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17 ふざけるな

「エドワード・ノーウッド。ニール・ライルズ。それとも、別の名で呼ぶべきか?」


 その男を前にして、レナートは努めて冷静な声を出した。


『昔、好きな人がいました』


 レナートの胸の奥底では、セラフィーナの声が繰り返し響いていた。喉の奥で沸騰するような感情を抑え込む。


 男――エドワードは、柔和な笑みを浮かべた。その淡い金色の髪が、一見すると儚げな印象を与える。

 三年前、追い詰められ、命を落としたはずの男が、今こうして目の前に立っている。それは、彼が並々ならぬ執念と能力を持っている証だった。正体を知らなければ、死の淵を生き延びた狡猾な諜報員だとは、誰も思わないだろう。


 レナートの隣に立つロランもまた、その視線を決してエドワードから逸らさなかった。兄として、妹を深く傷つけた相手を許せるはずがない。彼の胸中にも、炎のような怒りが渦巻いているだろう。だがロランもまた、冷静な表情を崩さなかった。


 取引の場に選ばれたのは、厚い石壁に囲まれた聖騎士団の一室だった。静まり返った空気が、かえって緊張を研ぎ澄ます。エドワードの要求により、王都の聖騎士が立ち会うことになった。聖騎士の存在は、エドワードが万が一の事態に備えている証でもある。どこまでも周到な男だ。


「どの名前でもかまいません、サハロフ小公爵様」


 エドワードの声は穏やかで、まるで友人と談笑しているかのようだった。その態度が、レナートの苛立ちを一層募らせる。


(癇に障る男だ)


 感情を表に出さないように、レナートは内心で深く息を吐いた。


「なぜ今になって、セイモア伯爵とバルトン公国を売る気になった?」


 レナートの問いに、エドワードは穏やかな笑みのまま、何の淀みもなく答えた。


「三年前、死の淵まで追い詰められました。カルドナ騎士団は本当に優秀でした。死を偽装し、ぎりぎりで生き延びたのに……公国はそんな私を見捨てました。迎えにくるはずだった仲間は、約束の場所に現れませんでした。思っていた以上に、疎まれていたようです。命令違反も犯したからでしょう。セラフィーナ様をさらうという」


 その瞬間、レナートの理性が切れた。腰の剣を抜き放つと、鋭い切っ先がエドワードの喉元にぴたりと突きつけられる。金属と肌が触れる寸前の距離。それでもなお、エドワードの笑みは消えなかった。


「ここで死ぬことは、想像しなかったか?」


 レナートの声は、地の底から響くように低く、殺意に満ちていた。もし聖騎士がこの場にいなければ、セラフィーナのために、この場で全てを終わらせていただろう。

 エドワードは瞬きひとつせず、ただ静かに言った。


「セイモア伯爵を捕らえることと、私の命と、どちらがグランヴェールにとって価値があるのか、ご判断いただけると考えました」

「サハロフ小公爵様」


 聖騎士の声が、レナートを引きとめた。レナートは一度、深く息を吐いた。それからゆっくりと剣を下ろし、鞘に納めた。


 レナートが一旦引いたのを見て、今度はロランが口を開いた。


「それで、今回はあえてバルトン公国を売るというのか。三年前に見捨てられた復讐として」

「そうですね。組織の後ろ盾がなく逃亡した三年間は、なかなかに困難な日々でした。ここまでくるのに、時間が随分かかりました。ようやく準備を整え、餌をまいたら、セイモア伯爵が見事に罠にかかったというわけです。グランヴェールでセイモア伯爵が失脚すれば、公国内で伯爵との連携を主導していた強硬派勢力が求心力を失うでしょう。あとは勝手に内部分裂するだけです」

「それが最終的な目的だったのか」

「ええ。裏切られたままでは、我慢ができなかったので」


 エドワードの表情には、何の曇りもない。


「セラフィーナをさらう計画は、なぜ実行しなかった」


 ロランがさらに踏み込んだ。ロランの瞳には、奥底に激しい怒りが見て取れた。兄として、そのような計画があったこと自体が許せないのだろう。それでも理由は聞いておく必要がある。

 エドワードはすっと真面目な顔になった。


「セラフィーナ様を、傷つけたくはなかったからです」


 それを聞いた瞬間、レナートは我慢ができずに声を荒げた。


「ふざけるな。お前は彼女を利用した」

「はい、それが任務でしたので。……なのにセラフィーナ様をさらうことは、できませんでした」


 レナートはきつく眉間を寄せた。セラフィーナはかつて、この男のことを想っていた。そのことが、レナートの心に深く刻まれている。


(この男も、セラフィーナを――?)


 もしそうだとすれば、エドワードの行動原理に別の側面が加わることになる。


「……彼女に会うことも、目的のひとつだったのか?」


 レナートの問いに、再びエドワードはほほえんだ。


「そうですね。もう一度、セラフィーナ様のお元気な姿を見ることができて、本当に良かったです」


 その言葉は、再びレナートの怒りに火をつけた。この男は、セラフィーナを利用したあげく、平然と、まるで善意であるかのように振る舞っている。レナートは再び剣に手をかけようとしたが、ロランが素早く彼を制した。


「レナート様、もうやめましょう。これ以上は聞く価値がありません」

「…………」


 ロランに言われて、レナートは少し冷静になった。確かに、これ以上聞く価値はないだろう。

 レナートは息をついて、再びエドワードに冷たいまなざしを向ける。今度こそ感情を交えずに、ただ取引の進行に集中する。


「証拠を出せ」


 しかし、エドワードは臆することなく、要求を言った。


「命の保証を、確約いただけるのであれば」

「ここにいる聖騎士が証人だ。命は保証する。ただし、それは我々が提示する条件を全て受け入れた場合に限る」

「……どのような条件でしょうか?」

「まずお前を国外へ追放する。生きるために必要なものは与える。遠い地で勝手に生きればいい。二度とグランヴェールの土を踏むな。万が一戻れば、理由を問わず即刻処分する」


 エドワードの顔から一瞬、笑みが消えた。だがそれは本当に一瞬のことで、すぐに彼は再び穏やかな表情に戻ると、深々と頭を下げた。


「心得ておきます。そろそろ、追われることのない生活を送りたいと願っていました。それがかなうのであれば、従います」


 そう言って、エドワードは懐から厳重に包まれた文書の束を取り出した。それはレナートに手渡され、レナートとロラン、そして聖騎士の視線が、一瞬にしてそこに集中する。

 

「セイモア伯爵とバルトン公国の間で交わされた、カルドナ辺境伯領併合に関する計画の書類と、秘密協定の全文です」


 レナートは一枚一枚、注意深く確認した。手書きの署名、公国の紋章、そして詳細な計画が記されている。ロランもまた、その隣で息を詰めて確かめている。二人の視線は、書かれた文字の隅々までを追い、その内容の真偽を見極めようとしていた。聖騎士も厳粛な面持ちでそれを見守っている。


「……この証拠を、完全に信用したわけではない。真偽が確定するまでは、取引は保留だ。それまでお前の身は、聖騎士団の拘束下に置く」


 レナートが冷徹に言い放った声が、石壁に低く反響した。

 エドワードは何も言わず、ただ静かにうなずいた。彼の顔には、深い満足感のようなものが浮かんでいた。

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