13 もっと聞かせてください
深い眠りの底で、セラフィーナは夢を見ていた。
意識は、まるで古びた書物のページをめくるように、過去へと滑り落ちていく。それはまだ十七歳の頃、母方の祖父が治めるカルドナ辺境伯領を訪れていた時の、胸を締め付ける記憶だった。
◇ ◇ ◇
「本当に、お見舞いに行かれるのですか?」
後ろから声をかけてきたのは、侍女のミリアムだった。彼女の声には、戸惑いと心配がにじんでいる。
セラフィーナは、護衛騎士のウォレスを伴って、辺境伯領にある修道院に併設された診療所へ向かっていた。侍女たちから、旅の途中で倒れたという歴史学者がそこで保護されているという話を聞いて、訪ねてみたくなったのだ。
「ええ。少しだけ、お話を伺ってみたいの。歴史学者の方だと聞いたわ」
通っている王立学校でも、セラフィーナはとりわけ歴史の授業が好きだった。過去の戦争、災害、政策の成功や失敗を知ることで、同じ過ちを繰り返さないための判断力が養われると、父と母から教えられてきたからだ。
ミリアムは、セラフィーナが素性のはっきりしない人物に会うことを心配しているのだろう。だがセラフィーナの足取りには迷いがない。ウォレスが傍にいるし、何より好奇心の方が勝っていた。
診療所の廊下は薬草と煎じ薬の香りに満ち、夏の終わりを感じさせる空気が漂っていた。
扉の前でウォレスが立ち止まり、振り返る。
「こちらでございます、セラフィーナ様」
ウォレスが軽く戸をたたくと、やがて中から静かな声が応じた。
「どうぞ、お入りください」
中には窓際の光の中で、ベッドに腰をかけている青年がいた。窓から差し込む午後の光が、彼の金色の髪を淡く輝かせ、深い濃紺の瞳がまっすぐにセラフィーナを見つめていた。
「ラトゥリ侯爵令嬢セラフィーナ様にご挨拶を」
ウォレスに促され、青年はゆっくりと立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、エドワード・ノーウッドと申します。この度はカルドナ辺境伯家のご厚情により、このように診療所で療養の機会をいただき、深く感謝申し上げます」
「お体は大丈夫ですか? 無理をなさらず、どうぞベッドにおかけになって」
セラフィーナはそう言ったが、エドワードは立ったまま答えた。
「はい。ご心配をおかけしましたが、おかげさまで快方に向かっております」
エドワードは小さくほほえみ、胸元から一通の封筒を取り出した。
「よろしければ、私がこの地に参りました事情を示す書状をご覧ください」
ウォレスが受け取って目を通し、セラフィーナに手渡す。セラフィーナはそこに記されていた名前を声にする。
「王都の歴史学者、ハロルド・ファーンワース博士の――」
「はい。私は博士のもとで歴史を学んでおります。国境地帯の歴史的価値を調査するよう命じられましたが、旅の途中で体調を崩してしまい……お恥ずかしい限りです」
紹介状には、博士の署名と印影、そしてエドワード・ノーウッドを国境地帯の学術調査へ派遣したい旨が、端正な筆致で記されていた。
セラフィーナの胸は期待と緊張で高鳴っていた。
「ファーンワース博士のお名前は存じています。大変ご高名な方だと聞きました。あなたも、お若いのにすばらしいわ」
セラフィーナよりいくつか年上だろうが、その若々しい顔立ちに反して、彼の瞳には深い知性が宿っているように感じられた。きっととても優秀なのだろう。
「私はまだ未熟な身ではございますが、師の名に恥じぬよう、真摯に学び続けたいと願っております」
その話しぶりは穏やかで、つつましい。ただの旅人ではない。知を求めてここまで来た、歴史学者。セラフィーナは歓迎の気持ちを込めて言った。
「あなたの体に、大事がなくて良かったです。わたくしも歴史に興味があって……よければ、あなたの話を聞かせてください」
「そのようなお言葉、大変光栄です」
エドワードは少し恥ずかしそうに、柔らかくほほえむ。
セラフィーナはそっと紹介状をウォレスに返しながら、胸の奥がわくわくと高鳴るのを感じていた。
ウォレスは紹介状を懐にしまったが、鋭い視線でエドワードを見つめ続けていた。
◇ ◇ ◇
それから、セラフィーナは幾度となくエドワードを訪ねるようになった。エドワードの体調はすぐに回復し、診療所から修道院の一室へと居を移していた。
彼は博識で、セラフィーナの知的好奇心を刺激してやまなかった。王都での最新の研究事情から、古代文明の叙事詩まで、エドワードの語る物語はどれも色鮮やかで、セラフィーナを夢中にさせた。
「今朝は少し風が冷たかったでしょう、セラフィーナ様」
その日もエドワードは、穏やかな笑みを浮かべながらセラフィーナを迎えた。
「ええ。秋がもうそこまで来ているみたい」
「この地の四季は、本当に繊細で美しいですね。辺境伯領は、南と北の気候が交わる場所。そうした移ろいが、自然の彩りを豊かにしているのでしょうね」
セラフィーナは嬉しそうにほほえみ返した。
「きっとそうね。春は雪解け水が畑を潤し、夏は湿り気を帯びた風が作物を育て、秋には甘い葡萄が実り、冬はとても厳しい寒さが訪れるけれど……それもまた、この辺境伯領の大切な一面なの」
