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22 信じています

 サハロフ邸の庭園に、セラフィーナが心待ちにしていた温室が完成した。陽光をいっぱいに浴びてきらめくその建物は、誰もが息をのむほどの完成度だった。全面が丁寧に磨かれたガラス窓で囲まれており、冬でも柔らかな陽光を集め、その熱をしっかりと中に蓄える造りとなっている。

 庭園の景色は、つい先日までの黄金色から、灰色を帯びた冬の気配へと変わりつつある。その移ろいは、庭の植物たちにも容赦なく忍び寄っていた。しかしこの温室の中では、まるで季節が止まったかのように、まだ鮮やかな色彩を楽しむことができた。


 木枯らしが音を立ててガラス窓を揺らす中、セラフィーナは夢中になって温室の花々の世話をしていた。新しい鉢に土を足し、傷んだ葉を優しく摘み取っていく。


「セラフィーナ」


 レナートの声に、セラフィーナは驚いて顔を上げた。集中しすぎていたのか、彼が温室に入ってきたことにまったく気がついていなかった。レナートは重厚な上着を羽織ったままで、まだ外から戻ったばかりのようだ。

 レナートがそばに来ると、セラフィーナは手入れ用の手袋を外した。それを受け取ったミリアムは、主人の会話を邪魔しないよう、静かにその場を離れた。


「レナート様、どうされました? まだ、お昼を過ぎたばかりなのに――」


 予定より随分と早い帰宅に、何か緊急の要件でもあったのだろうかと心配になる。

 レナートはそんなセラフィーナの戸惑いを察したのか、大丈夫だというように小さくほほえんだ。


「急なキャンセルがあったので戻った。今日は一緒に夕食を」


 その言葉に、セラフィーナの顔がぱっと輝いた。


「本当ですか?」


 弾むような声で尋ねると、レナートは優しい表情でうなずいた。


「ああ。君が良ければ、だが」

「もちろんです」


 セラフィーナはにっこりとほほえんだ。

 その笑みを受け止めながら、レナートはあらためて温室の中をゆっくりと見渡した。彼の瞳が、色とりどりの花々や生命力に満ちた緑の葉を捉える。


「――見事だな。想像していた以上に、素晴らしい」


 感心したようにつぶやいたレナートの言葉に、セラフィーナはまるで自分自身を褒められたかのように上機嫌になった。満面の笑みが顔に広がる。彼女が世話をした植物たちが、こうしてレナートに認められるのは、この上ない喜びだった。


「温室の中だから、こうやって美しいまま越冬させることができます。冬の庭は寂しくなりますが、ここならいつでも花が楽しめます。レナート様のおかげです」

「いいや、これほど生き生きとした姿を見せてくれるのは、きみの世話の賜物だろう。きみがどれほど心を込めているか、よく分かる」


 そんな風にまっすぐに言われて、セラフィーナはますます気を良くした。


「レナート様、こちらも見てください」


 セラフィーナは軽やかな足取りでレナートを案内する。色とりどりの鉢植えが整然と並ぶ一画を過ぎ、一緒に向かったのは温室の一番奥まった場所だ。そこでは、辺り一帯に爽やかで甘い香りが漂っていた。


「……オレンジか」


 レナートの視線の先には、小さな太陽のような実をつけた、大型の鉢植えがいくつも並べられていた。どれも丸々と育っている。ガラス窓の外の世界と、ここだけ季節が違うかのようだ。


「はい。温室ができあがるのを待って、取り寄せたんです。レナート様にたくさん食べてもらいたくて。体にも良いと聞いていますし、疲れた時に食べると気分転換にもなりますよ」


 そう言うと、レナートは驚いた様子でセラフィーナに向き直った。


「……私のために、取り寄せたのか?」


 彼にじっと見つめられて、セラフィーナは頬が熱くなるのを感じ、少し困って言葉を選んだ。


「もちろん、わたくしも食べますよ?」


 そうすると、レナートがふいに距離を詰めてきた。

 セラフィーナは驚いて彼を見上げる。レナートはつけていた革手袋を外し、ゆっくりと腕を伸ばした。彼の指先が、セラフィーナの頬にそっと触れる。少しひんやりとした肌に、レナートのあたたかい体温がじんわりと伝わってきた。

