夜更けに、彼が訪ねてくるなんて。
「レナート様?」
「ああ。少しだけ、話したい」
セラフィーナは扉を開けた。そこに立っていたレナートは、いつものように端正な顔立ちではあったが、どこか落ち着かない雰囲気を漂わせていた。くつろいだ服装に身を包み、洗いたての黒髪がさらりと額にかかっている。その姿に、セラフィーナは思わず息をのむ。
「すまない。こんな時間に」
彼は、少し気まずそうに目を伏せた。
「いいえ。でも、どうされたのですか?」
セラフィーナが心配になって尋ねると、レナートは一瞬ためらい、それからゆっくりと顔を上げた。
「……眠れなかった」
彼の率直な言葉に、セラフィーナは小さく目を見開く。やがて、思わず笑みをこぼした。緊張が一気にほどけていく。
レナートは小さく息を吐いた。
「緊張して眠れないなんて……子どもの頃でも、こんなことはなかった」
少し気恥ずかしそうにレナートが言う姿に、セラフィーナの胸はきゅっと締めつけられる。
(かわいい……)
口には出せなかったが、セラフィーナは頬が緩むのをとめられない。
彼は常に冷静で、感情を表に出さないように日々努めている人だ。そんな彼が、自分と同じように明日の訪れに心を震わせている。そのことがたまらなく愛おしく、セラフィーナの胸をあたたかく満たした。
「レナート様」
「セラフィーナ」
二人の声が、同時に重なる。そのことに二人は目を合わせて小さく笑った。レナートは、一歩だけセラフィーナに近づく。二人の間には、わずかな距離しかない。吐息がかかるほどの近さに、心臓が大きく脈打った。
「明日、きみを妻として迎えられることが、信じられないほどに幸せだ」
彼の言葉は、まるで魔法のように胸の奥に深く染み渡る。目の奥がじんわりと熱くなり、セラフィーナは精一杯の気持ちを込めて答えた。
「わたくしも、です」
レナートは、そっとセラフィーナの頬に手を添え、親指で優しくなでた。その手のひらから伝わる熱が、彼女の心を震わせる。レナートはそのまま、引き寄せられるように顔を近づける。セラフィーナは、目を閉じ、彼のあたたかい息遣いを感じた。そして、彼の唇がセラフィーナの唇にそっと触れる。
触れるだけのキスが終わり、レナートは名残惜しそうにセラフィーナの頬から手を離した。
「……もう戻る。きみの顔を見たら、安心した」
「はい。おやすみなさい」
「また明日」
魅力的なほほえみを残して、レナートは静かに部屋を後にした。扉が閉まる音を聞きながら、セラフィーナはあたたかくなった自分の唇にそっと触れた。まだ心臓の鼓動は早く、しばらく眠れそうになかった。
◇ ◇ ◇
式は、サハロフ邸の広大な庭園に特別に設えられた祭壇で執り行われた。柔らかな春の陽光が降り注ぎ、祭壇を彩る純白の花々が、真珠のようなきらめきを与えている。風が揺らすたびに、甘い香りがあたりに満ちていった。
招待客は皆、二人の門出を祝福するあたたかいまなざしで、その時を待っていた。親族の席にはサハロフ公爵家、ラトゥリ侯爵家の一同に加え、遠方から駆けつけたセラフィーナの祖父母であるカルドナ辺境伯夫妻の姿もあった。
やがて、楽団の奏でる美しい音楽が流れ始めた。セラフィーナは、ラトゥリ侯爵にエスコートされ、ゆっくりと祭壇へと進む。繊細なレースと、きらめくダイヤモンドが散りばめられた純白のウェディングドレスは、彼女の美しさをこの上なく引き立てていた。その長い裾が、招待客の間を静かに流れていく。
視線の先には、レナートが静かに立っていた。彼の瞳には、ただセラフィーナだけが映っている。
祭壇の前で、ラトゥリ侯爵が彼女の手をレナートに託した。彼はその手をしっかりと受け取り、まっすぐにセラフィーナの瞳を見つめる。そのまなざしには、あふれる愛情と、深い感動がにじんでいた。
「きみは、まるで夢のように美しい」
レナートの言葉に、セラフィーナの頬がバラ色に染まる。
「レナート様も、とてもすてきです」
式が始まり、司祭の声が厳かに響き渡る。やがて、夫婦の誓いを求める時が訪れた。レナートは、しっかりとセラフィーナを見つめて、誓いの言葉を口にした。
「セラフィーナ、愛している。私は一生をかけて、きみを幸せにすると誓う」
祭壇には深い感動の沈黙が満ちた。セラフィーナは、涙で潤んだ瞳でレナートを見上げ、震える声で答えた。
「わたくしも誓います。レナート様を、一生愛します」
彼女の言葉に、レナートは幸せを噛みしめるような笑みを見せた。二人の間に、言葉以上の理解と愛情が確かに存在していることを、セラフィーナは感じていた。
司祭は、縁に繊細な銀細工が施された、小さなガラスの箱を差し出した。中には純白のシルクのクッションが敷かれ、その上に二人の指輪が寄り添うように置かれている。レナートは、まずセラフィーナの左手の薬指に、輝く指輪をはめた。次に、セラフィーナがレナートの指に指輪をはめる。その瞬間、ふたりの未来が確かに結びついたように思えた。
「それでは、誓いのキスを」
司祭の声に、レナートはゆっくりとセラフィーナの顔を両手で包み込んだ。言葉はなかったが、互いの心は確かに通じ合っていた。そして、ゆっくりと唇が重なる。
柔らかな春の風が、祭壇を吹き抜けていった。その瞬間、空から舞い降りたのは、色とりどりの花びらだった。花のシャワーが祝福のように降り注ぎ、二人の姿を美しく彩る。
招待客から、一斉に拍手が巻き起こった。祝福が波となって、二人の新たな門出を優しく包み込む。
レナートは、皆の祝福に応えるように、ゆっくりと顔を上げた。彼の隣で、セラフィーナは、少し涙ぐみながらも、満面の笑みを浮かべている。
「セラフィーナ、一緒に生きていこう」
「はい。ずっと、レナート様のそばにいます」
二人はしっかりと手を取り合い、降り注ぐ花びらの中を、静かに歩き出した。
『きみを愛することはできないと思う』
そう告げられて始まった二人の物語は、今、本物の愛に満ちた、輝かしい新章を迎えたのだった。
(THE END)