エドワードの瞳は深く輝き、心から感嘆しているようだった。
「その葡萄は、この地で昔から育てられているのでしょうか? それとも、どこかから伝わったものなのですか?」
「昔、何代か前の当主が、苗木を取り寄せたと聞いたわ。今ではこの地の名産品の一つよ」
セラフィーナは得意げに話しながらも、そんな話にも彼が真剣に耳を傾けてくれることが嬉しかった。
「こちらで生産された葡萄酒は、隣接するバルトン公国にも輸出をしているのですよね?」
「ええ。バルトン公国との交易は、ずっと昔から続いているの。グランヴェール王国で、唯一の交易路があるから」
「でも、危険ではありませんか? バルトン公国とは良好な仲だとは言えないでしょう?」
「そうね、エドワードの言う通りよ。だからこそ、カルドナ辺境伯家が交易路を管理しているの。この交易がバルトン公国にとってなくてはならないものだからこそ、あちらも手出しはできないのよ。交易路を守るカルドナ騎士団は、とても優秀なのよ」
「騎士団には、誰でも入れるのですか?」
「いいえ。カルドナ辺境伯領で生まれた人間にしか入団資格がないの」
セラフィーナは、いつの間にか話す声が弾んでいる自分に気がついた。辺境伯領について語ることができて嬉しかったのだ。
「なるほど。とても勉強になります」
エドワードは静かにほほえむ。
ふと、セラフィーナは机に置かれた本を見つけた。革の装丁に金の文字が刻まれた、古い歴史書だった。
「エドワードは、こんなに難しそうな本を読むのね」
「はい。ですが、まだ学びの途中です。古い記録の中に、今につながる道を見つけるのが楽しいのです」
エドワードの言葉に、セラフィーナは強くうなずく。
「セラフィーナ様はどうですか? 辺境伯領の歴史書や古文書などをご覧になることはありますか?」
「ええ、もちろん。でも、わたくしの知識はきっと、あなたから見ればつたないものだと思うわ」
「そんなことはありません。セラフィーナ様がこの地で見て、聞いて、感じてこられたことこそが、私のような書物ばかり読んできた者には得られない、本物の歴史だと思います」
その言葉に、セラフィーナの胸の奥で温かいものが膨らんだ。自分の話をただのおしゃべりではなく、価値があるものとして聞いてくれる。それが素直に嬉しかった。
「セラフィーナ様のお話は、どれも心に響くものばかりです。よければセラフィーナ様がご存じのことを、もっと聞かせてください」
エドワードは少し身を乗り出すようにして、熱のこもったまなざしでセラフィーナを見つめた。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいわ」
セラフィーナは頬を染め、視線をわずかに逸らした。なぜか、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
◇ ◇ ◇
日を重ねるごとに、二人の会話は深く、長くなっていった。エドワードはセラフィーナの語る言葉の端々から、季節ごとの収穫量、街道の補修状況、交易相手や近隣貴族との贈答品のやり取りといった、辺境伯領の情報を巧みに聞き出していく。
セラフィーナは、エドワードの研究に協力したいと思っていた。そして自分の話を熱心に聞いてくれるエドワードに、すっかり心を許していた。
「セラフィーナ様の瞳は、この辺境伯領を愛する気持ちであふれていますね」
いつものように歴史書を広げながらおしゃべりをしていると、エドワードが不意にそうつぶやいた。セラフィーナは少し驚き、頬を赤くする。
「おじい様とおばあ様の、大切な場所だから」
エドワードは、まっすぐにセラフィーナを見つめてきた。彼の深い濃紺の瞳に、セラフィーナは囚われる。
「……セラフィーナ様の瞳は、とても美しいですね」
そのまなざしと言葉は甘く、そしてどこか切なさを帯びて、セラフィーナの胸に迫った。
言葉が出なくなったセラフィーナの代わりに、間を置かずに返したのは傍にいたミリアムだった。
「誤解を招くようなお言葉は、お控えください。お嬢様のお立場に差し障ることもございます」
冷静なミリアムの声に、セラフィーナははっとする。ミリアムは正しい。
エドワードは落ち着いた様子で頭を下げていた。
「無礼をお許しください。つい、言葉が過ぎました」
「いいのよ。ミリアムも、ありがとう」
セラフィーナはそう言って、普段通りの笑みを見せた。
「わたくし、もうすぐ王都に戻るの。エドワードも王都に戻ったら、ぜひ知らせて。ファーンワース博士にも、よければお会いしたいわ」
「もちろんです、セラフィーナ様。またお目にかかれます日を、心待ちにしております」
エドワードは、その瞳を優しく細め、まるでそっと包み込むようなまなざしでセラフィーナを見つめた。
セラフィーナの胸は小さく波打ち、頬は熱を帯びた。
セラフィーナの心は、確かに恋に傾いていた。身分違いの、決して口に出すことのできない淡い恋心。しかし、その甘い想いの裏に潜む不穏な影に、彼女はまだ気づいていなかった。