 レナートの瞳の奥には、セラフィーナだけが映っている。その目は、彼女の顔色や表情までを、確かめるように真剣に見つめていた。


「すっかり冷えている。いくら温室とはいえ、暖炉があるわけではない。屋敷の中とは違うのだから、あまり長くいるのは良くない。私のために色々としてくれていることは嬉しいが……無理はしないでくれ。君が体を壊さないか、心配だ」


 心配するというよりは、請うようなまなざしだった。セラフィーナは何も言えずにいた。


 あの告白から、レナートはこうやって距離を詰めてくるようになった。こんな近くで、こんなにも真摯に見つめられてしまえば、くらりとしてしまう。心臓の鼓動が、自分の耳にも聞こえてきそうなほど高鳴る。一歩後ろに下がって、この距離から逃れようと思うのだが、思いに反してセラフィーナの体はぴくりとも動かない。まるで、魔法をかけられたかのようだった。


 言葉が継げないでいるセラフィーナに、レナートがふと口にした。


「聞いてもいいか?」


 こくり、とセラフィーナは言葉の代わりにうなずく。


「――あの男の、どんなところに惹かれた?」


 その唐突な問いに、セラフィーナは少しだけ驚く。「あの男」が、誰のことを指しているのか、セラフィーナはすぐに理解できた。

 レナートのために、セラフィーナは正直に答えた。


「……わたくしは昔から、歴史を学ぶのが好きでした。エドワードは歴史学者だと身分を偽り、わたくしはそれを信じていました。気がついたら、彼との話に夢中になっていました」


 レナートはセラフィーナの頬から手を放さず、そこをそっと優しくなでている。


「私は歴史学者ではないが、成績は悪くなかった」


 レナートは意外にも、自身の学業成績に言及した。張り合うように少しむっとしたような表情のレナートにセラフィーナは驚き、それから思わずくすりと笑ってしまう。


「知っています。お兄様から聞きました。レナート様は、何の教科においても優秀だったと」

「きみが望むなら、もっと深く研究する」

「だめです。ただでさえレナート様はお忙しいのですから」


 そう言ってほほえむと、レナートの視線が一層強くなる。

 彼が触れた頬から、じわりと熱が全身に広がっていくのを感じて、セラフィーナは困ったような顔で視線を逸らした。


「……私が触れるのは、嫌か?」


 レナートの声がかすかに緊張しているのが分かった。


「……いいえ。でも少し怖くて」


 セラフィーナがそう口にした途端、レナートの顔がさっと青くなり、ぱっと手が離れた。セラフィーナは慌てて、彼の勘違いを正そうとした。


「違うんです、ごめんなさい」


 セラフィーナの頬は熱を持ったままだ。


「――エドワードのことがあったから……信じてしまうことが少し怖いんです。だから初めて会った時、正直なレナート様に逆に安心したんです」


 その言葉に、レナートの顔に安堵の色が広がった。そして彼はもう一度、セラフィーナの瞳をまっすぐに見つめた。


「私は、絶対にきみを裏切らない」


 その力強い言葉に、セラフィーナは静かにうなずいた。彼の揺るぎないまなざしが、セラフィーナの心の奥深くにまで届き、そこに確かなあたたかさをともす。


「信じてくれるか?」


 そう言ったレナートの言葉が、セラフィーナの記憶を呼び起こす。レナートはエドワードと対峙する前、セラフィーナに言ってくれた。


『信じてほしい。きみのことは必ず守る。あの男に、二度と触れさせはしない』


 あの時だって、それがレナートの心からの誓いだと、セラフィーナにはちゃんと伝わっていた。


「信じています」


 ほほえんで答えると、レナートはそっとセラフィーナの髪をひとふさ手にとった。そして頭を下げて、そこに恭しく口づける。

 手の甲にキスを落とすよりも、もっと息が近くて、セラフィーナはまた胸が苦しくなる。すっかり情熱的になったアイスブルーの瞳に捕まって、弱々しい声を上げる。


「レナート様、やめてください……」

「きみが嫌なら、やめる」

「嫌ではないですけれど――」

「けれど?」

「胸がどきどきして……苦しくなります。これ以上は、息ができなくなりそうで……倒れてしまいます」


 頬を赤く染めて逃げるように視線を逸らすと、レナートは苦笑して、少しセラフィーナと距離を取った。


「それは困るな」


 そしてレナートが差し出した手に、セラフィーナはそっと手を重ねる。エスコートしてくれる彼と一緒に、穏やかなペースで温室を進む。そこでは、春のようなやさしく甘やかな香りが漂っていた。

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